第二幕 劇団「黒影十字軍」
第二幕です。
第二幕 劇団「黒影十字軍」
2007年1月27日
私は布団から出て、腕時計を見た。時刻はすでに三時四十分を回っている、どうやら私は長い時間回想をしていたようだ。回想をしている間、薄い膜が張られたように意識が遠くなっていたが、部屋の電話が鳴っていない事は分かっていた。念のため留守電を調べたが、やはり何も入っていなかった。
「そんなに早く電話来ないか……」
私は家にいてもやることがなく最近は、家から徒歩十分ほどの場所にある喫茶店『K』に行っている。もちろん贅沢に飲むことは無く、貯金から下ろした金を分配して使っている。
国貞からの電話が心配だったが、私は携帯電話を持ち歩いているので平気だろう。私は携帯電話から国貞へメールした。
「Kに行っている。何かあったら電話かメールをしてくれ」
こう書き、私はメールした。念のため留守番電話にも同様のメッセージを吹き込んだ。
私はクローゼットから茶色い上着、箪笥から黒いズボンを引っ張り出し着替えた。そして玄関のドアを開け、外に出た。
外の空気は冷たく、私の体を刺激していた。外の通りには、ほとんど人がいなく(みんな仕事に行っているのだろう)私は寂しく歩いた。
十分間も歩けば体も少し暖かくなっており、Kの前に着いたときにはちょうどいい体温になっていた。
Kはカウンター席が六つ、それにテーブルが四つあり、その一つ一つに四人が座れるようになっている。こじんまりした喫茶店である。
Kのドアに『OPEN』の札が掛かっているのを確認し、ドアを開けた。
『カラン、コロン』
Kのドアを開けるとお洒落な鐘の音が聞こえる。
「いらっしゃいませ……あっ! 牧野さんですか? 最近良く来ますね。ありがとうございます」
店員の石川紗希が話しかけてきた。黒髪をリボンで二つに分けて結んでいる。体系は細めでとても可愛らしい。彼女は自分の事を『ウチ』と言う。Kは紗希と紗希のお父さんが店にいるが、お父さんは今病気で店内にはいなく、紗希一人で経営している状態だ。
「ごめんね、最近良く来ちゃって」
「そんな事無いですよ、この時間帯は人があんまり来なくて……えへへ嬉しいです」
紗希は手を頭の上に置き、可愛く笑う。
「そうなのかい? まぁこんな時間帯に来るのは私ぐらいなもんだろうね」
「そうですね」
私はカウンター席に座り
「今日もコーヒー頼むよ」
と言った。
「はい、分かりました」
紗希はそう言い、コーヒーメーカーに手を伸ばした。
「では出来るまでしばらくお待ちくださいね」
「うん」
私はそう言い、カウンターに肘をついた。数分すると出来立てのコーヒーが目の前に置かれた。
「あの……牧野さん?」
「ん? なんだい?」
私はコーヒーを一口飲み答えた。
「牧野さんは『黒影十字軍』の脚本家をやっているって言ってましたよね?」
「うん……今は休職中だけどね」
「なぜ脚本家になろうと思ったんですか? 一代目の劇が好きだったんですか?」
「いや、そんなわけでは無いよ。劇団長とは昔から知り合いでね、それで仕事も無かったからやってみたんだ。元から話を考えたりするのは好きだったからね」
「そうだったんですか……」
私はもう一つの質問に答えて無い事に気づいた。
「黒影十字軍の一代目? あぁ、そういえば私達は二代目だったね。見たことないな」
「そうなんですか? ウチは見たことあるんだけどな」
「え?」
紗希は私より若いのにか? 心の中で思った。
「あ、もちろん生で見たわけでは無いですよ? 昔のビデオテープで劇を見ただけでして」
「成る程ね、じゃあ少し話し聞かせてもらっていいかな?」
紗希はビックリしたような顔をした。
「え? 話っていっても何を話せばいいのかな。えっと……劇団員は三人で主にコントばっかりやっていましたね」
