6
早朝、腰かけの上で目覚めると、隣りに寝ていたはずのリュイがいなかった。ティセは心臓が止まるほど驚いて飛び起きた。が、荷物が目に入り、置き去りにされたわけではないと、すぐに分かった。
「……脅かすなよ、起き抜けの心臓に悪いよ……」
辺りを見回すと、谷沿いに細長く続いた、朝靄漂う畑のなかにリュイの姿を見つけた。なにをしているのか、リュイは不可解な動作をしていた。
芥子菜畑の隅に、ひときわ大きな一樹の樫の木がある。リュイはその根元に立て膝をつき、やや顎を上げ、胸の前で合掌していた。しばらくすると、腕をゆっくりと降ろし、両の手のひらを根元に押し当てた。そして、顔を上げ立派な幹に額をぴたりと当てて、すべての動きを止めた。その動きの絶えかたは、幻を見たような気がしたあの朝よりなお完璧な、わずかな綻びすら一切ない完全な静止だった。
青さの残る冴えた空気に包まれて、リュイと大木はひとつづきになり時を止めていた。上下の白衣は空気に染まり蒼ざめ、どこか清幽として見えた。そのときリュイはうつせみのひとではなく、大樹とともに数百年の時を過ごす精霊かと見紛うほど、現実感を失っていた。絵のような光景だった。絵ではないことを教えるよう、ゆるやかに朝靄が流れ、大木とリュイを掠めていく。静寂という言葉がこれほどふさわしい光景を、ティセは見たことがない。
なんのための行為かは分からない。けれど、敬畏に満ちた慎み深いものであると感じずにはいられない。ティセは息を凝らした。精緻に張りつめた静寂の光景を、ほんの少しでも乱してしまうことが憚られた。ティセは瞬きを忘れた。この厳かな光景に心を奪われて、放心していた。
見つめていると、やはり笛の音がよみがえる。記憶の底から笛の音が鳴り響き、その光景をさらなる深き静寂へと導いていた。ティセの心をしじまへと導くように、笛の音が鳴り響いていた。ふいに、出会ったときを思い出す。あのときリュイは沙羅樹の下にいた。リュイは、樹の下がとてもよく似合う。
ずいぶん長いことリュイはそうしていた。朝靄が消え、空気の青さが抜けるまで静止していた。やがて、おもむろに立ち上がると、畑のなかをまっすぐに戻ってきた。ぼんやりと座り込むティセに、「おはよう」といつもの声音で言った。
「……ん……おはよ」
我に返ったティセは、つい確かめるようにリュイを眺めてしまった。すでに現実感を取り戻していた。いましがた見たリュイは、なにかの見間違いだったかと思わずにいられない。
「あの……いま、なにしてたの?」
率直に尋ねると、自身の行為であるにも拘わらず、リュイはしばらく思案した。そして、覚束ない返答をする。
「しいて言うなら、祈りだろうか」
「祈り? おまえの信仰か?」
「信仰というより慣習だ。イブリア族に伝わる儀式のようなものだ」
「木にひざまずくのが? へええ!」
ティセが感慨を深くすると、リュイは腰かけに腰を下ろし説明を続けた。
「いまはずいぶん廃れてしまったけれど、イブリアには古くから大木信仰がある。この辺りにも土着の神々がいるだろう」
「うん。祠なんか山ほどあるよ。でもみんな、それほど見向きもしないね。シータ教の寺院に通うひとはそれなりに多いけど。俺はどっちもあんまり信じてないなぁ。正直、神さまに祈るのは困ったときだけだ」
たったいま祈りを捧げていたリュイを前にして不敬だろうかと懸念しつつも、ティセは本音を語った。イリアの多くのひとびとは建前上シータ教徒を自認しているものの、敬虔というにはほど遠く、一部のひとだけが熱狂的に信仰している。同時に、古来の土着の神々も捨てず、まれに思い出しては敬っていた。礼儀に欠けるティセの発言を受けても、リュイは厭な顔をせず「シュウでも同じようなものだ」と言った。
「シュウの現政府は宗教を奨励していないから、信仰は廃れる一方だ。イブリアの大木信仰もほとんど忘れられている。僕も帰依しているわけじゃない。こんなことをするようになったのも、つい最近だ」
「へえ! なんでまた?」
すると、リュイはまたしばらく思案した。ゆっくりと瞬きをしながら、やはり覚束ない返事をする。
「分からない。けれど、両親がしていたのを思い出した。……そう、笛が音を出し始めてから急に思い出した。三ヶ月ほど前からだ」
