5
尾根の道から見えた麓の村へ降りた。ひなびた小さな村だ。シータ教の寺院すらないのか尖塔が見えない。目抜き通りといえるほどの繁華な通りもない。それでも、数軒の商店と小汚い食堂が集まる一角があった。こういった田舎の食堂には、食事の分だけ代金を支払えば宿泊できる店がある。食堂の二階や屋根裏にある、寝具の用意もない部屋に雑魚寝するだけではあるが、頼めば水浴びをさせてもらえることもあり充分だ。ティセはリュイの腕を掴んで、意向も聞かずに連れ込んだ。
「おまえのせいでこの五日間、ろくなもの食べてないんだ。夜もあんまり眠れなかったし、とにかく疲れ切った。今晩はゆっっっくり休ませろ」
リュイは冷めた眼差しを向けるだけで、無言のままティセに従った。
簡素な食堂には食卓がよっつある、どれも古びて傷だらけだ。食堂というよりは呑み屋が本業とみえて、店の隅には空いた酒瓶や地酒の甕が積まれていた。ふたりは窓辺の席について向かい合い、夕食を取っている。軒先には乾燥とうもろこしがギュウギュウに吊されて、夕陽を受け黄色く光っていた。
ひよこ豆と馬鈴薯の炒め煮と、山盛りの白米、唐辛子の漬け物、辛味の少ない生の玉葱。昼食を抜いたティセは、味わう余裕もなく夢中で食べていた。が、ふと思い出して手を止めた。そして、目の前で同じ食事を品良く口にしているリュイへ、恨みがましい声で言う。
「あの日の昼飯は、俺、一生忘れないからな」
リュイも手を止めて、こう答えた。
「僕も、生涯忘れないと思う」
あのときのことを思い浮かべているのか、伏し目になったのち、
「あんなに食べこぼしながら食事するところを、僕は初めて見た。ひどく驚いた」
「そこかよ!?」
ティセは呆れた。見えていないふうに振る舞いながら、そのじつひどく驚いていたということにも呆れる思いがした。
リュイはあの日の昼食時と同様、冷ややかさすら漂う無表情と迷いのない手つきで、淡々と食す。見ていると、ティセは自分の盆に盛られた食べものの味がみるみる薄まり、なくなっていくような気がした。なんだか暗いなぁ、とまた呆れた。
食堂にはほかにも宿泊客がいた。出稼ぎの帰りだという数人の農夫たちだ。彼らは食堂で賑やかに呑み始めたので、二階の雑魚寝部屋にはふたりきりだった。木肌がむきだしの壁、ムシロが引かれただけの床、戸がないため一階の食堂から薄明かりと話し声が漏れてくる。けれど、夏場に使用する大きな蚊帳が、部屋の隅に用意してあるだけまともな客間といえた。ティセは部屋の奥、窓に近いあたりを陣取って、早々と寝ることにした。いまから寝れば、女将の宿の長椅子で寝た日以外の睡眠不足を、すべて解消できるだろう。
「リュイ、ちょっと左手を貸せ」
右隣へ横になったリュイに申し出た。リュイは怪訝そうに間を置きつつも、素直に左手を差し出した。ティセはその手を右手でぎゅっと握り締める。薄闇のなかに、リュイの浅黒い手と、ティセの黄みがかった白い手が浮かび上がった。変わらぬ落ち着いた声で、リュイは尋ねた。
「なんの真似?」
「俺が眠りこけてるうちに気が変わって逃げないよう、朝まで手をつないで寝る」
「無駄だ。熟睡しながら握っていられる自信があるとでも?」
「…………」
ティセは考え直した。
「じゃあ、笛を貸せ」
「何故?」
「朝まで人質に取る」
リュイは軽く溜め息をついた。
「逃げたりしない」
「本当か?」
「本当だ。だから、離してくれないか」
「ほんっとに逃げないだろうな?」
「……約束する」
そこまで言わせて、手を離した。おやすみ、と声をかけたのに返事がないので、怒ったかな、と横目でリュイを見た。するともう静かな寝息を立てている。怖ろしく寝つきがいい、ティセは驚いた。
夜更け、ぼんやりと目が覚めた。食堂では農夫たちの宴会がいよいよたけなわで、彼らの下卑た莫迦笑いが耳をつんざいたのだ。うるさいなぁ早く寝ろよ……と思いつつ、ティセは寝返りを打った。腕を投げ出したそのはずみ、逆を向いて寝ているリュイの背に、指先がぽつんとかすかに触れた。
と、ほぼ同時、ティセは猛烈な力により身体が無理にねじれる感覚と、鋭い痛みが走るほどの圧力に両手首を襲われて、息が止まった。
