8
蛇に噛まれた傷口は、二日後にはだいぶ腫れが引いていた。体調も食欲もすぐに戻ったようで、先ほど取った昼食には、また山盛りの白米を淡々とたいらげていた。
ふたりは国境へ向かい、谷間の細道を歩いている。二時間もすれば、国境に続く街道へ出る。明日の午前中には、国境の出入国管理所に到着するはずだと、リュイは言った。
ティセは国境という言葉に胸を躍らせながら、リュイの少し前を歩いている。国境へ続く街道に出れば、両国を行き交うひとびとと多くすれ違うだろう。いろいろな土地からやって来た、さまざまな目的を持つ見知らぬひとびとが、ひと筋の道に集っている。そのなかには、リュイのような異国のひともたくさんいる、ティセの好奇心はいまにも爆ぜそうなほど高まっていた。
国境には川が流れていると、授業で習って知っていた。それも、ロバに跨って簡単に渡れてしまうナルジャの小川とはまるで違う、それなりに大きな川だ。鉄鋼でできた立派な橋が架かっていると、先生が教えてくれた。そんな立派な橋も、大きな川も見たことがない。その光景を頭に思い描こうと、想像力を駆使してみたが、うまく想像できなかった。思い描けないことが、なおティセを興奮させた。
生まれて初めて外国へ出る。国境を越える瞬間を想像すると、ぞわぞわしたものが足元から全身に這い上り、腹の底が沸き立った。足が浮くようだった。越える前から、ティセはもう倒れてしまいそうだ。けれど、平常心を保とうと努め、平静を装っている。リュイはもはやなんの感慨もないだろう。興奮していると悟られるのは不本意だった。それ以上に、浮かれて軽率なことをして、また迷惑をかけてしまうのが、ティセは怖かった。
ふいに、背後から声がかかる。
「ティセ」
「なんだよ」
「きみは身分証を持っているの? 身分証がなければ査証はもらえない」
「当たりまえだろ、それくらい知ってるよ」
莫迦にすんな、と知り顔で答えた。
村を出る前夜、ティセは息を殺し足を忍ばせ、闇のなか、思いつく限りの用意をした。母を起こさぬようコトリとも音を立てずにものを集め、すぐに気づかれないために動かしたものを元通りにした。裏庭に面した納戸から父の頭陀袋を引っ張り出し、着替えや手ぬぐい、ナイフ、アルミの湯呑み、水筒、マッチや蝋燭……思いついたものを次々と詰め込んだ。台所から砂糖や塩なども少しずつ持ち出した。身分証はじつのところ忘れていて、いちばん最後に思い出した。
それから――――それから、ティセは母の金を持ち出した。小さなころからなんとなく貯めていたなけなしの小遣いでは、なんの足しにもならないと分かっていた。そして、母が食器棚の奥を二重にして、金を隠しているのを知っていた。予想以上の大金があった。ティセはその四分の三を持ち出したのだ。家庭内とはいえ、立派な窃盗だ。母は半狂乱で娘を探し回ったあと、疲れ果てた身体でそれに気づき、その場に崩れ落ちたかもしれない。
月々の収入は充分にあった、仕事を続けさえすれば、母が生活に困ることは当面ないだろう。が、娘が自分の金をごっそりと持ち出して家出したという事実は、母を返す返す打ちのめしたはずだ。この大金はおそらく父が、父亡きあとは母が貯めた、するかも分からないティセの結婚資金だったに違いない。自分のために貯めていた金であると、ティセは分かっていた。母の意に反するかたちで使うことに、また単純に盗んだことに対し、いまはひどく心苦しい思いだ。けれど、あの夜はなにも感じなかった。なにも感じないほど、ティセは虜だった。それはいまも変わらない。それでも、母の嘆きを思うと、胸が張り裂けそうになる。
……母さん。
心のなかで呼びかける。いまどうしているだろうか。夫も娘もいなくなった、余所者の母にとっては幼馴染みさえいないあの村にひとり残して、ティセは明日イリアを出るつもりなのだ。なんと残酷な娘なのだろうか、自分自身が信じられない。誰もティセを、そう、自分でも自分を止められない。たとえいま、母の危篤を知らされたとしても、ティセは国境へと歩いて行くだろう。ティセは自分が、怖ろしかった。
……校長、ラフィヤカ、カイヤ…………
愛すべきひとびとを思い、呼びかけ、切に乞う。皆、どうか母を見守っていてください、と。虫の良すぎるはなしだと、勝手極まる願いだと、十二分に分かっている。されど、願わずにはいられない。いつでも自分を気にかけ、親愛の情を注いでくれたように、どうかいま母を見守っていてください、と。
