5
昼食後、スリンは所用で外へ出て行った。ティセはリュイを居間へ残し、後片付けをするコイララを手伝いに裏庭へ出た。共同井戸から汲み出してきた水を溜める大きな甕と、大小さまざまな桶が無造作に置かれている。昼下がりの日差しが甕の水に反射して、きらきらと輝いている。
コイララは足首程度の高さの腰かけに座り、母屋に背を向けて洗いものをしていた。ティセはその後ろ姿を暫し見つめた。折れそうな二の腕、小さな肩、細い腰、先ほどの涙の滲んだ目を思い出す。痛々しい、という言葉以外浮かばなかった。事情はなにも知らないけれど、リュイの兄を責めてやりたい気持ちでいっぱいになる。
「手伝うよ、コイララ」
「そう? ありがとう」
にっこりと返す笑顔さえ悲しげに見えてしまう。
油を落とすための竈の灰をひとふりかけて、コイララは鍋や皿を藁でこする。ティセはそのはす向かいにしゃがみ込み、こすったものを桶の水ですすぐ。明るめの声音で、コイララは歌うように言う。
「あー驚いちゃったぁ。まさか、あのひとの弟に会うなんてねぇ。世界は思ったよりずっと狭いのかしら」
「俺もめちゃめちゃ驚いた。でも、リュイはきっと笛が導いてるって言うよ」
コイララは目を上げて、ティセの顔を覗いた。
「なあに、それ」
「俺もよく分かんない。笛がもうひとつの笛を求めて、自分を導いてくれるんだって、前に言ってた」
「ふうん。不思議な笛だから、そんなこともあるかもね」
シューナの笛の音を知るコイララは、不可思議を素直に受け入れた。コイララは不思議な笛の証人だった。ティセは、もっともっと笛を信じてみたい気持ちになっていた。
「異母兄弟だってね。ふたりとも父親似かしら。にしても、シューナもいい男だったけど、彼のほうがずっと美男子よ。ちょっと怖いくらいきれいね。十年遅く生まれて、彼と出会えばよかった」
いたずらっぽく笑って言った。ティセは思うままに返す。
「あいつ陰気だし無口だし無視するし、付き合ったって、きっとつまんないよ」
ふたり、声を立てて笑い合う。それから、コイララは急に真面目な顔つきになった。後片付けの手元を見ながら声をひそめて、
「彼はいつもああなの?」
「え?」
「いつでも、あんな冷め切った目をしているの? 言葉にも表情にも雰囲気にも、体温がない。ずっとそうなの?」
誰もが感じるだろうことを、コイララは囁いた。尋ねられても、ティセにはうまく答えられない。以前よりはいくぶん生気が増したとはいえ、リュイはいつでもそうなのだ。が、出会ってからまだひと月足らず。リュイについて確かなことを、ティセはまだ語れない。正直にそう答えると、コイララは曖昧にうなずいて、
「シューナと彼、顔立ちはさすがによく似てるけど、なんだか全然違うみたい。雰囲気とか印象とか、まるで逆といってもいいくらいに違う。シューナはいつだって微笑んでた。そういう意味では、ふたりはちっとも似てないよ。兄弟なんて思えないくらい似てない」
似ていない、コイララは断言した。
じつのところ、シューナの思い出話を聞いたとき、ティセもそう思ったのだ。愕然とするほど違うと感じた。兄も同様に、穏やかでもの静かなひとであったようだ。けれど、リュイの穏やかさ、静けさには、優しさもやわらかさも温かみもない。ただひたすら、冷ややかに静まりかえっているだけだ。周囲をくつろいだ気分にさせたというシューナ。くつろぎという言葉は、リュイから最も遠いところにあると、ティセは話を聞きながら思ったのだ。
声が居間に届かぬよう気を遣ったのだろうけれど、あるいは聞こえていたかもしれない。コイララの言葉になにを思うのか、ティセには少しも想像できなかった。
夕方、帰宅したスリンの主人は、件の事実を知ってたいそう仰天した。どうりで似ているはずだと何度もうなずきながら、懐かしそうに目を細めて、リュイとそのひとを重ねて見ていた。リュイは昨日からの硬い表情を和らげることなく、無言でその眼差しを受けていた。