紗希は左手で頬を触りながら喋っている。そういえばこのような会話を国貞としたような記憶があった。
「へー。今の十字軍とは正反対だね」
「そうですね。今は真面目な劇をしていますもんね」
紗希がそういったので私は思った。『トーテンクロイツ』ぐらいしかまだ劇をやっていないな。
「劇団員は三人か。確かに少ないな、どんな人がやっていたんだい?」
「名前は覚えていないんですが、おじさんが二人に綺麗な女の人が一人いて、それで……それで劇をするの」
紗希は目を光らせている。
「ははは。私も見てみたいな」
私は適当に相槌を打った。
「そういえば……」
私は少し気になる事があったので紗希に質問した。
「十字軍の一代目が活躍していた時期って何年前ぐらいなのかな?」
私は国貞とはプライベートでは、劇団の話などしないので全く知らなかったのである。
「だいぶ前の話ですよ。今から二十年前ぐらいじゃないでしょうか?」
「二十年前か。じゃあ一代目劇団員は……そういえばおじさんが二人って言ったね? その一人は国貞のお父さんだね」
国貞のお父さんは死んでいることは分かっている。その時に二代目を継いだのだから。
「国貞さんって、今の十字軍の団長ですよね?」
「ああ」
この話題は深く掘り下げることも無く、すぐに話題は変わった。
「今、一代目劇団員は何してるんでしょうね? 今も生きているとしたら七十歳ぐらいですね。女の人は分からないです。元が何歳かは分からないので」
「ふーん」
私は頷いた。
プルルルル…
その時私の携帯電話が鳴った。
液晶画面の発信者を見ると、思ったとおり国貞だった。
「ちょっとゴメン電話」
私はカウンター席を立ち、奥のトイレに向かおうとした。
「彼女ですか?」
紗希が笑いながら言ってきた。
「いやいや、違うよ」
私は苦笑いしながらトイレに入った。
私はトイレの大便所に入った。携帯電話を手に取り、通話ボタンを押した。
「はい」
「もしもし、康明か? 僕だ。国貞だ」
「いやいや分かってるよ。携帯に表示されてるから」
私は言った。狭いトイレなので声がこだましている。
「さっき話したこと覚えているよね? 一応劇団員全員に電話してみたんだよ」
「あぁ。そうだったね。それで結果は?」
私はてっきりみんな断ったと思っていたが、国貞の答えは私の考えを裏切るものだった。
「電話で確認しただけだけど、みんな劇団を復活したいと言っていたよ」
「え?」
どういう事なのだろうか、何故みんなそんなに劇をやる事を拒まないのだろうか?
「国貞、ちょっといいか?」
「ん? 何?」
「あのさ私はともかく、由理や武丸、麻莉亜やカレンは劇団をやらなくても、個人的に仕事があったはずだよね?」
「そう……なるね」
「だったら何で仲間が死んだっていうのに、みんな劇をやろうとするのかな?」
「さぁ……僕には。僕はただまた劇がやりたかっただけで……」
「君もそうだよ」
私はズバリと言った。
「どういう事?」
国貞が言った。
「君も劇団を復活させたいんでしょ?」
「僕は二代目の団長さ。お父さんから引き継いだ責任もあるし」
「君のお父さんはもう死んだんだよな?」
「あぁ。……でもそんな事、今はどうでも良いじゃないか」
「まぁそうなんだけど」
私がそう言うと、数秒の沈黙が流れた。
「ところで康明、君は今何をしているんだ?」
「え? 今は……国貞は来たことあったっけ? 喫茶店のKにいるんだけど」
「あぁ……懐かしいな」
「覚えているかい?」
私は国貞に聞いた。
「ギリギリ覚えてる」
「最後来たのはいつだったっけ?」
「そこまでは覚えていないよ。ギリギリって言ったじゃないか」
国貞は少し調子いい声で言った。
「Kか……」
その後、国貞は少し考え、
「僕もそっちに行ってもいいかな?」
と言った。
「え? 何で? 別に来るのは構わないんだけどさ、何か用があるのかい?」