「――――っ!!」
ぼやけた視界がふたたび像を結んだとき、その隅に刃の鈍い光が見えた。切迫。死が頭を過ぎり、慄然とする。刃の後ろには、リュイの顔が見える。普段とまるで変わらない冷静な眼差しをして、落ち着き払っている。一瞬のできごとで、なにが起こったのか分からなかった。ティセはリュイに襲われて、左向きに両手首を押さえつけられ、首に短剣を突きつけられていたのだ。
リュイは押さえつけた両手首をすぐに解放し、短剣を鞘へ戻した。
「隣りにきみが寝ているのを、寝惚けて忘れていた」
なんでもないことのように言った。ティセは解放されても生きた心地がしない。押さえつけられた体勢のまま動けずに、しばらくは息を殺していた。ようやく半身を起こし、声を低く震わせて、真顔でリュイを非難する。
「……寝惚けたって、こんなことするかよ、普通」
「すまなかった、もう忘れない」
そう言って、リュイはふたたび横になり、剥いだ毛布にくるまった。たったいま、ティセに突きつけた短剣を抱いたまま。
「おまえ、そんなもの持って寝てんのか!?」
「そう」
「毎晩?」
「そう」
「……物騒だなあ」
思わず言うと、
「持たないほうが物騒だ」
そう答えて、リュイはまた、あっという間に寝息を立て始めた。
薄闇のなか、その寝顔を長いこと見つめながら、ティセはなかば呆然としていた。ほんのわずかに指先が当たっただけだ。跳ね起きた音も気配もなかった、指先が当たったと感じたのと、ほとんど同時にあの状態になっていた。普通、できるものだろうか。
ティセがなにより驚いているのは、短剣をひとに突きつけながらもリュイがしていた、普段と変わらぬ眼差しだった。緊迫した空気と平静さの乖離が不気味ですらあった。おまけになにもなかったように、あっさり寝てしまった。出会った日に強く感じたリュイとの隔たりを思い出す。いま、隔たりはさらに大きさを増し、ティセを悩ませた。いままで接してきた同年代とはなにもかもがまったく違う、自分のものさしでは到底測れないひとなのだと痛切に感じる。日中に尾根の道で切った啖呵は少し無謀過ぎやしなかったかと、早くも不安になった。
食堂からふたたび莫迦笑いが上がる。ぼんやりとリュイを見つめるティセの耳を刺し、窓の外の暗闇へ消えていった。
翌朝、リュイは窓辺で本を読みながら、ティセが起床するのを律儀に待っていた。朝の遅い時間までぐっすりと寝て、山歩きの疲れがすっかり抜けていた。ティセは座ったまま大きく伸びをして、
「おはよう。起こしてくれてよかったのに」
リュイは本から目を上げて、ティセを一瞥した。そして、なにも返さず目を伏せると、本を荷物へしまい立ち上がった。床に寝腐る昨夜の酔っぱらいたちを器用に除けて、さっさと食堂へ降りていく。
「あ、ち、ちょっと待てよ」
ティセは慌てて毛布を巻いて、あたふたとあとを追った。リュイは約束を果たした。それだけだ。付いて来たいのなら好きにすればいい、あくまでそれだけで、ふたりはまだ旅の連れとは言いがたい。ふたりともが頑なに、己の信念に従っていた。
その村を出て、谷沿いのなだらかな道を行く。右手には小川が流れ、せせらぎの心地よい音が始終聞こえていた。今日も快晴、ほの暖かい風がティセを包む。昨日までの、がむしゃらにあとを追うだけのつらい旅が終わりを告げて、夢に見たほんものの旅が始まったのだ。ティセにとっては、今日が旅の第一日目なのだった。つねに前方にいたリュイは、いま隣を歩いている。否、正確にいえば、ティセが少し前を行く。ふたりの立ち位置が変わっていた。
ハマの女将の宿を出たあと、リュイの歩く速度は尋常のものになった。山歩きはひどくこたえたが、リュイとしては特別急いだつもりはなく、平常の範囲内で歩いただけなのだろう。けれどいま、後ろを歩くリュイがあまりにゆっくりしているので、ティセはわだかまりを募らせた。振り返り、恨みのこもった目を向ける。
「……おまえ、普段はこんなにのんびり歩いてたのか?」
ティセの声は低く憎々しげだ。リュイはしれっと答える。
「当然だ。急ぐ必要は少しもない。きみのおかげでとても疲れた」