意外なことを言うので、ティセは驚いて大きな声を上げてしまった。
「ええっ!? 三ヶ月前まで、あの笛吹けなかったのか!」
吹き手を選ぶという話がもしも本当だとすれば、つい三ヶ月前まで、リュイは笛に認められていなかったということになる。対の笛を探して二年も旅をしているというのに、なんという理不尽な笛なのかと、ティセは唖然とした。リュイは畑の縁辺りを見つめたまま答える。
「きみが信じられないように、笛が吹き手を選ぶという言い伝えを、僕も半ば疑わしく思っていた。そもそも楽器というものは、初心者が簡単に音を出せるものではないだろう。やはりなにかコツがあるのだろうと思っていた。けれど、三ヶ月ほど前に突然美しい音を出した。それ以来、どんなになおざりに息を吹き込んだとしても、いつでも美しい音が出る。だから、いまは信じている」
説得力のある話ではあった。しかし、ティセは大きな引っかかりを感じた。リュイの横顔をじっと見据え、尋ねる。
「……おまえ、信じられなかったのに、もうひとつの笛を探す旅に出たの?」
リュイは前を向いたまま長い睫毛を伏せて、わずかに間を置いた。そして、視線を畑の縁へ戻して、
「それが両親の遺言だから」
「……そっか」
ティセも畑のほうへ視線を移し、黙として考えた。亡き父親の顔を思い出していた。父の遺してくれた夢がなかったら、こうして知らない土地を異国の少年と歩くことはなかったのだ。活き活きしさのないリュイは、どうしても人間味に乏しく目に映ったが、それでもひとなみ以上の家族愛を内に秘めているのだろうか。リュイの話を自分なりに解釈し、ティセは納得した。
昼前にはまた山歩きになった。先日の山歩きと変わり、ティセが先を行く。その気になれば簡単に追い抜けるはずなのに、リュイはおとなしくティセの後ろに甘んじている。かといって、旅の連れだと認めた様子はない。いまでも「好きにすればいい」という気持ちなのだろう。にも拘わらず、ティセの歩調に合わせていた。
リュイはとても従順なひとだということに、ティセはもう気づいていた。腕を掴んで食堂兼簡易宿へ連れ込んだときも、左手を貸せと言ったときも、リュイは素直に従った。あの衝撃の昼飯を思えば、リュイの意志と精神力の強さは相当であるはずだ。許しただけで認めたわけでないという信念に従いながらも、何故か従順であった。不思議なやつだな、とは思うが、その矛盾ともいえるリュイの対応は都合がよかった。
道の先が左右に分かれている。朽ちかけた木の道標が分かれ目にひょろりと立つ。
「どっち?」
リュイは背後から静かに答える。
「左」
どうかそのままでいてくれと、ティセはほくそ笑む。
尾根に出て、だいぶ遅めの昼休憩を取った。午前中に通りかかった集落で小休憩をした際、腰の曲がった老婆から茹でた馬鈴薯をもらっていた。ティセは塩を振った馬鈴薯を立ったままほおばりながら、眼下に広がる棚田を眺めていた。麓に見える村まで、今日は歩くらしい。
山歩きのあとの馬鈴薯は、その素朴な味わいの奥深さが増して、なんともいえず美味だった。腹も心も満たされたティセはそのまま立ちつくし、飽きもせず眼下を眺め渡す。さわやかな風が尾根を渡り、脚衣を気持ちよくそよがせる。見晴るかす下界はどこまでも広い。見下ろしていると、ティセは鳥になって空を飛んでいるような気分になった。空の高みを、鳶のように自由気ままにだ。お気に入りのはずれの丘はそれほど高くはないので、まぶたを閉じて空想に浸らない限り、こんな気分は味わえない。あの村を出て、俺はいま、自分の羽で飛んでいる、ティセは心でそうつぶやいた。
後ろで腰を下ろして馬鈴薯を食べていたリュイが、いつのまにか横で同じように立ちつくし、遠くを眺めていた。顎をまっすぐに上げ、ティセよりももっと、ずっと遠くを見ているようだった。耳ぎわの黒髪と襟もとに巻いた薄布の裾が、涼しげになびいている。その立ち姿に、ティセは暫し見惚れていた。実際リュイの直立は、垂直に落ちてくるひと筋の水のようにまっすぐで、周りの空気が緊張して見えるほど美しい。ティセは感歎の声を上げた。
「おまえって、兵隊みたいにまっすぐに立つよな。感心するよ」
リュイは遠くに目を遣ったまま、しばらく黙っていた。そのうちゆっくりと振り向いて、ティセの目をひと呼吸分見つめた。それから、静かに返した。
