2話 迷探偵 荒川クリスティー
ペンションもふもふの客室は1階2階合わせて10室だが、この日埋まっているのは2階の3室のみ。平日とはいえ春休み期間としては幾分心許ない。
午後7時。荒川とひよこが1階食堂での夕食へ向かうと、既に別室の宿泊客は食前酒を嗜んでいた。昼間牧場で見かけた、少しばかり歳の離れていそうな夫婦は楽しげに談笑し、何とはなしに場にそぐわない30歳前後の初見男性が1人、腕時計を気にしている。
食堂に備え付けられたテーブルセットの数を見ると、僅か5名の客では稼働率20%程と言う所だろうか。シーズンオフと言う理由ならまだしも、明らかに流行っていない空気が漂っている。控えめな音楽が流れていなければ会話にさえ気を遣う程だ。
入り口付近に立てかけられた濃い緑のウエルカムボードには白のチョークでディナーのメニューが書かれていた。
「なんだ、ジンギスカンじゃないのか」
メニューを一瞥した荒川のこの発言は静かな食堂に響き渡り、そこにいる全員の顰蹙に満ちた冷たい視線が一斉に彼へと注がれた。だが、当の本人はその理由に全く気付いていないらしく、何となくの居心地悪さだけが海馬にインプットされた。
この成り行きで、一夜の宿を共にする方々とのお近づきのチャンスをフイにした二人は、気まずい空気を背負いつつ旨くも不味くもない中途半端な食事を済ませ、そそくさと2階の客室へと戻る事となった。
そうなってくると、残るクリアしておかねばならない問題は入浴のみである。
1階に備え付けられた共同の風呂は、男女別に分かれてはいるものの単なる水道水を沸かしたもので、特段ありがたみも何もない。家の風呂より幾分広いのは救いと言えば救いだが、せめて温泉の名の付く入浴剤でも入れてくれよ。と心の底では不平を漏らす荒川である。
ふと、夕食時の記憶を海馬から取り出す。
――ああ、何だかつんけんした人たちだったなぁ。こんな所であの人たちとかち合わないようにしよう。
荒川は慌てて身支度を整えると、まだ午後9時になったばかりだが早々床に就く事とした。
こんなに早い時間に寝ようとは盲腸の手術で入院した時以来だから8年ぶりだなぁ……などと、どうでもいい事を考えているうちにうつらうつらと意識が遠のいて行く、次に目覚めたのは午前1時頃だったろうか。ふと気付くと、轟々と激しい雨音の中、卓上ライトの灯りを頼りにひよこが何やら読書をしているようだった。
「ひよこ君、まだ起きていたのか?」
「ええ、そろそろ寝ようかと思ったんですが、どうにも雨音が大きくて」
確かに横殴りに窓を叩く雨音は、バラバラと云う大きな音を立て激しく止めどない。ひゅうひゅうという風の音も手伝って、えもいわれぬ不安感が押し寄せる。
昼間の晴天が嘘のようだが、最近の天気予報はそこそこ当てになる。そういえば大気の状態が不安定だと言っていた。
と、次の瞬間。灯りが突然ぱたりと消えた。
「停電でしょうか……」
数秒置いて非常灯が点く。小さいながらも比較的新しい設備を備えているらしく、荒川とひよこは先程まで身構えていた心を幾分緩めた。
「起きていた所でどうにもなるまい。朝が来れば自然と明るくなる」
「そうですね。でも僕ちょっと様子を見てきます」
そう言ってひよこがドアを開けると、オーナーの高橋氏が丁度見回りをしているところだった。
「まだ起きていらっしゃったのですか。でしたら驚かれたでしょうが、この建物内は非常用の電源が備わっておりますのでご安心ください」
そう言われてしまっては無闇にウロウロとはしづらい。出鼻を挫かれたひよこは探索を諦めたのか、客室内の懐中電灯を確認すると自分のベッドに潜り込み「おやすみなさい」と言って頭から布団をかぶった。
「怖いのかい?」
「子供じゃあるまいし。うるさいだけです」
途切れない風雨の音が子守唄にかわるまで、そう時間はかからなかった。
*
「先生! 起きて下さい! 出番がやって来ましたよ!」
時計を見るとまだ6時にもなっていない。
だが、荒川には大方の予想がついていた。
「事件ですよ先生、これはもしかすると今までで最も大きなヤマになるかもしれません。皆さんもう1階でお待ちかねです」
ほら、やっぱりだ。荒川は確信した。
何かしら事件が起こったということは、雨上がりの静寂を無視しきったひよこの声でわかる。そしてその事件を解決するのが自分ということも既決事項なのだ。
何より荒川自身が『フリーのライター』と名乗ったわけであるし、その日から決まっていた運命なのだと最近では諦めている。だが、正直どうしてこうなったのかは常に腑に落ちないと言っていい。
