4話 荒川クリスティーの帰還
『ペンションもふもふ』では毎月1日と15日にご宿泊頂いたお客様へ、次回から有効な3千円分のクーポンを差し上げています。
たしか、そうホームページに書いてあったはず。医師田中の妻、美羽はそれが気掛かりだった。
もしもこのまま今夜もここに泊まる事になったらクーポン券が貰えるのだろうか。いや、どう考えても宿泊料金が発生するのはおかしい。夫は医者と言っても勤務医であるから暮らし向きは特別裕福という訳でもないのに。だがそれ以前に、そもそもこの『ペンションもふもふ』に“次回”があるのだろうか。
今、この『ペンションもふもふ』のオーナー高橋明彦は、事件の真相を全て話す決意を固めている。
彼は居合わせた客に深々と頭を下げると椅子に掛け、淡々と語りだした。
「昨夜の事は先程お話しした内容に間違いありません。ですが、今朝からの出来事については……」
そこまで話したものの、高橋は一旦言葉を詰まらせた。そして一呼吸置き天を仰ぐと、高まる感情を抑えるように言葉を続けた。
「私は毎朝必ず妻の様子を見に行くんです。いつも忙しすぎて中々顔を合わすことも出来ませんからね。そうすると妻は決まってその時間だけは起きていて『ごめんなさいね』と『ありがとう』って言うんですよ。きっと私に迷惑をかけているって気に病んでいたんだと思います。私もそんな妻の言葉を聞きたいわけじゃなかったんですが、そうすることが私たちの日課になっていました。でも、今朝は違った。いつも通り彼女の寝室へ行くとベッドが空だったんです。そして、サイドテーブルの上にこれが置いてあったんです」
高橋はポケットの中から一通の手紙を取り出すと、荒川に差し出した。
「これは、読み上げても?」
「はい、皆さんを巻き込んだのですから、そうしてください」
探偵は頷くとそれを助手に手渡し、助手は薄水色の便箋をそっと開いた。
『明彦さんへ
こんな体になってしまった私を、それでも大切に思ってくれて感謝しています。
私がごめんねと言うと、いつも困った顔をするあなたの優しい気持ちが分かるから、私はいつもどうしていいのか分からなくなります。
私がペンションをやりたいと言い出した時、迷わず賛成してくれたこと、本当に嬉しかったけど今は悔やまれてなりません。
せめて私たちに子供がいたら、そんな無謀な事はしなかったのかもしれないね。あなたは普通の会社員のままで、平凡でも穏やかな毎日を送っていたのかもしれない。
あなたをお父さんにしてあげられなかった事も謝る以外に何も出来ないけど、そうするとあなたはまた困った顔をするのでしょうね。
もう、あなたの困った顔は見たくないから、私はあなたにさよならします。だから、あなたも私を忘れて、普通の幸せを手に入れて下さい。お金のことは心配しないで。あなたが困らないようにちゃんとしたから。
あなたと今日まで一緒にいられて、私は本当に幸せでした。こんな形でしかあなたに何かを返してあげられない私をどうか許して下さい。
ひとつだけ、忘れないで。これは事故です、事故だと信じて下さい。
幸せな人間は自分で命を絶ったりしない。
私はとても幸せでした。ありがとう。 由佳利 』
その遺書を読み終えた時、誰もがただ俯き、言葉を発する事が出来なかった。
あれ程騒がしかった美羽は、ただ静かに涙をこぼしている。
「これを読んで私は直感したんです、羊小屋だと。少し前からアレルギー症状はかなり重くなっていたようでアナフィラキシーショックについて調べていたのを知っていましたから。それが予防のためではなかったんだと、これを見て……せめて、昨夜気付いていれば、間に合ったかもしれないのに……」
高橋はもうそれ以上何も語れなかった。
借金に窮していた夫を愛するが故の自死。それが事件の真相だったのだ。