「あぁ、劇の事で大事な話があるんだ。いいかな?」
「あ……うん。分かった。じゃあ来てくれ」
「悪いな」
そう国貞が言い、『プツッ』という音がし、電話が切られた。
「急にきりやがった」
私はトイレに掛けられた鏡に目を通し、自分の顔を見た。細身の顔、小さな鼻と唇。いつもとさほど変わらない顔だが、落ち窪んだ疲れた目をしている。洗面器の蛇口をひねり、水で顔を軽く濡らした。
「疲れているな」
私はトイレのドアを開けた。
Kの店内に戻ると、紗希がこちらを見ていた。あいかわらず店内には客はいない。
「電話長かったですね」
「あぁ、ちょっと友人が来ることになった」
「え? そうなんですか? 誰ですか?」
紗希は質問攻めをした。
「今の十字軍の団長の、国貞だよ」
「え?」
「何か劇の大事な話があるみたいで」
「ちょっと待ってください。また劇を始めるんですか?」
紗希は目を大きくして聞いてきた。
「そうみたいなんだ」
私は声を小さくして言った。
「だって、その……あんな事があったのにですか?」
石川県では『あの事件』は有名になっている。紗希が知っていても不思議では無かった。
「私は反対したんだよ」
「でも……」
「もう分からないよ」
私は本当に訳が分からなかった。
「ミルクレープ頼むよ」
私は紗希にそう言った。
「はい? ……分かりました」
紗希は眉を少し顰めて言った。そんな顔を見たのは初めてだった。
数分するとミルクレープが私の前に来た。小さいので私はフォークで、チビチビ切りながら食べていた。
『カラン、コロン』
玄関から鐘の音が聞こえた。私は玄関を見ると、国貞と帽子を被った男が入ってきた。
「康明、来たよ」
「ああ、国貞か。会うのは久しぶりだな」
私はそんな事より後ろに立っている、男の事が気になっていた。
「国貞? その人は?」
「あぁ……そうなんだ。さっき大事な事があるといったよね? その一つに彼が関係しているんだ」
「そうなのか?」
「とりあえず、テーブルに座ろうよ」
私と国貞と帽子男は奥(玄関とは逆のトイレ側)のテーブルの椅子に座った。とりあえずコーヒーを二人分頼んだ。すると帽子男が帽子を取り、声を出した。
「佐藤勇次といいます。よろしくお願いします」
帽子男は黒の長髪をおでこで分け、大きな目と薄い唇。鼻が小さく、顎にはホクロがついている。
「え?」
私は初対面の青年に、突然自己紹介されビックリした。この年で初対面の人と会うのはあんまり無いからだ。
「国貞? 彼は?」
国貞の方を見ると、ニヤニヤしている。
「ビックリしたかい? 彼は佐藤君といってね、僕の知り合いの息子なんだ」
「え?」
私はそう言うと、勇次が喋りかけてきた。
「十字軍、毎回見ていました。先月あんな事が起こったのは残念だったと思いますが、また復活するという事で嬉しいです。僕も一緒に行きますから」
「は?」
私は意味が分からなかった。
「どういう事だ、国貞?」
「え? どういう事って? あ……君には言っていなかったけ?」
「何?」
「実は明後日に、黒船に稽古をしにいく事になったんだよ。復活のためにね」
国貞はスラスラと言った。
「ちょっと待ってくれ、私は聞いていないぞ」
「だから、『言っていなかったっけ?』と言ったじゃないか」
「私以外の劇団メンバーは?」
「大丈夫ということだ」
「………………」
国貞は表情を崩さず言った。
「大事な話を始めていいかな?」
「……勝手に」
私は声を低くして言った。
「まず勇次君だ。彼は今年で19になる自称大学生だ。それで十字軍のファンだというから、バイトとして今回来るようになったんだ」
勇次は私に軽く頭を下げた。
「脚本家の牧野さんですよね?」
「ん? そうだが?」
「他の人には何て言われているんですか?」
「は?」
勇次は何を言っているのだろう?
