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父の死の衝撃のあとに待っていたのは、さらなる衝撃だった。ティセの母が、存外にも早く立ち直ったのだ。朝も夜もなく泣き沈み、自分と同じ絶望の淵にいると思っていた母が、ある日を境にぴたりと涙を止めた。落ち着きを取り戻し、遺品の整理を始め、ティセの知らないうちに新しい足踏みミシンを購入していた。
まもなく仕事を再開した。家計の足しほどしか受けていなかった内職を本職とし、量を何倍にも増やして仕事に明け暮れるようになった。その表情には以前の母にはなかった硬さがあった。実家に戻ることも、再婚も考えず、この村で娘とふたりで生きていく決心を固めたのだ。ティセの知っている母は、父がいなければなにひとつものごとを決められない、頼りない女性だった。細い肩と小さな背中をした、か弱い母だった。
……このひとは、誰……?
母のなかに知らないひとを見た気がして、ティセは激しく動揺した。すべては生活のため、もっと言えば自分のためだ。頭では分かっていても、心の底では母の立ち直りの早さを、まったく理解できなかった。
――――泣きたいなら泣けばいい、なのにどうして我慢して仕事ばかりしているの? どうして父さんのものを片づけるの? 見えないところに仕舞うのはやめて! 俺はまだ父さんを偲んでいたいのに! 母さんだって本当はそうだろう? 泣いていられないのは俺のため? 思いつめた顔してミシンを踏むのは俺のため? だけど俺はそんなこと望んでない、まだもう少し、母さんと一緒に思い出に浸っていたいんだ、どうして分からないの? …………違う。分かってないのは俺のほう……泣き暮らすなんて、父さんだってきっと望まない……父さんは、こんな俺は好きじゃない。早く父さんの不在に慣れて、その死を乗り越えなければ…………だけど……――――――
ティセは長いこと、そうやってひとり葛藤し続けた。
しっかりしなければ、と強く願いながらも、心は正反対のほうへ向かっていく。母とは対照的に、どんどん弱くなっていく。仕事に没頭して、以前のように構ってくれなくなったのを恨むような気持ちさえ芽生え始めた。頭では分かっているのに、母が受け入れられなくなっていった。どうしようもなく、救いがたいほど、ティセは子供だったのだ。そんな自分が日を追うごとに、嫌いになっていった。
長い間学校を休んでしまったが、校長の薦めもあって復学した。久しぶりに教室へ顔を出したときの違和感を、ティセはよく覚えている。親しみぬいた教室の空気が、ぎこちなく緊張していた。それは、まるでティセを馴染めないものであるかのように、不自然に包んでいた。
ぎこちない空気を作り出していたのは、級友たちの戸惑いの視線だ。初夏の日差しに似た雰囲気を、どんなときにも纏っていた快活なガキ大将が、精彩を欠いた虚ろな目をしている、曇天の夕刻を思わせる翳りを帯びている、それを見て誰もが当惑していた。皆、ティセをまっすぐ見られずに、目を泳がせていた。固形物が混ざったような空気に肌を撫でられて、ティセは背中にひんやりとしたものを感じた。居心地が悪い――――頭のなかでそうつぶやいたとき、大好きだった学校と級友たちとの関係が、ティセのなかで変化した。以降、ティセは教室内でどんどん無口になっていった。
父親の死、母親との隔たり、自分のなかの葛藤、自ら招いたともいえる疎外感。硬く冷たい憂鬱の塊は、十一歳のティセの心をはかりしれない重さで押し潰した。
鬱屈をどう処理していいのか見当がつかず、内に籠もり始めた。そして、籠もって溜めたぶん、些細なことで爆発するようになり、日に日に粗暴になっていった。はっきりと喧嘩になるまでは、無闇とひとに手を上げなかったティセが、気分にまかせて暴力を振るうようになった。押し黙っていたかと思えば、急に口を開いて暴言を吐きまくる。ひとを言葉で攻撃する。手当たり次第に級友を傷つけた。
自分でもおかしいと思いながら、止める術が見つからず、日ごと荒々しくなっていく。級友たちは皆怯え、積極的にティセと仲良くしようとする者はほとんどいなくなった。保護者たちがそうさせることもあった。