壁画の件はとくに問題なく許可が下り、明日にでも連れて行ってくれるという。昨晩遅くまで夫妻の家にいたコイララは、この夜も長々と居座った。よほど自宅が怖ろしいのだろう。ふたりの女はもちろん、主人も話し好きだ。ティセは黙りがちなリュイの分まで喋り、楽しいひとときを過ごした。
ひとも家畜も寝静まった真夜中。瞬きの音が罪に思えるほどの静寂に、世界が包まれる。月は昨夜より明るい。決して音は立てないのに、月の光は琳と響きながら窓辺より差している。横たわるティセの顔をちょうど照らしていた。それを感じつつ目を閉じると、頭のなかで鈴が鳴るようだ。涼やかな幻の音にひとしきり身を任せ、そして目を開ける。毛布へくるまり暗い天井を見つめて、ティセは先ほどからずっと、リュイのことを考えていた。
瞳にも言葉にも、表情にも雰囲気にも体温がない。そんな言葉をひとに言わせてしまう十五歳、幼くして親兄妹と別れ、隣家で麦畑を手伝いながら、なにを思って生きてきたのだろう。その片鱗さえも、ティセには想像が及ばなかった。
ティセ自身、ナルジャにいたひと月ほど前までは、つねに暗い目つきをして、口数少なく無気力に日々を過ごしていた。周りから見れば、醒めきった反抗期の少女に見えたことだろう。いまにして思えば少し前の自分は、ただただ自滅し、ひしゃげていただけなのだと、ティセは思う。いじけていただけなのだ、と。
けれど、リュイは違う。あの冷ややかな眼差しは、ものごとに醒めているのとは異なるようだ。リュイはとても従順であるし、思春期らしくなにかに反抗している様子もなく、斜に構えた言動も一切しない。ティセが醒めた目で過ごしていたのとは根本的に違っている。
「陰気だ」となかば冗談で言った。が、嘘ではない。リュイは確かに暗さを漂わせている。眼差しはもちろん、粛とした喋りかたにも、微笑みのあとにも、翳のような暗さを覚えずにいられない。笑いごとでは済まない、冷たく濡れた闇を感じる。それが、リュイの体温を奪うのだろうか。それはいったい、なんなのだろう。
シューナは微笑みを絶やさなかったという。リュイが微笑むときに見せる、心地よい木の葉のささめきと同質の穏やかさを、ティセは思い出す。あれを見せられたなら、兄弟は似ているとコイララは言うだろうか。しかし、リュイはここへ来てからひどく無口になってしまった。どこか緊張しているように見える。微笑うことなど、おそらくないだろう。何故、無口になってしまったのか、それついても考えあぐねていた。
日中から、ティセは大きな疑念を抱いていた。
シューナというひとが兄である可能性はないのかと問うたとき、リュイは閃光のごとき鋭い目を向けた。それは意表外の発言にはっとしたからというよりも、どちらかといえば、ティセは睨まれたように感じたのだ。消え入るような声で兄の本名を認めたときも、少なからず違和感を覚えた。
そのひとの上の名と国籍、年齢については、昨夜のうちに夫妻から聞いていた。リュイはあの時点で、そのひとが兄である可能性を少しでも考えたはずではないか。ましてや、よく似ているという話なのだから、考えなければおかしい。不自然だ。
リュイは可能性に気づいていたはずだ。にも拘わらず、それを言い出さなかった。自分が気づかなければ、あえて言わないつもりだったのかと、ティセは疑ってしまう。
それは――――――……何故?
どう考えても、リュイの対応は不自然に思えてならなかった。思い出の少ない兄に対して愛情も興味もなかったのだとしても、笛を知る人物であることをリュイは知っている。笛を探し出すために一縷の望みをかけて兄であるのを確認し、その言動や行方を知りたいと思うはずではないか。いわんや、笛の当てはひとつもないと言い切るのだから、旅に出て初めて掴んだ糸口であるはずだ。それを、故意に見過ごそうとしていたように思えてならない。
――――――……何故?