責めているのでも厭味でもない、素直に事実を述べているに過ぎないことは、その声音で分かる。それが逆に可愛げがない、ティセはいっそう恨めしげにリュイを睨んだ。
小川のせせらぎと風にそよぐ木立のざわめきを耳に、のんびりと田舎道を行く。谷沿いには細長く田畑が続き、集落が立ち現れる。集落があれば、小川には水車が回り、軽快に粉をひく。川辺に鴨が遊ぶ、牛車が過ぎる、山羊の親子が草をはむ。
ナルジャと大差ない、なんでもない田舎道でも、ほんものの旅の初日を迎えたティセには楽しくてたまらない。心も足取りも軽く、目に入るものすべてが新鮮で、きらきらと輝いているようにすら感じた。突然駆け出してみたくなったり、すれ違う農夫たちへ大声で挨拶をしたい衝動に駆られた。
けれど、ティセはすべての衝動を我慢した。すぐ後ろにリュイがいる。浮かれていることを悟られるのが癪だった。ひとつしか歳が違わないにも拘わらず、ひどく大人びて見えるリュイに、子供だと思われるのが厭だった。衝動を奥底に押し込めて、悠然として見えるよう胸を張って歩いていた。
記念すべき旅の初日は、まだまだ陽が高いうちに終わってしまった。ある集落に辿り着くと、リュイはここへ泊まると言い出した。
「もうおしまい?」
ティセはもっと、どこまでも歩きたい気持ちでいた。
「次の集落までは少し遠いはずだから。そこまで歩くと日が暮れてしまう」
農作業や休憩をするための、木の根元を囲むように石を積み上げた広い腰かけの近くに、ふたりは居場所を定めた。近くの農家で井戸水を分けてもらったら、親切な老婦が馬鈴薯と玉葱も分けてくれた。
夕食の準備に取りかかるのもまだ早い。リュイは大変な読書家らしく、また本を読み始めた。ティセはしばらくその辺りを散策していたが、そのうち手持ちぶさたになり、腰かけに戻っていった。相変わらず、リュイはぴたりと静止して読書をしている。その横にどかりと腰を下ろし、
「暇だよ。ねえ、笛でも吹いてよ」
思いつきを口にすると、リュイは本から目を上げた。
「なんか吹いてよ。“ダルブーラムの鍛冶屋”みたいな明るい曲がいいな」
暫し無言でティセを見たのち、リュイは応えた。
「あの笛はいま、ひとつの音しか出ないんだ。だから、曲は奏でられない」
言っている意味が分からず、ティセはぽかんとした。リュイは静かに語り始める。
「あの笛には指孔がない」
「呼び子の笛ってこと?」
「違う。指孔はないけれど、旋律を奏でる方法がある」
「どうやって!?」
驚いた声を上げると、リュイは思案するように一度目を伏せた。そして、また静かに続きを語り出した。
「分からない。けれど、あるはずなんだ。子供のころに、父や兄があの笛でいろいろな曲を奏でていたのを覚えている。僕にはその方法がまだ分からない。吹き手として未熟だと言ったのは、そういう意味だ」
指孔もないのに旋律を奏でる笛などありうるだろうか、ティセはリュイの言うことが信じられなかった。しかし、吹き手を選ぶと言われたときのように、頭から否定する気にもなれない。確かに、自分には少しも音が出せなかったのだし、あの秘密めいた音色にはどこか現実を超越するものを感じる。
それに、話しているのがリュイだということもあった。つねに真面目な顔つきをして、律儀に約束を守るリュイが、ひとをからかったり嘘や冗談を言うように、ティセには思えなかったのだ。頭から否定はせず、折り合いをつけるための道を考えた。
「……えーっと……、おまえが探してるっていう、もうひとつの笛があれば可能だっていうことか?」
「そうじゃない。もうひとつの笛はだいぶ以前から……少なくとも僕が生まれる前から、行方が分からなくなっている。父や兄はあの笛ひとつで旋律を奏でていたはずだ。ふたつ揃えば、あるいは簡単に奏でることができるのかもしれないけれど、それは見つかってみないと分からない」
折り合いの道は断たれてしまった。ほかの道を考えてみたけれど、ティセには思いつかなかった。
「……それ、本当か? 記憶違いじゃなくて?」
遠慮気味に訝ると、リュイは出会った日と同様にあっさりと告げた。
「信じなくてもいい」