「どういう意味かな?」
「いや、あだ名は何かなぁって」
勇次は軽く笑った。
「え? そうだな、こいつ」
私は国貞のほうへ指をさした。
「国貞からは『康明』他の劇団員からは『マキさん』かな」
「なるほど……じゃあ僕は『ヤスさん』と呼んでいいですか?」
牧野康明だから『ヤス』という事なのだろうか? こんな脚本家の名前も知っているとは、本当にファンなのだろう。
「まぁ、違和感ないしいいよ」
「はは、ではヤスさん。あ、僕は勇次でいいですから」
そう言ってまた笑った。何故か私はこの青年『勇次』に好印象を持つようになってきた。
「康明。勇次君はなかなかいい奴だろう? よろしく頼むよ」
「あぁ」
私は返事をした。
「国貞、話はこれだけなのか? そんなに大事だとは思えなかったが?」
「あ、ヤスさん。酷いです」
勇次はすかさずそう言った。
「いや、違う。劇団の事と言っただろう? 本題はここからなんだ」
国貞はそう言って声を小さくした。
「実は……『ハート役』の事なんだ」
「あ……」
そう言って、私は考えさせられた。劇団を復活させるといっても『ハート役』がいないのだ。
「国貞、勇次はバイトで来るんだろう?」
「あぁ、色々雑用してもらうよ」
勇次の方を見ると苦笑いしていた。
「じゃあ、他の劇団員の変更はないんだよね?」
「あぁ、前と同じさ」
「じゃあ……ハート役はどうなるんだ?」
「あぁ、やっぱり分かったか」
国貞はそう言って、紙を取り出した。
「いいかい? 今の劇団員は、由理、武丸、カレン、麻莉亜、そして私だ」
そう言いながら万年筆で書いていく。
「うんうん」
「そしてハートの役柄がぽっかりと空いている。カレンがダイア役で麻莉亜が役が無かった訳で……」
「あ! そうか。という事は、舞台経験の長い、カレンがハート役になるのか?」
「いや、違う」
国貞ははっきり言った。
「どういう事だ?」
「僕はあえて、麻莉亜をハート役にしようと思う」
「は? 何を言ってるんだ? ハート役は一番重要な役じゃないか? 言っとくけど私はまだ劇団を復活なんて賛成じゃないからな」
「いいか? カレンを役柄を変えたりしたら、あまりにも露骨だろう? だったら今まで舞台に立ったことの無い麻理亜が、ハート役になったほうが新鮮じゃないか」
「あぁ……」
私は確かにそう思ったが、後半の質問を無視されたのは気になった。
「あのな、国貞」
「あ!」
大きな声を上げて、国貞は時計を見た。
「もう六時半では無いか!」
私も銀の腕時計を見ると、六時半を示していた。
「僕は早く帰らなくては」
「は?」
「僕は忙しいんだ。明後日だからね。頼んだよ、勇次君も」
私と勇次に軽く頭を下げ、カウンターにいる紗希に「ありがとう」と真面目に言った。そうして国貞は急いで、Kから出て行った。カランコロンと寂しく鐘の音がした。うまく帰られてしまったようだ。
「忙しい奴が、こんな店に来るわけないだろ」
私がそう言うと、勇次が苦笑いし、紗希が悲しそうに顔を伏せた。
「あっ。そういう意味で言ったんじゃあ無くて……」
私は下を向いた。
国貞が帰った後、私は勇次とテーブルにいた。
「ヤスさん、あ! やっぱり馴れ馴れしいですかね? 今日始めて会ったのに」
「いやいや」
私は苦笑いをした。
「私も勇次って言わせて貰うからさ」
「はぁ、そんなもんですかね?」
「ああ。そんなもんさ。……君はやっぱり人気があるんじゃないのか?」
「はい?」
「とても話しやすいしさ」
「はぁ、いやあんまり人と話したこと無いんですよね」
話した事無いのに、こんなに親しみやすいものなのか?
「そうなのか……私は人見知りでね」
「そんな事無いです。ヤスさん、とても話やすい人で」
そんな事言われたことが無かったので、嬉しかった。
「学校は楽しいかい?」
私は何気ない質問をした。
「え? あぁ、いや、その」
勇次は明らかにおかしな反応をした。
「どうしたんだ?」
「いや、その……実は大学生なんかじゃ無いんですよね」
「え?」
「本当は去年中退して、今はフリーターです」
「ええ?」
どういう事なのだろうか?