さらに、コイララとスリンから笛やその音に関する話を聞いても、リュイはそれほど興味を示さなかった。シューナの笛の音が重奏であったことに意外な顔をしただけだ。ほとんど他人事のように、黙って聞いていた。二年も探し続けている笛の謎を解く手がかりを前にして、積極的に尋ねもせず黙していた。
そもそも、リュイが最初にコイララへ尋ねたのは、直接笛に関係することですらなかった。「笛が導いてくれる」と語ったときの妙に冷めた瞳とその違和感が、ティセの頭を過ぎる。
リュイは両親の遺言であるから、止むを得ず義務的に笛を探しているのだろうか。ティセは頭のなかで首を横に振った。それは、おかしい。そんな旅ならとっくに止めているだろう。あるいは旅を終わらせるために、少しでも早く探し当てようと躍起になるのなら分かる。
考えれば考えるほど、分からなかった。疑念が募るばかりだった。そして、分からないと思うほど、知りたいと思った。
リュイを知りたい――――……
ティセはそうっと横を向き、背を向けて横たわるリュイを見つめる。わずかに波打つ黒髪の艶が、月明かりに照らされて瑞々しさを増していた。その潤いのあるきらめきがティセの瞳に、謎めいて、秘密めいて、映る。
未知のものへの憧憬を抱き、ひたすらリュイのあとを追った。けれど、ティセの胸にある最大の未知は、リュイそのひとだった。
朝食後、壁画のある洞窟を目指し、ふたりは主人とともに夫妻の家を出た。スリンと、今朝も早くから訪れたコイララは留守番だ。まったく興味がないらしい。謎の壁画は最近発見されたようにティアマの市場では聞いていたが、この辺りに住むひとなら知らないものはないと、主人は言う。高名な考古学者に目をつけられて、にわかに有名になっただけだった。洞窟があるのも、その内部に風変わりな絵が描かれているのも、誰もが当然知っていて、そして誰もが気に留めない。どうでもいい。そんな訳の分からない気味の悪いものより、次に肉料理を食べる日を思い焦がれるほうが重要だ。関心は日常にある。
しかし、ティセはとてつもなく興味をそそられてしまう。見慣れたものへの安心感、その安定感より、まだ見ぬものへの憧れを抱いてしまう。くり返す当たりまえの毎日より、予測不可能な日々を夢見てしまう。安穏より刺激、平静より昂揚、ロバより断然馬がいい。これもみな、ティセに節操なく好奇心を植えつけた父の所為だ。父さんは罪なひとだ、ティセはニヤニヤしつつ父を責める。
少し歩くと、前方に十人ばかりの女の群れが目に入った。皆、頭に色とりどりの薄布を掛けて、手には桶を提げている。共同井戸で順番に水を汲んでいるのだ。水汲みは女子供の仕事と決まっている。かしましくお喋りに興じながら列に並んでいるけれど、帰りはその重さに歯を食いしばりしかめっ面だ。大変な重労働だろう。ナルジャには各家庭に井戸があるので、こういう風景を、ティセは村を出てから初めて見たのだ。
女たちは一行に気づき、お喋りをぴたりと止めた。にわかに静まりかえる。そして、含み笑いを堪えるような顔つきで、手近なものと目配せしつつ、こちらを注目する。こちらを、というよりはリュイをだ。ティセは一歩踏み出し、自分に注意を向けさせるために、ことさら元気よく、
「こんにちはぁ!」
すると、女たちは一瞬置いてさざめいた。「こんにちは」と返してくれる女がいて、弾けたように場が和む。ティセはリュイの様子を盗み見た。いつもと同じく淡々と道の先だけを見つめていたので、ティセはほっとした。主人がリュイへ同情するように言う。
「すまないね。はしたない女どもで。なにせなんの刺激もない田舎だから、みんな話題に飢えてるんだ」
と、肩をすくめてみせた。
「ところで、もうひとり連れがいるんだ。ちょっとここで待っていてもらえるかい」
主人は恰幅のいい身体を硬そうに揺らし、すぐ左手にある民家の庭先へ上がり込んだ。おはよう、と声をかけると、赤煉瓦の壁に白く縁取りのされた窓から、青年がひとり顔を出す。
「おはよう。すぐ行くよ」
戸口から小走りにやってきた青年を近くに見て、ティセはすぐに気がついた。コイララの現在の相手、ウズバだ。