「きみのほうこそ、いつでもまっすぐに立っている」
「そうだよ。誰にも莫迦にされないようにね」
ティセは心持ち胸を張った。
「誰かがきみを莫迦にするの?」
「しないよ。いつだって胸を張って、まっすぐに立ってるからな」
得意げに答えると、リュイは「そう」とだけ返し、ふたたび遠くへ目を遣った。沈黙が流れる。
素っ気ない、愛想がない、会話が続かない。呆れたティセは、出会ったときから思っていたことを口にする。真面目に言うと傷つくかもしれないと懸念して、声に冗談味を交えて言った。
「おまえはさー、ほんっとに取っつきにくいよ。素っ気ないし、もうちょっと砕けた話しかたできないの? 同年代としゃべってるとはとても思えないんだけど」
リュイは前を向いたまま、なにも返さない。無視された。ティセは少々むっとした。その横顔を軽く睨みながら、
「……このあいだ、俺が陰険野郎って怒鳴ったの、聞こえたか?」
やや間を置いて、リュイは沈着に答えた。
「聞こえた」
「あれは違った。訂正するよ。おまえは陰険なんじゃない、そう、陰気なんだよ」
鼻のつけ根をしわめ、「陰気」という部分を強めて言った。リュイは表情を少しも変えず、やはり前を向いたままなにも返してくれなかった。再度、無視された。やれやれ、とティセは頭をボリボリ掻いた。
リュイの冷静さと無表情に、ティセは心底恐れ入っていた。つねに堅い顔をして、わずかでも崩れてやわらかくなることがない。声音も同様に変化なく、暗さを孕んだ静けさを保ち続けている。顔にも声にも感情が表れない。目は口ほどにものを言う、という言葉があるけれど、リュイの目はほぼなにものをも語らない。村の同級生たちなら、顔つきや声の調子だけで、いまどんな気持ちでいるかおおよその見当がついた。楽しいのか悲しいのか、いやなことがあったのか、それくらいは見て取れた。
そのうえ、リュイは身振りも最低限で、情緒ある身動きをしないため、仕草から感情を読み取ることもできない。リュイがいまどんな気持ちでいるか、ティセにはまったく窺い知れなかった。ティセが大勝利を迎えたあのとき、ほんのわずかに目が狼狽えたのを見たのが、唯一分かった心の動きだ。気持ちをおもてに表すのが下手なひと、ティセの周りにもそういうひとはいたが、そんな生易しいものではないようだった。不器用さからくるものでなく、感情そのものが希薄だとしか考えられなかった。生きている感じのしないひと――――ティセは改めてそう思った。
その日は予定通り、麓の村に過ごした。翌日はまた、山歩きだ。
昨晩泊まった食堂兼簡易宿で、ティセは豆の煮込みの風味の違いに気がついた。かつて味わったことのない食味が舌を刺激した。食堂の主人である老夫へ尋ねると、初めて知る調味料が使われているのが分かった。この辺りではめずらしいものではないという話だ。
村から遠く離れると、同じ豆の煮込みでも風味が変わる、よく考えれば当然のことが、ティセには大発見に思えた。豆の煮込みの違いくらいで容易に感激できる自分を、我ながら単純だと心で笑いながら食べた。これから先も、こんな些細なことから重大なことまでの初めてが待っていると思うと、高まりは否応なく増した。あきらかに浮かれていた。リュイの手前、できる限り平常に振る舞おうと、ティセは苦労した。
昼下がりに小休憩を取った。斜面の道が広く開かれた場所で、そこに数件の廃屋が打ち棄てられていた。道沿いにはあばら屋が、ぽつねんと取り残されたように立つ。土を固めて拵えた大きな竈が、その脇で崩れかけている。おそらくここで茶屋を開いていたのだろう。便の良い麓の村にでも移住したのだろうか、住人が去ってからそれほど長くはないと見え、斜面に引かれた樋はまだ生きていて、清涼な山水が流れたままになっている。
リュイはあばら屋に腰を下ろし、例のごとく読書を始めた。ティセは水筒の水を飲みつつ、廃屋の周囲をうろついている。あばら屋に一番近い廃屋をぐるりとひと回りしたあと、すぐ脇にある茂みのなかに、杏の木を見つけた。
「そういえば、そろそろ杏の季節じゃん」
見上げてみると、杏の木は橙色の実をつけていた。熟しているかは分からない。手が届かなかったので、拾った棒切れで実を落とそうと、ティセは激しく枝を叩いた。すると、