恐らくは自殺では保険金が下りない、或いは加入直後の免責期間に掛かってしまうため、自分の死を事故に見せかけようとした由佳利の自作自演。自分のアレルギー症状がかなり重いと感じていた上での賭けだったのかもしれない。
だが、念には念を入れて暴れる羊の毛を刈り取り、その中で必死に耐えた彼女を愚かしいとは誰にも言えないだろう。
「それにしても、先生は何故それがわかったのですか?」
医師の田中が皆の疑問を口にした。
「高橋さんが起きてから遺体を発見するまでの時間が早すぎたんですよ。普段、羊小屋に近寄らない奥さんをそこで見つけるまでの時間が短か過ぎました。最初の疑問はそこからです。そして、美羽さんが見たという灯りもお察しの通り由佳利さんでしょう」
「でしょう!? だからあたしはそうだって言ったのよ!」
おとなしく泣いていたはずの美羽が満足げに口をはさんだ。
「では、保険金というのはどうして……」
「気になりますか? そうですよね堀田さん。あなたは昨夜そのジャケットの襟に社章を付けていらした。さらに先程、大切な仕事の電話を受けておられましたね。実はその会話の一部をうちの助手が聞いてしまったんです」
「え?」
「あなたは由佳利さんに、全てきちんと説明したんですか?」
「……まさか、こんなせっかちな人がいるとは思いもしなかったんですよ。私も昨日が月末で焦っていたんです。契約も帰りの電車がなくなる頃にずれこんでしまったし。――それが今朝亡くなったと聞いて、もしやと思うと、どうしていいのか怖くて怖くて……まさか本当に自殺だったなんて……」
堀田は、自分が加害者なのではないかという思いと、ただ巻き込まれただけの被害者だという葛藤の中でがたがたと震えていた。
「堀田さん、あなたが悪いわけではありません。あなたはただ運が悪かっただけです。確かにあなたが契約をしなければ由佳利さんは今頃まだ生きていたかもしれない。ですが、それを望んだのは由佳利さん自身です。どうですか、僕が今ここですべてを話してしまうよりもご自分の言葉で思いを吐き出してしまっては。今あなたを救えるのはあなた自身ではないのですか?」
「先生……。確かにそうかもしれません。私自身と由佳利さんのために、全てお話しします」
そこにいる全員が由佳利の死を悼む中、或いは自分への非難は免れないのでは、との思いを振り切って、堀田は一つ一つ丁寧に昨日の出来事を思い出した。
「奥さんから生命保険に加入したいとのお電話をいただいたのは昨日の昼すぎでした。昨日は3月末日でノルマを達成できずにいた私は、どうしてもその日のうちに契約を取り付けたかったのです。うちの営業所はかなり離れたところにございますので、カーナビのない営業車より電車のほうが確実に間に合うと思ったのですが、いざ契約となったら奥様がひどく迷われまして。契約にこぎつけた時にはもう帰る手段がありませんでした。ただ、成績は営業所全体の問題でもありましたから契約のデータだけを送って何とか3月期の成績に入れてもらったんです」
「その契約の処理に今朝ストップをかけていたんですね」
「はい、仰る通りです。あとから思えば、私を呼びつけておいて、あれほど契約を迷うなんておかしかったんです」
「それで、ご自分を責めた」
「思えば、こちらに不利な契約内容はあまり丁寧に説明しないまま無理に契約させてしまったかもしれません。本当に申し訳ありませんでした」
堀田はそう言うと突然、高橋に土下座し、おいおいと堰を切ったように泣き出した。それは深い謝罪の涙だったのか、抱えきれない罪悪感から解放された感情なのか、堀田自身にもわかりかねる激情だったが、そのどちらもが綯い交ぜになった思いなのだと荒川には映った。
高橋は足元にひれ伏す堀田の肩に手をやると「どうか頭を上げて下さい」と言い「妻が迷惑を掛けました。申し訳ありませんでした」と絞るように繋いだ。