因みに、これは彼のみに適用される価値観であり『フリーライター』の定義を捻じ曲げる意図は毛頭ないことをお断りしておく。
「で、今回は何があったんだい?」
ああ、あの冷たそうな人たちと話さなきゃならないのかぁ……。グルメも温泉もないのに事件だけを解決するなんて。と不満ばかりが心を重くする荒川は、渋々身を起こすとひよこの説明に聞き入った。
*
ひよこに口うるさく言われるがまま、荒川は昨日よりも少々気合の入ったスーツへと身支度を整える。あの大きな荷物の中身はこれだったのだなぁ、などと溜息交じりに1階食堂へ向かうと早々役者が揃っており、熱い紅茶とクッキーを口にしていた。当然、朝からお茶会が催されているわけではない。
「荒川先生が有名な探偵さんだったとは、お弟子さんから伺うまで全く存じませんでした」
食堂に入るとすぐさまオーナーである高橋が、すがるような目で名探偵を見た。
昨夜の豪雨で土砂崩れが起こり、ふもとへと繋がる道路は送電線と共に切断された。夫人の死が事故らしいと報告しているため、警察も無理をしてまではやって来ないらしい。とんでもないことになった。
ひよこから何を吹き込まれたのかは聞かずとも概ね察している。「私が探偵だなどとは全く存じませんでした」と言いたい荒川ではあったが、これまでの経験上それが無駄なことも痛い程知っている上、高橋の視線が痛い。そして、あれほど冷たい視線を送っていた人たちも何だか尊敬の眼差しを送っているようだ。これはもう流れに乗るしかないだろう。
「奥さんのこと、お気の毒でした」
「……私にも、何が何だか。由佳利は……妻は羊毛アレルギーだったんです。それがどうして羊小屋なんかに行ったのか。でも、まさかショック死するほどの重症だったなんて」
オーナーの高橋氏は椅子に掛けたまま立ち上がることも出来ないといった様子でがっくりと項垂れており、傍らでは従業員らしき女性が心配そうに付き添っていた。
そのほかは昨夜この食堂で見かけた宿泊客。医師ともふもふ好きの妻、このペンションにはおよそ似つかわしくないビジネススーツの男、そしてひよこと荒川だ。
どうやらここに居合わせた全員が既に名探偵荒川を知っているようで、捜査権のないエセ探偵に全てを委ねる勢いである。いくら警察の到着が間に合わないと言っても普通こんな事には成りようもないと思われる展開だが、そこはひよこの特殊な交渉術で何らかの合意を得ているらしい。名探偵にとっては、これもいつものことである。
「では、まず最初に僕の方から事件の経緯を説明します」
司会宜しく、ひよこは立ち上がるや今朝からここに至るまでの経緯を話し出した。
証言1 三毛ひよこ
「僕が目覚めたのは、まだ夜が明けきらない午前5時頃でした。
部屋の外がざわついていたので廊下に出ると、オーナーの高橋さんと従業員の山本さんが真っ青な顔をして、お医者さんの田中さんと話していたんです。
聞くと、高橋さんが目覚めた4時半には既に奥さんの姿はなく、不信に思ってあちこち探したところ、ここから500メートル離れた羊小屋で、刈り取られた羊毛に埋もれて倒れているところを発見したのだという事でした。
高橋さんは宿泊客の中にお医者さんがいることを思い出し、急いでペンションに戻ったところでした。騒ぎに気付いた従業員の山本さんと僕、田中さんと高橋さんは4人で羊小屋へと向かいましたが奥さんの由佳利さんに息はなく、全身の状態からも死因はアナフィラキシーショックと思われました。でも、羊小屋には鍵が掛かっていませんでしたし、遺体にはいくつかの不審なあざがあったんです」
証言2 医師・田中
「ええ。確かに奥さんの御遺体には何かに殴られたような新しいあざが散見されました。所々少量の血痕もあったようですが、警察の到着前ですので不用意に動かすのもどうかと思い、詳しく調べてはいません。ただ、解剖してみなければ断定出来ませんが、所見では死因はアナフィラキシーショックだと思います。恐らく、死後数時間は経過しているかと思いますね」
証言3 従業員・山本法子
「私がここへ住み込みで働くようになったのは5年前のオープンからです。でも、その数か月後に奥さんが羊アレルギーになって牧場もペンションも手伝えなくなったことから、私が奥さんに代わってオーナーを支えて来たんです。だからと言って奥さんさえいなければ……なんて考えたこともありません! 勿論殺そうなんて考えたこともありません! 私はただ、このままオーナーを支えて行ければ幸せなんですからっ!」
……。え?