ウズバは乳酪ほど白いぽってりとした顔に控えめな笑みを浮かべて、ふたりに挨拶をした。客とはいえ、だいぶ歳下の相手へするには丁寧すぎるくらいの挨拶だ。
「初めまして。遠い処からようこそラグラダへ。僕のことはもうお聞きかと思いますが、ウズバ・ディドラム、コイララの婚約者です。先日は、誠に失礼いたしました」
さりげなく確かめるようにリュイの顔を見ながら、ウズバは右手を差し出した。肉厚の大きな白い手と、まだ大人のものでないリュイの浅黒い手が、とても対照的だ。握手の手を離すと、やや砕けた話しかたになって感心したように言う。
「本当によく似てる。弟なんだってね、驚きましたよ」
「僕とウズバとスリンはイトコ同士なんだ。スリンは歳下だけど、僕とウズバは同い歳だから双子みたいにして育ったんだ」
言われてみれば、ふたりはどことなく似ていた。肉付きのいい体格も色の白さも、おおらかな雰囲気もよく似ている。役人であるためか、主人のほうが貫禄があり、ウズバは慎ましやかに感じられる。ティセはウズバと握手をして、右手の心地よい温かさにその人柄が滲み出ているように思った。
集落を抜け、左右に広がる豆畑も過ぎる。やがて、遠く右手に赤茶色の小高い丘が連なるのが見えた。その辺りから道を外れて、まばらに生える雑草と小石の転がる荒れ地を丘へ向かって進んだ。
主人とウズバは道中、洞窟が異国の著名な博士の目に留まった経緯などを教えてくれた。もしも本当に原始人の壁画であれば、またとない観光資源になると、ラグラダのひとびとは大きな期待を寄せているそうだ。しかし、壁画そのものにはやはり少しも興味がないらしい。仕事で洞窟へ訪れることのある主人はともかく、ウズバが洞窟へ入るのはじつに十二年ぶりだという。ティセは思わず叫んだ。
「十二年!? こんな近くに住んでるのに、もったいないっ!!」
りきむティセに、ふたりはさもありなんと返す。
「だからこそ、だよ」
「生まれたときからあるんだから、めずらしくもなんともない」
当然だ、ティセはしみじみ思った。ナルジャの田園風景や、純白に輝く神々の山の連なりも、いまこうして別の地にいるからこそ美しく思い出せるのだった。村にいたひと月ほど前までは、その風景に絶望し吐き気すら催したのを思い出す。
赤茶色の土と小石が堆積しただけの、さざ波のような丘だった。一度丘へ登り裏側へ降りると、煉瓦を積んでトタン板を被せた粗末な小屋が目に入った。風雨と日差しが除けられるばかりの小屋だ。人工物のなにもない景色のなかで、真新しい赤煉瓦と鈍く光る屋根が、強烈な違和感を放っている。
小屋の戸は開け放たれていた。煉瓦をみっつ並べただけの囲炉裏とアルミの薬缶、その奥で壁にもたれ居眠りをする、顎髭の白い老夫の姿が見えた。
「守衛を置くことにしたんだ」
主人がそう言うと、ウズバは呆れたように笑った。
「ごたいそうなことだな」
「博士のお墨付きをいただくためなら、なんだってやるさ」
主人に声をかけられて、老夫はぼんやりと目を開けた。そして、寝惚けまなこをこすり、不自由な片足を引きずりながら、人数分の蝋燭と鍵を用意した。
洞窟は小屋のすぐ裏手、丘の斜面にあった。入り口は煉瓦できっちりと塞がれ、膝を折らないと通れないほど小さな木の扉が、煉瓦の壁へ埋め込むように取り付けられている。
主人が扉に下がる厳つい錠前を外す。ふたりを正面にして、玩具みたいな小さな戸をうやうやしく開き、芝居がかった口ぶりで告げる。
「ようこそ! ラグラダ随一の名所へ!」
いざなうように右腕を広げてみせた。ウズバが茶化す。
「随一、じゃなくて、唯一の間違いだろう」
ウズバも主人も笑っている。けれど、ティセは真剣に固唾を呑んでいた。洞窟を眼前に棒立ちとなり、感激に打ち震えていた。
「……すごい……すごすぎる……! ほんとに来ちゃったよ……」
原始人の壁画など、博識の校長でさえ見たことはないだろう。胸が激しく高鳴った。熱した血液が頭へ上がって、鼻から蒸気を噴きそうだった。大真面目に感動しているティセを見て、主人とウズバは呆気に取られたようにぽかんとしたのち、失笑した。
