7
翌朝、ティセは先に起床した。毛布にくるまっているので、リュイの目が覚めているかは分からない。おそらく、昨夜はあまり眠れなかったはずだ。そのまま起こさずに、ティセは竈の火を熾し直した。いつ起きてもいいように、リュイの白湯を温めるために。
流れくる樋の水が、捨て置かれた大きな甕を満たしている。溢れた分はささやかな小川となり、山の斜面を滑り落ちていく。甕のなかの清らかな冷水に両手を浸すと、ティセは気持ちが引き締まる思いがした。
しばらくの間、樋から流れ出す水を見つめたまま、甕の水にじっと触れていた。触れながら、見つめながら、さらに気を引き締め、心を澄ましていく。昨夜の弱気を、捨てていく。そして、凛とした心持ちになって、顔を洗った。ばしゃばしゃと豪快に、何度でも洗った。衣服が濡れるのも厭わずに洗いまくった。ひと粒もこぼさずに内に溜めた昨夜の涙を、すっかりと洗い流した。犬みたいにぶるっと首を振り、水気を払う。一新、涙で赤らんだティセの瞳は、黒々と強く、凛々しさを取り戻す。にわかに空を仰ぐ。濡れた髪の先から雫が飛び散って、朝日にきらめいた。
尾根の道で、啖呵を切ったじゃないか――――
ハマの女将の言葉を、校長の言葉を、ふたたび思い出す。鳥たちの朝の歌声が、四方から盛大に聞こえてくる。拍手のように、声援のように、自分を鼓舞してくれているかのように、ティセには聞こえた。
陽がだいぶ高くなったころ、ようやくリュイは起き上がった。すっかり熱が引いたようで、目は冷ややかさを戻している。白湯の入った湯呑みを手渡すと、束の間それをじっと見つめたのち、「僕に?」と言った。決まりの悪さを隠すため、ティセは若干胸を反らせ、わざと尊大な態度で、
「そ。おまえは毎朝白湯を飲む」
リュイはいつもの口ぶりで「ありがとう」と素直に受け取った。ところで、ティセは驚いてしまった。こんなときでも、リュイは毛布のなかに短剣を隠し持って寝ていたのだ。「当然だ」とひとこと言った。
支障なく歩けると言うので、昨日辿り着く予定だった麓の村まで降りた。畑の続く道の途中で、背中の曲がった小柄な老婆が難儀していた。背負った篭が破れて、荷物のキャベツが半分以上地面へ転がってしまったのだ。これではキャベツを運びきれないと、やれやれ顔で独りごとを言っている。
ティセは毛布を袋代わりにして、篭へ入りきらないキャベツを老婆の家まで運んでやった。ちょうど昼前だった、老婆はひなびた笑顔を浮かべ、お礼にふたりを昼食に招待してくれた。そして、リュイの左袖に染みついた血の跡を見て事情を知ると、
「若いからって無理しちゃいかんよ」
そう言って、一日ゆっくり休んでいくよう勧めてくれた。大丈夫だと言うリュイを制して、ティセは「そうします」と厚意に甘えることにした。
老婆の家は大家族だった。老婆と息子夫婦、その夫婦の長男の夫婦と、次男の嫁、小さな子供たちが総勢九名、みっつしかない部屋で大変賑やかに暮らしているようだった。
昼食後、ティセは言った。
「リュイ、その服を貸せ」
「何故?」
ティセは茶色く変色した血の跡に目を遣りながら、
「洗ってやる」
案の定リュイは、
「きみが気にする必要はない」
しかたなくティセはこう言った。
「おまえのためじゃない、俺のためだ」
半分は本音だ。リュイは少し思案したあと、
「……それで、きみの気が済むのなら」
そう答えて、血のついた上着を脱いだ。
言葉とは裏腹に、リュイはその後、ぱたりと寝てしまった。ティセは老婆の家のすぐ脇を流れる小川で洗濯をし、それから九名の子供たちと外で遊んだ。かくれんぼや鬼ごっこ、たわいのない子供の遊びにつき合った。とても楽しかった。楽しいと感じる自分が、ティセは不思議でならなかった。