谷間の細道は赤い花をつけたシャクナゲの木を従えて、延々と続いていく。道の先が大きく右に折れている。そこから一台のロバ車が、かしましい喋り声とともにやってくるのが見えた。ロバ車の小振りな荷台には、同年代くらいの少女が三人乗っている。原色の伝統衣装が遠目にも鮮やかで、質素な荷台は花を載せたようだった。
ふたりは道の脇へ寄った。ふたりに気づくと、少女たちは途端におしゃべりを止めた。通り過ぎる間、三人ともが含み笑いをしつつ、はにかんだように、それでいて露骨にリュイを見つめていた。だいぶ遠ざかってから、「キャー」とも「イヤー」ともつかない黄色い声が上がる。ものめずらしいうえに格好いいのだろう、ティセは思わず吹き出した。「もてるな」と冷やかしてみたが、リュイはひとことも返さなかった。
手前に乗っていた少女は、ラフィヤカによく似た可愛らしい顔立ちをしていた。小生意気そうな目元も、きゅっと尖った顎も、いたいけさを醸し出す額のまるみもそっくりで、まるで双子みたいだ。
「いまの子、ラフィヤカにそっくりだったなぁ」
遠ざかっていくロバ車を見遣りながら、独りごちた。ラフィヤカは大の男嫌いだから、リュイに会っても仏頂面を向けるだけだろうと、心で笑う。と、ロバ車を見送るティセの横顔に、リュイの声がかかる。
「それは誰?」
リュイを振り向き、
「中等部の友達だよ」
直後、ティセは硬直した。
――――――しまった――――……
たったいま、残してきたひとびとに思いを馳せていたティセは、生い立ちと現在について捏造したことを、束の間忘れてしまっていた。気が緩んでいた。
視線を外し、顔を強張らせ、ティセは立ちつくした。リュイは落ち着き払ったいつもの様子で、ティセの顔をじっと見つめている。長いことそうしていた。ふたりの間を、夕暮れの匂いをわずかに漂わせた風が吹き抜ける。
どうにか取り繕わなくては――――綻んだ嘘を繕うさらなる嘘を、懸命に考える。けれど、新たな嘘の欠片たちは頭のなかで点滅するだけ、ひとつも言葉にならなかった。焦れば焦るほど、言葉は逃げていく。この長い沈黙は、ついた嘘の肯定、それ以外のなにものでもない。狼狽え、立ちすくむティセの脇の下を、汗がつうっと流れていった。
沈黙を経て、リュイは変わらぬ静かな声と眼差しのまま、囁くように言う。
「中等部には行っていないと、きみは言っていた。孤児だというのも嘘だろう」
嘘の上塗りをする自信などなかったが、ティセは反射的に「それは本当だ」と言いかけた。そのとき――――――……つねにひそやかに喋るリュイが、こんなに大きな声を出せるのかと瞠目するほどの声で、ティセの名を呼んだ。
静まりかえった冷たい水のおもてから、突如、猛烈な水柱が立ち上がった。そそり立つ水柱がはっきりと目に見えた。声は空気を切り裂き、耳をつんざいた。声だけで、ティセは地面に張り倒された気がした。
言いかけた言葉も、新たな嘘の欠片も、すべて一瞬で大声に掻き消された。思わぬ事態にティセは瞬きも忘れ、ほとんど放心して全身をすくませた。出した声の大きさとは裏腹に、リュイはいつもの冷静な眼差しでティセを眺めている。それが、逆に怖ろしかった。
一転、リュイはもの静かな口調に戻り、
「きみが孤児だなんておかしいと思っていた。孤児だというわりに、きみは身なりがいいし、育ちも悪くなさそうだ。イリアは裕福だから、孤児でも教育を受けられ、それなりの暮らしができるのかとも考えたけれど……」
めずらしく問いかけてきたのは、鎌をかけるためだったのだと、ティセは気がついた。その機会をさりげなく窺っていたのかもしれない。リュイは諭すように、
「家族が心配しているだろう。帰ったほうがいい。来た道を戻れ」
そう言って、来た道を右手でまっすぐ指し示した。寸分の狂いもなく大地と水平に差し出された右腕の、その揺るぎない示しかたにリュイの堅固な意志を感じて、ティセは激しく動揺する。棒立ちのまま胸の奥と唇をわななかせ、目をたじろがす。あからさまに動揺を表すティセを、リュイは冷ややかに見つめる。おもむろに腕を降ろし、リュイは国境へ続く谷間の道を、ひとりで歩き始めた。立ちすくむティセを取り残して。
「リュイ! ちょ、ちょっと待てよ、待てったら!」
ティセは慌ててあとを追う。
「待って! 俺の話を聞いてくれっ!」
追いつき、背中の荷物を掴んだ――――刹那。意識が途切れるほどの衝撃、ティセの眼前に火の粉が舞い散る。空が落ちてきたかと紛うような撃力に貫かれ、ティセは荷物を背負ったまま人形のように地面へ転がった。