「そこをどけ!」
リュイが鋭い声を上げた。初めて聞く声音だ。驚いて振り返ると、抜いた長剣を手にしたリュイがすぐ後ろまで駆けてきていた。剣が宙を切ったのと、木の上からなにかがばさりと落ちてきたのと、ほぼ同時だった。
「な、な、なに!?」
地面に落ちたのは、まっぷたつになった蛇だった。クサリ蛇の一種だろうか、三角形の頭を激しく振って、死にきれずに藻掻いている。
「離れて!」
普段と違う、やや押し殺した声でリュイは言った。ティセは厭な予感に襲われ、リュイを見た。白い左袖に、真っ赤な血が滲んでいる。太い針を刺したようなふたつの牙痕が、赤く染まった布地に生々しく残っていた。相討ちだったのだ。
「噛まれた!?」
慌てて大声を上げたティセには取り合わず、リュイは剣を収めてあばら屋へ戻っていった。左肩を落とし、腕をだらりとさせて、右手で傷の上部、左肘あたりを押さえながら。大変なことをしてしまった、ティセは息を呑んだ。背中にざわりと冷気が上る。
あばら屋へ戻ったリュイは、速やかに手当を始めた。
「大丈夫か……ごめん、俺のせい……」
おろおろと声をかけるティセに、
「静かにしてくれないか」
いつもの調子でひとこと告げた。毒が回らないよう二の腕を手ぬぐいできつく縛り、少しつらそうに目を細めながら左袖をまくる。それから靴底でマッチを擦って、口にくわえたナイフの切っ先をその小さな炎で炙り、わずかに眉をしかめて牙痕のまわりの皮膚を少しだけ切り取った。鮮血がとくとくと溢れ出て、浅黒い腕を伝わり、滴った。そのうえで、傷口から血とともに毒を吸い、何度も吐き出した。水筒の水でうがいをし、傷口をさらりと洗い、また毒を吸う。これを幾度もくり返した。
ティセは言われたとおり、押し黙りひたすら静かにしていた。胸の内を悚然とさせて、一連の作業を怖々と見つめていた。リュイはすべての作業を、自身の右手と口だけでやってのけた。少しの迷いも無駄もない、鮮やかな手つきで。傷口がどす黒く腫れ上がっている。以前、友人が蛇に噛まれたときに、咬傷には火箸を当てられたような激痛があると言っていたのを、ティセは思い出した。けれど、リュイはいちども痛いと漏らさなかった。皮膚を切り取ったときでさえ、眉を若干しかめただけで、平静を保っていた。
噛まれたのはあきらかにティセのせいだ。周りをよく確かめずに、軽はずみなことをしてしまったからだ。気持ちが浮かれすぎていた。胸の内の怖れと怯えが大きな罪悪感に変わり、ティセを苛んでいた。包帯を巻き終え、ひととおりの手当が終わったところで、改めて真摯に謝罪をした。
「ごめんなさい。俺のせいだ」
神妙になったティセを一瞥したリュイは、やはりいつもと変わらない冷静な眼差しをしていた。
「……その……痛む?」
おどおどと尋ねるティセに、
「つまらないことを聞かないでくれ」
もっともな返事をした。怒っている様子は少しもない。普段よりもなお、さめやかに感じる口調で、
「確かにきみの軽率な行動が原因だけれど、噛まれたのは僕の不注意だ。きみが責任を感じる必要はない」
「俺のせいだろう! どう考えたって!」
激したところでなにもならないけれど、ティセは思わずそう怒鳴っていた。リュイはこんなふうに返した。
「さいわい、命に別状があるような蛇じゃない。ただ、僕は今日、ここからもう動けない。先へ行きたいのなら先に行けばいい。二時間ほど歩けば村が見えるだろう」
その言葉に、ティセは激しく衝撃を受けた。雪山に吹きすさぶ零下の暴風を受けて、身も心も一瞬にして凍りついた気がした。目を瞠ってリュイの顔を見る。平静を保っているだけなのに、いままででいちばん冷たい顔をしていると感じた。こんなふうに言われるくらいなら、きみのせいだと責められ、罵られるほうがよっぽどましだ、よっぽど楽だと、ティセは心で叫ぶ。どれほどひとを打ちのめす言葉を発しているのか、リュイ自身、分かって言っているのだろうか。
芯から打ちひしがれて、ティセは怒る気力も失った。目を伏せて、低く囁くのが精一杯だった。
「……置いて行けるわけないだろう……」