たった十日前まで、子分のナギやその小さな弟たちと顔を合わせることさえ、うるさい、面倒くさい、莫迦莫迦しい、そんな言葉を口から吐いて避けてきたティセなのだ。にも拘わらず、いまティセは、陽がどんどん西へ傾き、空が夜の準備をし始めているのが残念でならなかった。この楽しい時間が終わってしまうのを、心から名残惜しく感じていた。
四歳だという少女と手をつなぎながら、夕焼けの唄を歌った。父親は出稼ぎに出て、長く不在らしい。少しだけ寂しげな少女の顔と、心細くなるほど小さな手が、いじらしく思えた。庭へ干したリュイの白衣が夕陽を受けて、橙色に染まりはためいていた。
老婆の家の三人の嫁が腕をふるった夕飯は、豆の煮込みと、芥子菜炒め、生姜とキャベツの漬けものだった。それらをシコクビエで作った灰褐色の練りものにつけて食す。簡粗で手狭な部屋に、嫁たちを除く家族とふたりの旅人。十四枚の真鍮の盆が、擦り切れかかった敷物の上にずらりと並ぶ。母とふたりきりの食事を長く続けてきたティセにとっては、圧巻といえる光景だった。家族は白米を勧めたが、初めて食べるシコクビエの練りものがめずらしくて、ティセはそればかり食べていた。
「ジャールのほうじゃあ、こんな田舎の食べもの食べんじゃろな」
老人斑の浮かぶ顔でのどかに笑み、老婆は話す。子供たちはリュイをじっと見つめている。食べにくいに違いないけれど、無視は大の得意だろう、ティセは苦笑した。
そのうち、八歳の兄が六歳の弟の盆からつまみ食いをして、激しい喧嘩が始まった。
「こら! お客さんの前でなんだ! まだあるから台所でもらっておいで」
家長である老婆の長男が一喝すると、子供たちは盆を持ち、我先にと台所へ飛んでいった。
「俺いっちばーん!」
「兄ちゃんずるい」
「あたしも欲しー」
老婆は呆れ顔でふたりを見遣りながら「すまんねぇ、騒がしくて」と笑う。つられてティセも笑った。ふいに、母とふたりきりのシンと静まりかえった食事を思い出す。そして、いまこのとき、あの仕事部屋で、母はひとり夕食を取っているのだと思うと、言いようのない想いが込み上げた。ふっと笑みを収めて、ティセは目を遠くする。ひとりで食事をする痛々しげな母の背中が見えるようで、感傷に黒い瞳を陰らせた。その横顔を、リュイが静かな眼差しで眺めていた。
次男の嫁とその子供たちが空けてくれた部屋で、その晩を過ごした。蝋燭の頼りない灯りひとつでも充分なほど小さな部屋だった。夕食を取った部屋よりも、敷物はなお擦り切れて、ほとんど縦糸と緯糸だけになっていた。
食後、家長と雑談をした際、このまま行けば三日後には国境の町へ到着すると分かった。ハマへ辿り着いた時点で、出国はそう先のはなしではないとティセも予想はしていた。ナルジャから出られさえすれば、行き先などどこでもいいと思っていたため、リュイがどこを目指しているか、まだ聞いていなかった。
左腕の包帯を巻き替えているリュイへ、それについて尋ねてみる。国境を越えてほどなくすると、ティアマという大きな町があり、そこに数日滞在していろいろと用を済ませたい、その後については決めていない、そう答えた。
「そもそもさ、おまえはどこに向かって旅してんの?」
リュイは黙って包帯を巻いている。聞こえなかったのか、それともまた無視かと訝るくらい間が空いた。包帯の端に始末をつけてから、ティセを見もせずにようやく答えた。
「向かう先はない」
「……え?」
改めたようにティセを見る。そして、平然と言った。
「笛の当てなどないんだから」
「は!?」
ティセは目を瞠り、リュイに見入った。
「対の笛の手がかりはひとつもない。あるのは片方の笛だけだ」
言葉を失ったティセに、さらに平然とリュイは続ける。
「僕が生まれる前から、対の笛は行方が分からないと言ったろう。だから、それがどんな形をしているのかも僕は知らない。いつ、誰が、どこへ持ち去ったかという話も聞いていない。探す当てがないのだから、向かう先もない」