ドサクサ紛れの告白に一同は顔を見合わせた。
「法子さんは何故このタイミングで告白……いえ、発言を?」
至極単純な質問をする名探偵である。だが考えてみれば、ひよこの説明を受けて医師の田中が発言するのは分かるのだが、法子がそれに続く意味は不明だ。
「え? ひよこさんから時計回りに話すのかと思ってました」
この場でよくそんなふざけた発想が湧く物だとも思えるが、話の中身の方が空気無視レベルは高い。
「少々気が動転しておられる方もいらっしゃる様ですし概要もおわかり頂いたので、後は先生が個別にお話しを伺った方がよさそうですね」
司会者ひよこがそう言って立ち上がると、やっと始まった面白そうな展開に眼を輝かせた医師夫人が明らかな落胆の色を見せる。が、セオリー通り話は個別に聞くこととなり、食堂から少し離れた別室での面談が行われた。
「では、法子さん。改めて伺いますが、まるで殺人事件だと決めて掛かっているのには何か根拠があるのですか?」
「だって、奥さんの体には、殴られたような跡があったんでしょう? それに、羊アレルギーの人が羊小屋に近付くなんて不自然だと思っただけですよ。
そちらのお弟子さんから聞いたと思いますが、奥さんの体は全く濡れていませんでした。昨夜の雨は12時頃にはかなりの本降りでしたから、犯行時刻は恐らくそれ以前でしょう? それまで私、ずっとオーナーと一緒でした。ですから、私にはアリバイがあるんです。え? 違いますよ! 仕事です、しごと。ここは経営が火の車ですから、羊の飼育をしている通いの2名以外は私とオーナーしかいないんです。毎日遅くまでの仕事は普通のことです。それなのに奥さんときたら……。死んだ人のことを悪く言いたくはないですが、買い物くらいしか手伝わないなんて。オーナーが可哀想です、本当にオーナーは優しくていい方なんです。絶対にオーナーは悪くないんです!」
「お次の方どうぞ」
「ちょっと! 探偵さん、私まだお話ししたいことが山ほどあるんですけど!」
法子のとてつもなく熱心な訴えにも関わらず、荒川は全く興味がないという様子である。しかし、この手の話の行きつく先がどのあたりかと言う事に関してだけ、彼の勘はずば抜けて鋭い。多分、興味のないめんどくさい話に発展するかどうかを察知する能力の一種と思われるが、それを承知しているひよこは「まぁまぁ、さぁさぁ」となだめすかしながら法子にお引き取りを願っている。
「ふわぁぁぁ~」
「先生、眠いのは分かってますけど、話聞いてる時、あくびしないで下さいね」
「分かってるよ、早く次の人連れて来て」
「堀田さん、とおっしゃいましたね。昨夜はどうしてここへ?」
堀田が扉を開けるが早いか、せっかち探偵の事情聴取は始まった。
いや、彼はむしろ呑気な性格だが、早く終わらせたいことに関しては最速で通常の3倍ペースにまで加速されるのだ。
「まさかとは思いますけど、私がここに似つかわしくない風体だって言うだけで疑ったりはしていませんよね? 男一人で“もふもふ”してもいいじゃないですか! もふもふ好きでどこが悪い!」
行きがかり上、右手でドアノブを持ったまま堀田は叫んだ。特に疑われているわけでもないのに、不自然な全否定ともふもふ好き宣言。彼への疑いが一気に膨らんだところでそのポケットからヴーヴーと言う音が鳴る。
「失礼! 大事な仕事の電話なんです」
荒川とひよこがあっけにとられている隙に、堀田は扉を閉めて退場した。
「先生。あの人、ついにドアノブ持ったままでしたね」
「うん。置いて行ってくれて良かった。――次の人呼んできて」
ひよこが廊下に出ると先程の堀田が、声をひそめて話す様子が見えた。少し青ざめて焦っているが、ひよこに気付くと慌てて外へと出て行き、電話相手にぺこぺこと頭を下げている。
「ふーん。お仕事は大変ですね」
ひよこはぽつりとそう言うと、食堂へ向かった。
「ひよこ君。このお嬢さんにも伺わないとだめなの?」
「なんで、もじもじしてるんですか先生?」
医師である田中とは明らかな年齢差を感じる妻の美羽は一見した所20代半ば、すらっとして品が良い美人、はにかみ探偵の好みど真ん中である。
「ちょっと聞いてよ! あたし見ちゃったのよ! 脱衣所の窓から誰かが懐中電灯を持って羊小屋の方へ行くのを見ちゃったのよ! お風呂から出た時だから11時くらいだったと思うわ! あれ、きっと死んだ奥さんよ! え? カンよカン。女のカン! あたしのカンが言ってるの! “見ちゃった”って思ったんだから間違いないわ! きっと男よ! 男と会う約束をしてたんだわ! だから、無理して羊小屋なんかに行ったにきまってるわよ! それでね……」
「貴重なご意見、ありがとうございました。はい、次」
一瞬でもはにかんだ純情を返せ! と心で叫んだ荒川は彼女を“すらっとした噂好きおばさん”に下方修正して海馬に仕舞った。
そして、いよいよ一番の重要証言である高橋の話を聞く事になるのだが……
長くなりそうなので、また次回に。
≪続く≫