遺憾そうでもなく、いじけるふうでもなく、不満げでもない。本当にどうでもよさそうに、リュイはそう告げる。ティセは締め出しを食ったような気持ちになり、胸の内にひんやりと寂しさを溜めた。
今日一日、ティセはリュイについてたくさんのことを尋ねた。その本名は、リュイ・スレシュ・ハーンという。長い名前だなぁ、と言うと、スレシュというのは父の名だと答えた。民族の慣習で男児は父の名を、女児は母の名を受け継ぐそうだ。国はシュウだと言っていたが、シュウやその近辺に住まうイブリア族という少数民族の出身だという。遠いシュウについて、ティセはほとんど知識がなかった。リュイは大まかなことだけを掻い摘んで、自分の民族について説明した。大昔、ずっと南のイブリアと呼ばれる暑い地域から、長い時をかけて北上してきたひとびとだという。数百年のうちに、流れ着いた土地のひとびとと混血が進み、いまでは元のイブリア人とはまったく違う容姿と文化を有しているとのことだ。シュウや近辺に住むひとで、同じような肌の色をしていれば、まず間違いなくイブリア族だと言った。
シュウは南北に長い国で、現在の首都は北部にある。リュイは首都から少し離れたある寒村の、小作農家の次男坊だと教えてくれた。歩く足を思わず止めてしまったほど、ティセは驚いた。目を見開いて、リュイの顔を見た。
「お、おまえも田植えをしてたのかっ!?」
「シュウ北部では稲作をしていない。麦がほとんどだ。僕も麦畑を手伝っていた」
つい、リュイの全身をまじまじと眺めてしまった。農家の子であるなら当然なのに、リュイが農作業をしている姿は蟻の汗ほども想像できなかった。はっきり言えば、農家の子だとは思えなかった。ティセの四人の仲間のうち、スストとラッカズは農家の子だ。ふたりを思い浮かべながら目の前のリュイを見ると、まるで違う階層であるように見えた。寒村の農家の子。むしろリュイは、都邑育ちの富裕層という印象を与える。落ち着いた物腰や、砕けたところのない言葉遣い、姿勢の正しさが想像させる躾の良さ、どれも上流階級に通じるものがあるとさえ感じられた。それが農家の子だという、小作であるなら、それほど裕福ではなかっただろう。
「……なんか、似合わないな……」
感じたままを口にすると、リュイは「そう?」と首を傾げた。
兄のほかに、ティセと同い歳の妹がいた。両親は八歳のときに流行病で亡くなったそうだ。歳の離れた兄はそれより前から行方が分からなくなっていて、妹は幸運にも同じイブリア族の家庭に養女として迎えられたという。リュイは隣家の世話になりながら麦畑を手伝い、初等部だけはどうにか修めた、そう語った。とりたててめずらしくもない生い立ちではあるけれど、ティセと比べればずっと苦労していた。大人びて見えるのは、長旅のせいだけでなく、生い立ちによるところが大きいのかもしれない。ティセは自分が少し恥ずかしくなった。
尋ねれば、リュイはなんでも素直に答えてくれた。出会ったとき感じたとおり、リュイの声はいつでも、静けさの立ち込める冷たい水のおもてのように落ち着いている。そして、粛とした喋りかたは、その水面にかすかなさざ波が立つのさえ厭うかのようで、声が小さいわけでも潜めているわけでもないのに、どこか囁いているふうに聞こえた。涼風にそよぐ木々のささめきに似た耳触りを、ティセはリュイと話しながら始終感じていた。とても穏やかだ。けれど、柔和さは微塵もない。もの静かな冷たい水の底に横たわる闇が、水面にもうっすらと漂っているような、そんな暗さを覚えずにいられなかった。
尋ねた内容以上のことを、リュイは少しも語らない。尋ねられたことだけを、簡潔に、過不足なく答えた。また、ティセについて逆に尋ねることもしなかった。自らは語らないのも、なにも尋ねてこないのも、自分に興味がないからだと思うと、少し寂しくなった。が、尋ねてこないことに、ティセは内心ほっとしていた。少しでも自分について話すと、孤児だという嘘がすぐに露見してしまいそうだった。嘘は得意でない、尋ねられないほうがいい。なんとしてもこの嘘を死守しなければ! ティセは夜空の星々に宣誓した。