こんなにも興奮しているというのに、もとよりたいした興味を示していなかったリュイは、洞窟を目の前にしても顔色ひとつ変えない。何の感動もためらいもない様子で、主人に促されるまま、先に戸口をくぐりかけた。
「あ! 先行ったっ!?」
リュイは屈んだ姿勢のままティセを振り返り、静かに問う。
「問題が?」
「…………ないよ、ない。なんでもない……」
猫のようなしなやかさで狭い戸口をすり抜けていった。見たいと言ったのは俺なのに……ティセは頭のなかで子供じみた文句をつけた。
いちばん身体の小さなティセですら戸口の狭さには少々難儀した。恰幅の良い主人とウズバは腹がつかえていた。暗闇に包まれた内部は、四人分の蝋燭が揃うと割合明るく見渡せた。空気がひんやりとしている。教室ほどの広さのこの空洞にはなにもない。硬い土の壁が地肌を晒すばかり。奥へと続く通路が目に入る。四人は一列になって奥へと進んだ。
通路はなだらかな下り坂、ティセは巨人の腹のなかへ入っていくような不思議な感覚に囚われた。無闇に興奮したり声でも立てたら、巨人が眠りから目を覚まし、ひと息に飲み込まれてしまう。そんな気がして、息を殺し口をつぐんだ。足場を確かめながら慎重に進むと、ほどなくして先ほどより若干広い空間へ出た。空気がいっそう冷たく、肌を引き締める。主人が蝋燭を高く掲げて、
「ここだ」
四本の蝋燭すべてが高く掲げられた。目の前に現れた情景に、ティセは息を呑み――――――自分の存在を忘れた。
石灰の下塗りのある丸天井一面に、濃厚な色彩と荒々しい筆致で描かれた絵が広がる。牛、羊、馬、狼、鳥…………その他、識別できない数々の獣たちの群れが、自由に伸び伸びと、荒々しいながらも、まるで命があるかのような繊細さをも伴わせ、描かれている。主線の藍色の濃さと、血の色に似た深紅の彩色が際立って美しい。人間と思われるものはないが、代わりにひと型に似た黒いものが数体描かれていた。頭の天辺から三本目の腕を生やし、トカゲのような尻尾を垂らして、長すぎる右腕で杖を持つ。妖怪か、宇宙人か、それとも彼らの神だろうか。天井の中心に、大きな目玉を黄色の輪で囲んだ絵が描かれている。こちらが神か……もしかしたら、太陽かもしれない。
ティセは口を開けたまま、言葉もなく見入っていた。これを描いたものたちを、その思いを、原始人という不確かな像をもって可能なかぎり想像した。正直、ちっとも分からなかった。それでも、この絵を描いたものたちの魂に触れた、そんな実感がティセの心を震わせていた。理解を超えた絵が、さながら呪術にかけられたかのように、ティセの身体の力を抜いていった。
リュイが溜め息交じりの声で、
「すごいな……」
つぶやいたので、ティセは我に返った。さすがにリュイも、感心したように壁画に見入っている。ティセは嬉しくなった。
「眉唾とか言ってたけど、見に来てよかったろ」
にやりと笑ったら、リュイは天井を仰いだまま「……そうだな」と答えた。
さらに奥へ続く通路があるが、土砂で埋まっていた。自然に壁が崩れたのか、それとも誰かが故意に埋めたのか。おそらくこの奥にも壁画の部屋があるに違いない。発掘調査は博士率いる調査団が行うという。洞窟を出る前に、ティセはもういちどよく見渡して、目に、心に、壁画を焼きつける。忘れることのないように、丹念に。心のいちばん深くやわらかいところへ、父の顔が浮かぶ。
「……父さんに見せてやりたかったなぁ……」
衣嚢へ忍ばせた遺品に、そっと指を這わせた。父親に引き続き、愛すべきものたちの顔が次々と浮かぶ。
……そうだ、父さんにも、校長にも、カイヤたちにも……母さんやラフィヤカは気味が悪いって怖がるだろうけど、それでも見せてあげたい……
ふいに涙が込み上げた。目尻に涙が溜まり、蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れて見える。揺らめく壁画を見つめたまま、リュイへ囁いた。
「……みんなに見せてあげたいよ……」