片親を亡くした子供などめずらしくはない。そういう同級生は初等部にも何人もいた。知りながら、ティセは自分だけが不幸であるかのように感じていた。俺の気持ちは誰にも分からない、そう心で叫ぶほど、自分のことしか見えなくなっていた。村のひとびとは眉をひそめながらも、ティセの変わりようを見て、不憫な子供が一時的に荒れていると、まだ同情的でいてくれた。
変わらない友情を示し続けたのは、やはりラフィヤカといつもの四人だった。とくに四人は、粗暴になったティセをより慕うようになった。傷心のティセを支えようと結束を強めたのか、それとも、内に籠もり陰ができたようになったティセが、彼らの目にいっそう魅力的に映ったのか。ティセ率いる悪童団は、やんちゃな子供たちという印象から、非行少年の集まりといった雰囲気に変わっていった。
ティセを決定的に変えたあの事件、それは十二歳の初夏に起こった。子供の喧嘩では済まされない傷害事件を、ティセはついに起こしてしまったのだ。
その日、五人は用もなくジャールをうろついていた。相手は以前から幾度となく小競り合いをくり返してきた、隣町初等部の生徒たちだ。喧嘩のきっかけはないに等しい。出くわせば噛みつき合う、そんな関係だった。約束ごとのように喧嘩は始まり、あっという間に乱闘になった。
その後いくら考えても、調子に乗り過ぎていたとしか思えない。ティセは偶然目に入った角材を持ち出して、ある少年の頭部を殴りつけた。なんの考えもない、思いつくままにした愚かな行為だ。
鈍い音と、重たい手応えがした。同時に鮮血が飛び散った。絶叫が上がり、血まみれになった少年が目の前の地でのたうち回る。乱闘は一瞬にして静まりかえった。返り血で上衣を赤く染めたティセは、全身の力が一気に抜けた。角材を取り落とし、その場に膝をついた。呻き声を上げて悶える少年を、瞬きを忘れた目で見つめ、してしまったことの重大さに恐れ戦き、そして放心した。誰もがその血の量を見て、凍りついていた。
事件はまたたく間にナルジャ全体と、ジャールの初等部関係者へ広まった。負傷した少年は、さいわいにも打ちどころはよかったが、頭部を十数針も縫う大怪我を負った。
五人は初めて警察で調書を取られた。ジャールの警官は調書を取る段になって、ようやくティセが少女であるのを知り、言葉を失うほど驚いていた。そして、ティセを見る目をよりいっそう険しくさせた。
あらゆる大人にこっぴどく叱られ、当分の間、全員自宅謹慎するよう言い渡された。いやというほど叱られて、四人ともしょげかえっていた。が、事件の張本人であるティセは、犯した罪に打ちのめされてしまった。
ことの重大さと、相手の少年に対する申し訳なさに押し潰された。仲間たちに余計な負担をかけてしまったことが心苦しかった。あの、嘘のように赤い血と、その量と、絶叫と呻き声、返り血に染まった上衣のまがまがしさが、脳裏を過ぎり続けた。そのたびに吐き気が込み上げた。実際、厠で何度も吐いた。母に知られぬよう声を押し殺し、涙を滲ませながら何度も吐いた。
ティセは心の底から悔やんだ。糸のように時間を巻き戻して、角材を手にした自分を蹴り倒してやりたい。ぼこぼこに殴りつけてやりたい、けれど、もうすべてが起こってしまった。取りかえしはつかない。
ティセを打ちのめしたのは、事件そのものと少年への罪悪感だけではなかった。敬愛する校長が、事件について隣町初等部へ頭を下げに行ったと聞いたこと。それから母が――――母が、父が亡くなったとき以上に、激しく泣いたことだった。ティセが荒れた原因はすべて自分にある、そう言ってすすり泣きながら、ティセに謝罪をしたのだ。
もう、駄目だ――――……
なにが駄目なのかも分からないままに、ティセは口のなかでつぶやいていた。
父を亡くした自分だけが不幸で、この気持ちは誰にも分からない、とぼけたことを意固地に思い込みながら、気づけば周り中を傷つけていた。そうして、ついに本当の傷害事件まで起こしてしまった。
村のひとびとが噂していた、あの子はもう駄目になってしまったと――――。ティセ自身、大人たちからの評価などはどうでもよかった。それにより、母の肩身が狭くなるのに気づく心の余裕も、そのころにはなかった。