一瞬、目が見えなかった。遠ざかっていく意識をかなぐるように引き戻す。視力が戻り、視界が横になっているのを認識し、初めて無防備に地に倒れているのを知った。朦朧としながら、ティセはなんとか頭を上げる。土の上にぼたぼたと赤いものが滴った。血だ。不思議な心持ちで、顔を右手で拭う。手の甲は真っ赤だ。左頬が完全に麻痺している。半身を起こし、ぎこちなく視線を漂わせた先に、右の拳を硬く握り締めたリュイが立つ。ティセを見下ろし威嚇していた。その拳をまともに受けた。ティセは口内をずたずたに切り裂き、口と鼻から大量の血を流して、呆然とリュイを見上げる。
リュイは暗緑の瞳と眉に、はっきりと怒りをたたえていた。なにものをも語らないはずの目に、怒りという感情を豊かにたたえ、ティセを威圧していた。燃えるような怒りではない、水のおもてが音を立てながら凍りついていくような、冴え渡る怒りだ。ティセは震え上がり、身も心も縮まりかえった。リュイは辺りの空気を怒りで歪ませて、拳を握り締めたまま微動だにしない。激しい怒りがその美しい顔立ちを一段と際立たせていた。地鳴りに似た憤りの音が、ティセの耳の奥に響く。こんなにもひとを怖いと思ったことはかつてない、ティセは息を殺した。
「帰れ」
高圧的にひとこと告げて、リュイは背を向け歩き始める。暫し、ティセは怖ろしさに動けず、その後ろ姿を凝視していた。が、まもなく我に返った。荷物を捨て、慌てて立ち上がり、リュイを追う。
「待って、リュイ!」
よろめきながら、ティセは背後からリュイの右腕にしがみついた。リュイは振り向くことなく振り払う。敏捷な右腕の動きは、ヒュンと鋭い音を上げて肉を裂く、痛烈な鞭さながら。ふたたび転倒したティセは、背中を強く打ちつけ、息をつまらせる。鼻と口の血が喉を塞ぎ、むせかえって血を吐いた。リュイは一瞥もくれない。
全身に響き渡った鈍痛を耐え、立ち上がり、縺れた足でもういちどリュイを追う。倒れ込むようにその左脚にすがりつく。すると、容赦なく蹴り飛ばされた。道端の無用な障害物を蹴り上げるようなためらいのなさだった。ティセは地の上を無抵抗に転がった。
「う……」
あまりの打撃に息ができない。呻き声すら上げられず、ティセは土の上で声なく悶えた。痛みと息苦しさ、怖ろしさと悔しさが綯い交ぜになり、ティセを怯え震えさせた。手加減のなさに、いかんともしがたいリュイの意向を解し――――絶望する。
「……ああ……」
たまらなく声にならない声を漏らし、堅く目を閉じた、次瞬――――――衣嚢へ忍ばせた固いものに、震える指先が触れた。
――――――父の遺した方位磁石。
夢を断った、そう思ったティセが、瞬間、両目をかっと見開いた。血と泥にまみれた無残な顔に、ふたつの瞳が黒く美しく輝いた。その網膜には五日間にわたり見つめ続けた、リュイの後ろ姿がくっきりと焼きついている。瞳の奥の、さらに奥には、ナルジャを去ってからの数日が、色鮮やかに焼きついている。
ふたりで一陣の風となり駆け抜けた道筋も、衝撃の昼飯も、天井ごしに語りかけた晩も。尾根の道で突き上げたすさまじい喜びと達成感も、ひと粒もこぼさぬよう堪えた真夜中の涙も、大木に祈りを捧げるリュイとその静寂の光景も。すべての記憶がティセのなかで、すでにかけがえのないものとして、燦然と輝いている。
――――まだ……まだ帰れない……。まだ、おまえと行きたい……――――
心のなかに引いたひと筋の直線は、絶望で掠れ、やせ細ったとしても、いまだひたすら垂直に、折れることなくティセを貫いている。
心が澄んだ。ティセは無心になり立ち上がる。そして、リュイを追う。よろめき、縺れながら駆け、絶叫する。
「置いていかないで! お願いだよ! 置いていかないでくれ!!」
ティセは泣いていた。知らずに泣いていた。リュイの左脚にふたたびすがりつき、そのまま壊れたように泣き喚いた。置いていかないでと、何度も訴えかけながら。血と、泥と、涙と鼻水で顔中を、身体中をぐちゃぐちゃにして、ティセは初めてひと前で泣いた。大声で、嗚咽交じりに、ぶざまに泣き叫んだ。それは、ナルジャにいたティセ・ビハールの、あられもない姿だった。
リュイの白い右袖と脚衣の左は、ティセの血と泥が染みつきすっかりと汚れていた。ティセを左脚にすがりつかせたまま、リュイは立ちつくしている。もはや、なんの抵抗もせず、左脚を預けたかのように立ちつくす。無我夢中に泣くティセは気がつかない。そのときリュイは、痛ましいほど疲れ切った瞳を虚空へ向けて、肩で息をしながら、完全に自失したように立ちすくんでいた。
〈第二章 了〉