蝋燭の灯りが涙目に揺れているのに気づいたからか、リュイは真顔に戻り、ティセをじっと見つめていた。
通路を戻りながら、ウズバが言う。
「子供のころ来たときは、もっと広かった気がしたけどなあ」
「僕たちがそれだけ大きくなったってことだ。でも、気づいたろ? 入り口は本当に狭くしたんだ」
「そういや、前は扉なんか付いてなかった気がするな」
「博士からできるだけ密閉しておくように口酸っぱく言われてるんだ。だから煉瓦で塞いで戸を付けた」
「密閉? どうして?」
「空気に触れると色が褪せるんだって。しかし今更な感もあるね。いつ発見されたか知らないけど、少なくとも僕の曾祖父さんが子供のころから知られてるんだから」
外へ出ると、まぶしさに目が潰れそうになった。土のなかからうっかり顔を出してしまった間抜けなモグラはこんなふうだろうかと、痛い目を押さえながらティセは思った。
守衛の老夫が気を利かせて、茶の用意をして待っていた。小屋の前で茶を飲みつつ、主人は観光地化計画を熱く語る。
「村にはもちろん旅館や食堂を新しく建てるけど、将来的にはこの洞窟を目玉にした保養地として開発できないかと考えているんだ。もちろん、資金の目途がたてばだが……」
ウズバがまた呆れた声を出す。
「そのまえに博士のお墨付きをもらわないと、だろう」
「ま、まあな。とにかく、この村が潤うことを村びと全員が願ってるんだ」
将来そんな日が訪れたら、ラグラダの村の様子はどんなふうに変わるのだろう、ティセにはまったく思い描けなかった。
道へ戻ると、主人はこのまま先の町にある役場へ歩いて出勤すると言う。礼を述べて別れ、ふたりはウズバと来た道を引き返した。道すがら、ウズバは当然のようにリュイの兄の思い出を語り続けた。
ウズバは子供のころからコイララを想っていたそうだ。また、確かな取り決めがあったわけではないが、ふたりを許嫁のように見る暗黙の了解が周囲にもあったという。ウズバにとってシューナは恋敵であり、同時にとてもいい友人でもあった。もちろん悔しくはあった、しかし、シューナなら許せると思ったと、ウズバは言う。
「コイララはとても細いでしょう、シューナが出て行ったあと、心身を少し悪くしてしまってね、以来折れそうに細いままなんだ」
シューナを追いかけて行って殺してやりたい――――コイララが病に伏したとき、心の底からそう思ったと、ウズバは正直に語った。
「式を少し急いでしまったのを反省してます。きみたちが来て式をぶち壊してくれて、変なはなしだけど感謝しているくらいだ。もう少し落ち着いてから、幸せな気持ちで式を挙げさせてやるのが、本当にコイララのためなんだと思いました」
そう言って、慎むように微笑んだ。そんなふうに言ってもらえて、ティセは気が軽くなった。ウズバはリュイを見て尋ねる。
「お兄さんのことはどのくらい覚えてる?」
「おぼろげに顔が浮かぶくらいで、思い出といえるほどの記憶はありません。もっともそれも、十三・四歳くらいの兄です」
「そうか、それは残念だなあ。あんなにひとをくつろいだ気分にさせる人間は、そうそういない。本当に素晴らしい男だった…………コイララを捨てたこと以外はね」
ウズバは最後の部分を、決して厭味ではなく、ひどく残念だというふうに言った。信頼を裏切られ傷ついたのはコイララだけではない、という意味だろう。
ウズバの家が見えてきた。にわかにあらたまって、ウズバは言う。
「もしも、この先シューナに会うことがあったら、伝えてくれるかな。コイララはウズバが必ず幸せにする……ってね」
真摯な眼差しで告げたあと、急に戯けた笑顔になり、さらに続ける。
「気障な科白に聞こえたかもしれないけど、ようするに、彼女はもらったから二度と戻ってくるな、そういう意味さ」
それから、にっこりと笑んで、
「いい旅を!」
自宅へ戻っていくウズバの大きな背中を眺めながら、これが言いたくて壁画見物に同行したのだと気がついた。おおらかで慎ましやかな雰囲気、頼もしげな肉厚の手のぬくもり……どこか寂しげで感情的なコイララとウズバは、とても似合うのではないかと、ティセはなんとなくそう思った。