謹慎が解けたあと、ティセは四人の仲間たちと距離を置くようになった。何故なのか、自分でもよく分からなかった。事件を思い出すからかもしれない、余計な負担をかけてしまった心苦しさからかもしれない。さまざま考えてみたが、決定的な理由は見つけられなかった。
事件を機に、喧嘩もいたずらも、ひとに手を上げることも、すべてやめた。ついでのように、仲間たちとの付き合いもやめたのだ。心が命ずるままに。そんなティセの態度に、四人が戸惑い傷ついていると分かっていても、どうにもできなかった。
すっかりと打ちひしがれて、もう誰にも会いたくない、誰とも話したくない、自分が恥ずかしくてたまらない、ティセは世界一自分が嫌いになった。孤立したティセにそっと寄り添ってくれたのは、長いこと素っ気なく接してきたラフィヤカだった。
校長室への呼び出しは、週に一度から月に一度となった。以前のように五人揃ってではなく、単独での呼び出しだ。内容も説教や小言というよりは、雑談や近状報告が中心になっていた。なにげない会話から心の内を探るのが目的だと、校長の意図はティセにも分かった。いつでも素直というわけにはいかなかったが、校長にだけは、本音の欠片をぽつりと語ることができた。
母とは完全にぎくしゃくしてしまった。口数が激減し、暗い顔をして無気力に日々を送るようになった娘をどう扱ったらいいか、母は弱り果てているようだった。明るく微笑んでいても、その笑みの奥には困惑と憔悴が透けて見えた。ティセもまた、その笑みを見て途方に暮れていた。
心が挫けそうになるたびに、ティセは記憶の箪笥を引っかき回す。そして、父との思い出を見つけ出しては、それに浸り、自分を慰めた。
なかでもよく思い出したのは、人生でいちばん楽しかった、父としたイリスへの小旅行だった。狭い乗合馬車のなか、父とぴったり寄り添いながら感じていた高揚感。道に迷ってもひるむことなく前へ進んでいく父の格好良さ。めずらしい料理を分け合って食べたときの笑顔。初めて見るものごとを、父は丁寧に分かるまで説明してくれた。その声、その言葉、その眼差し。幾度も幾度も、記憶が磨り減るのを心配してしまうほど、ティセは思い返した。すると、必ず、この言葉がよみがえる。
「ティセ、いつか一緒に、旅に出よう」
中等部へ上がっても、ティセの心が潤いと安らぎを取り戻すことはなかった。どころか、ティセを取り巻く状況は、憂鬱を募らせる方向へと徐々に進んでいた。
村の大人たちは皆、中等部へ上がるころになれば、ティセもおのずと少女らしくなるはずだと、軽く考え信じていた。けれど、ティセは少しも変わらなかった。変えようという素振りさえ見せなかった。ティセ自身には、それが自然体であったのだから当然だ。
しかし、村の大人たちには、頑なに拒否しているかに見えたのだろう。いつまでも髪を伸ばさず、男の身なりをし、少年そのままの言行をとり続けるティセの様子は、村の慣習や伝統への反抗だと見做された。ナルジャは保守的だった。ひとびとの視線が、ティセの評価が、時の流れとともに少しずつ厳しさを増していく。
ティセはもう、なにをしてもつまらなかった。居心地が悪いうえ、なにもかも知りつくしたようなナルジャに反吐が出た。くり返す憂鬱な日常に飽き飽きし、決して出ては行けないという現実を前にして、絶望していた。ここにいるかぎり俺は終わったも同然だ、そんな悲観的な言葉を、口のなかで重ね続けた。
父との思い出とその言葉だけが、荒れ果てた胸の奥で潤いと温度をもって、ティセを温める。
「いつか一緒に、旅に出よう」
言葉が、ティセのなかで入道雲さながらに高く膨らんで、そしていよいよ高く――――高みに上りつめ――――――神格化した。
太陽のような父が空から消え失せて、ナルジャは闇に包まれた。父の死後、長らくそう思い込んできたティセ。けれど、いまなら…………心のなかにひと筋の直線を持ついまなら分かる。
父はいまでも太陽で、高みから自分を照らしている――――……
ここではないどこかで、生まれ変わる。
我知らず、ティセはきっかけを待ち焦がれていた。
【第三章 了】




