3話 名探偵 荒川クリスティー
「先生、次はご主人の高橋さんを呼んできますよ! ほら、寝ないで!」
ねぼすけ探偵は朝が弱い。
朝6時前、と言っても5時58分だが、これ程早くに起きたのは何年振りだろうか。……初めてかもしれない。
ひよこに叩き起こされてから既に約2時間が経とうとしている今、荒川の意識はロンドンあたりで輪舞している。
「えっ? いやいや僕は寝ていたわけではないんだよ。ただ、ちょっと主題を繰り返し反芻して海馬の整理をしていたに過ぎない」
「うたた寝し過ぎて、海馬の中身空っぽにしないで下さいね」
コンコンとドアをノックし高橋が入ってきた。その顔面は蒼白であり、何日も睡眠をとっていないかのような疲労の色が見て取れる。
「何か、わかりましたか?」
彼は椅子に掛けると先ず最初にそう言って荒川を不安げに見つめた。
「ええ。まあ、大体の事はわかったと思います」
何故かは知らないが、先程とは打って変わった名探偵の風格だ。
それを満足そうに見つめるひよこは高橋へと向き返り、彼を見てゆっくりと頷いた。だが、その眼には怯えたような不安感が宿っており、明らかに何かを隠している素振りにとれる。
「昨夜、停電のあった直後には、まだこちらにいらっしゃったようですが、いつもあんなに遅くまでこちらに?」
「はい。ご宿泊のお客様がいらっしゃいますので、出来る限りは残るようにしております」
「では、奥様はいつもお一人で?」
「そうです」
「体調がすぐれないと伺いましたが、ご心配なのでは?」
「それはそうですが……今は仕方がないんです。それは由佳利もわかってくれていましたから」
「失礼ですが、経営状態があまり良くなかったとか。それで夫婦仲に影響があったりは?」
「私を疑っているという事ですか?」
荒川は顔色を変える事なく首を横に振った。
「確かに、経営状態は良くありません。ですが、羊は私たち夫婦にとって子供同然なんです。それに、私はここを立て直さなくてはならないんです。由佳利のためにも」
「成程。奥様とは上手く行っていたと。では、昨夜奥様はどうなさっておられましたか?」
「実は……わからないんです。私たちの住む住居は、このすぐ裏手にあるのですがそちらには非常用の電源がありませんから、昨夜1時半頃戻った時には真っ暗で、きちんと妻の姿を確認したわけじゃないんです。私の帰宅は殆どが深夜で、起きる時間も早朝4時半ですから体調の悪い妻とは寝室を別にしていました。でも、まさかいないなんて考えもしなかった。いつも通りに目覚めて妻の様子を見に行くと、ベッドを使った形跡すらなかった。それで、慌てて探して……まさか、こんなことになるなんて……せめて、帰った時に様子を見ていれば……もっと早く気付いてさえいれば……こんなことには……」
そこまで話すと高橋は泣き崩れた。
殆ど声にならない程の嗚咽が6畳程の広さの部屋を覆った。荒川はひよこに眼をやると小さく頷き、探偵の助手は高橋を支えて退席を促す。
「大丈夫ですか? 少しお休みになった方がいいですよ。僕、付き添いましょうか?」
手を貸すひよこに「大丈夫です……」と応えて立ち上がり、ドアに向かう彼の背中を探偵は不意に呼び止めた。
「高橋さん。最後に一つだけお聞きしたいのですが、奥様は生命保険に加入しておられましたよね?」
「え?……い、いえ、お恥ずかしいですが、保険料を払う余裕はありませんでしたので」
小さく頭を下げ、よろよろと部屋を出る高橋に外で待っていた法子が肩を貸す。ひよこは二人が食堂にたどり着くのを見届けると、後ろ手に扉を閉めた。
これもいつもの事だが、ひよこはいつに間にか事前調査を済ませていた。夫人のアレルギー症状は、ここの所かなり重篤と言ってよく、羊に触った観光客の出入りするペンションにも近寄ることはなかったという。高橋も帰宅前に全身を洗うほど気を使っていたが症状は悪くなる一方で、最近では寝込むことも頻繁だったらしい。