そして――
「私は自首します」
と、きっぱり言った。
しかし、これにはさすがの荒川も面を食らう。
「いったい、あなたの罪とは何ですか?」
「え? だって、私は遺書を隠していたんです。罪は保険屋さんではなく私にあるんです。私も本当のことを言って罪を償います」
「残念ですが、まだ警察も来ていないのですから偽証したくても出来ませんし、保険金を請求した訳でもない。それどころか、そもそも保険契約は成立すらしていないんです。ねぇ、堀田さん?」
「え、ええ!」
由佳利の壮絶な決意はそこに不思議な一体感を生み、いつしか暗黙裡に一つの意志が生まれた。
「それに、今日は4月1日ですからね」
「成程、エイプリルフールに野暮なことは言いますまい」
田中が紳士的な笑顔を浮かべる。
今はただ、純粋に妻の死を悲しむことだけが、その思いに気付けなかった高橋に残された唯一の償いなのだろう。
*
土砂崩れは思ったよりも小規模だったらしく、午後になると警察がやってきた。
行きずりの仲間たちはエイプリルフールの習わしにのっとって真実を証言し、それぞれの帰路に別れる。中でも、医師でも保険屋でもない二人連れの無罪放免は早い。
路線バスの運行はまだ目途が立たず、荒川とひよこを駅へと送り届ける役目は従業員の法子に任された。
駅前の小さなロータリーには野良猫が1匹悠然と歩いている。先程までの名探偵コンビが横っ腹に『もふもふファーム』と大きく書かれた車を見送ると、東京までの乗継にはギリギリの一両編成がホームに滑り込もうとしていた。
「先生。急いで急いで、電車が出ちゃいますよ!」
夕暮れの改札は人っ子ひとりおらず、自動券売機だけが留守居役である。
荒川は運賃を確かめるのももどかしく、一駅分の切符を2枚購入する。電車にさえ乗れれば精算は出来るのだ。
「先生! もう電車は来てますよ!」
今度は流石の荒川も全力で走る。だが、車両の先頭には見覚えのある紫の腕章が立って運転手と話していた。
「遅い!」
ボランティア駅長である。
「電車、止めといてやったから」
無茶苦茶するなぁ。と思う反面、有難くもある。
「随分とごゆっくりだったけど、課外授業は楽しかったかい?」
「はい!」
とんでもない含みを感じる駅長の言葉に、ひよこは屈託なく答える。そのとばっちりが荒川に向くことを知ってか知らずか満面の笑みである。
「気を付けるんだよ」
「はい」
駅長は美少年が好きなのかもしれない。
「誰が殺した?」
「へ?」
一転して、冷たい視線で荒川に投げかけた言葉は意味不明だ。
「誰が殺した……」
発車のベルが鳴った。荒川たちは既に車上の人である。
「クック……」
駅長のクックッという、かみ殺したような笑い声が誰もいないホームに木霊していた。
「いったいなんだったんだ」
「えぇ、何だかオカルトでしたね。でも僕には飴くれましたよ」
「ああそう。別に羨ましくなんかないよ」
――それにしても、あの駅長はどうして自分たちがこの電車に乗ると知っていたのだろう。
ガタゴトと線路を進むおもちゃのような電車は、いつしか夜の帳に包まれ、都会では見られない満天の星の中を走っていた。
「先生」
「ん?」
「僕、保険屋さんが電話してるのは見ましたけど……内容なんて聞いてません」
「うん」
「いつもながら感心しますよ」
「何が?」
「何だかんだ結局は殆ど本人に供述させちゃうでしょ? あれだけの情報で先生はいったいどこまでわかってるんですか? 先生? もう、風邪ひいちゃいますよ!」
荒川は朝が弱い。
故に、もう限界である。
「由佳利さんも助けてあげられたら、良かったんですけどね……」
真っ暗な車窓に、そうポツリと呟くひよこの寂しげな横顔が映っていた。
<続く>