互いに二食分程度の食料は持っていたし、ここには水もある。予定外に動けなくなっても困りはしない。手当を終えたリュイは毛布にくるまり、その場に寝てしまった。ティセはあばら屋の竈の脇で、長いこと膝を抱え自己嫌悪に耐えていた。やがて、日が傾いた。崩れかけた竈に火を熾し、二人分の簡単な煮物を作る。寝ているリュイにそっと声をかけると、ひとまずは起き上がった。熱があるような目をしている。「ありがとう」と言ったものの、つらいのか、あまり食べずにまた横になってしまった。
夜が訪れ、あばら屋は静けさに包まれた。ティセは竈の前で膝を抱え、ちらちらと燃える火を寂寞とした気持ちでただ見ていた。瞬きの音が聞こえるほどの静けさは、胸の内に沈積した後悔や自責の念、悲しみ、寂しさなど、ティセを苛むあらゆる思いのひしめく音を、いっそう明瞭にさせていた。
リュイが静かな溜め息をつくので、先ほど、ティセは小声で具合を尋ねてみた。頭痛がすると言っていた。熱が高いのかもしれない。
「俺にできること、なにかない? あればなんでも言って」
誠実な気持ちでそう尋ねた。毛布の内側から放たれた即答は、
「それなら、静かにしていてくれないか」
――――とどめを刺された気がした。
俺はいないも同然だ、ティセは心でつぶやいた。
初めから分かっていたことだ。リュイはあれほど自分を拒絶し、いまでも旅の連れだと認めたつもりはないのだから。なんでもひとりでできるのだし、現に長いことそうしてきたのだろう。ティセに頼ることなどなにひとつないのだ。傷の手当ても、右手と口だけで易々とやってのけた。あのとき、目の前に自分がいることすら、リュイの頭には上らなかったに違いない、ティセははっきりとそう思う。
そして、軽はずみなことをして迷惑をかけたうえに、なにもできない、なにも役に立たない、頼りにされない自分が許せなかった。蹴飛ばしてやりたいほど、ティセは自分を嫌悪した。いないも同然だ、だから自分の行動が原因で蛇に噛まれたからといって、責めたりするはずがない。いないのだから。
先へ行きたいのなら先に行けばいい――――あまりにも心ない言葉を受けた。凍えた心がその場でうずくまってしまうくらいの、むごさを含む発言だった。氷塊のような言葉は二度目だ。すでに数日をともに過ごしているために、最初の言葉とは比較にならないほどきつかった。
ティセはひとつ、気にしていたことがある。リュイは出会ってから、ただのいちども笑わない。作り笑みはしていたが、それは笑みとはいえない。ほんのわずかでさえリュイの口角は上がることがない。「下手くそって意味?」と尋ねたとき、微笑ったと思ったのは間違いだ。いまなら分かる、あれも作った笑みだった。
目の前にいても頭にも上らず、頼ることもなく、責めることも、微笑みかけることもない。誰のことを言っているのか分からない――――あの言葉はあながち嘘ではなかった。ティセは痛いほどそう思う。
悲しい。とてつもなく悲しい。情けないほど、悲しかった。鼻の奥がつんとして、涙が込み上げる。竈に燃える小さな炎が、ティセの潤んだ瞳のなかで揺らめいた。ティセは息を殺して涙を堪えた。ひと粒の涙もこぼさぬよう全身を緊張させて、気を張りつめる。目の奥、心の奥から溢れくる熱いものにひたすら耐えた。
泣くもんか――――……
記憶のあるかぎり、ティセはひと前で涙をこぼしたことがいちどもなかった。父や母の前でもだ。本当は、少しでも琴線に触れてしまえば、いとも容易く涙が込み上げる。ひと一倍涙もろいのを、ティセは自覚していた。心のやわらかい部分がむき出しなのか、小さな刺激にも涙腺が震えてしまう。刺激から護るため、強い自分を護るため、そこをなにかで覆ってしまいたいのに、どうしてもできずにいた。ティセ・ビハールは決してひとに涙を見せない――――知らずに立てた誓いに従い、込み上げる涙を一心に我慢した。父が死んだときでさえ、ティセは誰もいないところへ行って、独りきりで泣いたのだ。
夜の小動物たちが起き始めた。悲しみに沈んだティセをすくい上げるように、静けさが乱される。こんな時間にこっそり起き出すなんて、後ろめたいことでもあるみたい……そう思いつつ、あばら屋に横たわるリュイへ目を遣った。また、かすかな溜め息をついている。
ごめんね、リュイ……
暗闇のどこかから、思慮深そうなフクロウの鳴き声が聞こえる。鳴き声はひと晩中響き渡り、ふたりをひっそりと包んでいた。