当然ペンションをたたむことも考えたが、近くにできた観光牧場のあおりを食らって設立時予定していた収益が見込めず、借金返済のための自転車操業を止めるのは容易なことではなかったという。
「ひよこ君。夫人は鍵のない羊小屋で刈り取られた羊毛にまみれて亡くなっていたと言ったね」
「はい。昨日まで3月でしたから毛刈りの時期には早いです。毛を刈り取られていたのは3頭で、皮膚まで損傷しているところを見ると素人の仕業だろうと高橋さんが言っていました」
「オーナーが?」
「ええ。ここでの毛刈りはいつも高橋さんが行っていたようです」
通常、羊の毛刈り時期は春であり、その前日には食事を与えない。これは毛刈り時、腹部への圧迫により羊が暴れるということを防ぐ目的だという。
「つまり、血痕と言うのは」
「はい、3頭の羊の皮膚にはかなりの出血の跡がありましたので、恐らくは毛刈り時に暴れた羊のものだと思われます」
腕を組んでいた荒川はその姿勢を崩さず、おもむろに右手だけを自身の顎に運ぶと俯いた。
そして間もなく、はっとしたように顔を上げると、ビンゴゲームの参加者が『ビンゴ!』と叫ぶほどの必要に駆られ、口にせずにはいられなかったのである。
「そうか……そういうことだったのか」
ひよこは、そんな荒川を「本当に先生はこの台詞が好きだなぁ」と目を細めて眺めていた。
*
午前9時。迂闊に勝手な個人行動をとって、無用な疑いを掛けられたくない一同は食堂に会していた。
「ねぇ皆さん。おなか空きませんか?」
医師の妻、美羽は完全に他人事である。
そうかと言って、同席する被害者の夫を前にして笑い話をするわけにも行かず退屈極まりない。そもそも自分の証言を軽く見られているらしいので、今ひとつ前のめりにはなれない気分だ。
「さすがに食事を作れとは言わないわよ。でも、このまま何も食べないではいられないでしょ? だから、不本意ではあるけどあたしがご飯を作ってあげるわ!」
美羽がそう言って立ち上がると同時に、名探偵は颯爽と現れた。
そして、食堂入り口に立てかけられている何も書かれていないウエルカムボードをイーゼルから外すと、ひとつのテーブルの上に無造作に置き、一心不乱にチョークを走らせる。
「え、ちょっと何? 何が始まるの? この儀式長いの? ご飯の後じゃダメなの?」
「お姉さん。朝ごはんは謎解きの後にして下さい」
ひよこが美羽を制した。
ここまで来れば荒川の独壇場、誰にも勢いは止められない。
そこにいる全ての視線は彼の右腕に注がれ、淀みなく舞う指先を追う。
だがしかし、探偵の思考が紡ぎ出す白線が何を意味するのかを想像できる者はこの場にはいない。ただひとり、探偵助手ひよこを除いては。
「あの、これはいったい……」
木枠すらない深緑の見慣れたウエルカムボード。しかし、それを眼前に突き出された高橋は戸惑った。戸惑うしかなかった。
「さあ、どれか選んでください」
迷いの欠片も感じられない荒川の手には、縦に3本真っ直ぐな白線とそれを所々繋ぐ横線からなる作品があった。
「は、しご?」
「ハシゴ書いてどうするんですか。あみだくじ、ご存じないのですか?」
3本の白線の下方にはそれぞれ『保険金殺人』『保険金目的の自殺』『あたり』と書いてある。思ったよりも達筆だ。
「さぁ、どれにしますか?」
「あたりって……」
「あたりが出たら、もう一回です」
だが、荒川は大事なことを忘れていた。
「先生! 答え、見えちゃってます」
ひよこはどこからか厚手の紙を持ってくると答えの順番を書き直す。こちらも中々達筆だ。
そして、新たに用意された回答を上から紙で目隠しする。この作業が無言のまま淡々と、しかも迅速にやり遂げられ、何事も無かったかのように7分の後再び荒川は言い放った。
「さぁ、どれにしますか?」
落ち着いた声が反って見えない圧力を生み、僅かな静寂の後、関係者の視線は一点に注がれる。
探偵に見据えられた高橋は、次の瞬間がっくりと膝を折り、その場に崩れ落ちた。
「すべて、お話しします……」
うつむいたまま力なくそう答えた容疑者は、それでも覚悟したように顔を上げると荒川を見据えた。