「……じゃあ、やみくもに歩いてるだけなのか? 世界は広いんだぞ、それで見つかるとはとても思えないよ。おまえ、よくそんな旅に出たな……」
感嘆とも呆れともつかないような、溜め息交じりの声で言った。リュイは視線を外し、しばらく黙っていた。すきま風が入り込み、蝋燭の灯りが急に乱れる。リュイの顔や衣服に描かれた陰影が揺らめき、ふたたび描き直される。おもむろに口を開いた。
「ふたつの笛は互いを求めて共鳴し引き寄せ合うと、父は生前話していた。片方の笛を携えていれば、いつか必ず対の笛に巡り会う。笛が導いてくれる」
そんなお伽噺のようなはなしを、リュイはこともなげに語った。ティセは呆気に取られ、その目を見つめた。しかし、その目はおよそ、夢物語や超常現象を信じるひとびとが持つ、なにかに浮かされた目ではない。リュイの目はあくまで冷たく醒めている。語ったことと、その眼差しの隔たりが、ティセには奇妙に感じられた。ナルジャを出た朝、リュイを説得しようとして「旅の神さまが導いている」とはずみで言った。確かにリュイは反応していた。が、隔たりにはひどく違和感があった。
「それ……おまえは本当に信じてるの?」
目を見据えて問うと、リュイはまるで用意していたみたいに即答した。
「信じている」
信じていなければやっていられない、という意味なのだろうか。ティセはそんなふうにも考える。黙り込んだティセを追うように、リュイは続ける。
「けれど――……」
「けれど?」
「きみは、信じなくてもいい」
意図的に突き放すふうではなく、リュイはただ静かにそう告げた。ティセはまた胸の奥をひんやりとさせる。どんな鉄槌でも壊せないほど頑丈な、リュイの内側に掛けられた鍵の存在を、ティセはまざまざと感じ取る。思わず、唇を噛んだ。
押し黙ったティセに構うことなく、リュイは寝る体勢に入る。まぶたを閉じる前に、ティセの名を呼んだ。
「ナルジャへ帰るなら、イリアを出る前がいい。出てしまうと、いろいろと面倒だろう」
そう言って、まぶたを閉じた。ティセはその言い草にかっとなる。両の拳をきつく握り締めた。横たわるリュイを睨みつけ、震えた掠れ声で、
「……おまえは……最低だ……!!」
おやすみ、と吐き捨てるように告げ、蝋燭を吹き消した。途端、暗闇に包まれる。
ティセは毛布へくるまり、さまざまな思いに胸の内を憤らせる。怒りも、悲しみも、寂しさも、やるせなさも、リュイの言動に対するわだかまりのすべてがごちゃ混ぜになり、ぬかるみのようになって胸を塞いだ。拳を握り続けた。
信じなくてもいい――――言われたのは三度目だ。ひとを締め出すような冷酷な言いかたを、あんな真顔で何故口にできるのだろう。自分が信じていることを、ほんの少しでも相手が信じてくれたらいいと、微塵も思わないのだろうか。信じてくれたら嬉しいと、もしも自分なら言うだろう、ティセはそう思う。
けれど、リュイは素直に語ったうえで、にべもなくティセを締め出す。旅の連れだと認められていないのも、歓迎されていないのも分かっている。それでも、リュイは決して自分を嫌ってはいないのだと、ティセはとうに気づいていた。心ない言葉を放っても、冷たく締め出しても、無視をしても、そこに自分への嫌悪や侮蔑を、睫毛の先ほども感じ取ったことはない。あしらわれていると感じることもない。
だからこそ、ティセはこうして一緒にいられるのだった。放たれる言葉はひんやりとしていても、故意に荒っぽく突き飛ばすような悪意や皮肉を言葉に感じることはなく、リュイはいつでもあっさりと、ただ静かにものを告げるだけなのだ。ティセにはリュイの言動の真意がまったく分からなかった。ひとつ分かるのは、信じてくれたらいいと言えないリュイは、寂しいひとだということだ。