「何でそんな嘘ついているんだ? 国貞は知っているのか?」
「いえ……知らないと思います。そんな事言ったら国貞さんに、何を言われるのか」
「そういえば、勇次は国貞とどのように知り合ったんだ?」
「はい? お父さんが国貞さんと知り合いで、ですね。黒影十字軍は以前から知ってたので、父さんを通じて知り合えたんです」
なるほど、先ほど国貞が『知り合いの息子』と言っていたのは、そういう事だったのか。
「なるほど……」
「僕からも、一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「今回の稽古場、黒船についてどう思っていますか?」
「は?」
唐突の質問だった。
「黒船っていったら、一ヶ月前に……」
「あぁ、そういう事」
質問の意味が分かった。
「黒船に行くのは全然大丈夫だと思うけど、そもそも復活が私は反対だったからね」
「さっきもそんな事言ってましたね」
「みんなの気が知れないよ」
私は本心を言った。
「……美代子さんの自殺、どう思っていますか?」
「え?」
「あっいや……すいません。変な事を聞きました。」
「いや、そうじゃないんだ」
私は焦って言った。
「何で勇次がそんな事興味があるのかと思って」
「僕、少し心辺りがあるような気がするんです」
「は?」
私は意味が分からなかった。
「だって君は関係無かったじゃないか?」
「いえ、そうでは無くて」
「ん? 良く意味が分からないんだけど?」
「ネットに『しがないハート』というブログがあったんです」
「聞いたこと無いな」
「誰が立てたのかは分からないんですが、内容的に十字軍メンバーが立てたとしか思えない内容だったんです」
「はあ、それで?」
きっとメンバー内しか分からない事が書いてあって、それが根拠なんだろう。
「簡単に言うと、『ハート役の人間が執拗にいじめられている』という内容だったんです」
「何だって?」
「僕は、誰かの妄想とかでは思えなくて……」
「それで、そのブログは?」
「それが……美代子さんが自殺した時期に閉鎖したみたいで」
「どういう事だ?」
「知らないです。誰が立てたのかも分からなくて」
これは初めて知る事だった。十字軍メンバーしか分からない事が書いてあったのだったら、これは大変重要な事なのかも知れない。
「あの……」
不意にカウンターから紗希が言った。
「そろそろ、閉店の時間なんですが……」
「え?」
私は銀の腕時計を見た、時刻は七時だった。
「あ、そうか。君一人の時は七時が閉店だったっけ?」
「はい……すみません」
「あっ、いや私の方こそ毎日来てすまない」
「それは全然構いませんから!」
紗希はニッコリと笑い、頭を下げた。
私と勇次はKのドアを押し、家路についた。後ろからはカランコロンと鐘の音がした。
私は帰る方向の違う勇次と別れ、真っ直ぐ家に帰った。最近では家にいてもつまらない私が、今日は気分が少し良かった。
勇次……今日会った彼の事が頭から離れなかった。私はこの歳で仲の良い知人は、ほとんどいない。国貞ぐらいのものだ。何故だろう?何故私は彼をこんなに気にいってるのだろうか? 彼は私の事をどう思っているのだろうか?
今日起こった事といえば例のブログ。美代子の自殺した事に関係あるのだろうか?
私は今日の事を反芻しながら、床についた。
2007年1月29日
結局昨日(国貞、勇次とKで会ったのは一月二十八日)はいつも通り、Kに行き紗希と話しながらコーヒーを飲んだ。そしていつも通りに家に帰り、今日の支度をして寝た。
そしてあっという間に今日、つまり黒船に向かう日になっていた。
黒船は石川県の端にある、埠頭から船で行く。前にも説明しましたが、普通に運航して約二十〜三十分かかる。埠頭には、私の家からは車で一時間ぐらいかかる距離だったので、国貞が車で向かえに来ることになっていた。
プルルルルルル、携帯電話が鳴った。発信者はもちろん国貞だった。
「はい」
「僕だ、国貞だよ」
「分かってるって、画面に出てるから」
「今、下の通りに車でいるから」
「分かった、悪いね」
「あぁ。早く来てくれ」
そういって国貞は電話を切った。私は前日に用意していた鞄、そしていつもの茶色い上着、黒いズボンを着て外へ出た。
下に降りると、派手な紫色の小型車が止まっていた。一目で国貞の車だと分かった。コンコンと窓を叩き、中へ入った。
「おお、康明」
「あっ! ヤスさん」
入ると同時に二人の声がした。国貞と勇次の声だった。国貞が運転席に座り、勇次が後ろの席に座っていたので、私は国貞の隣の助手席に座った。
「やっぱり勇次もいたんだ」
「ああ。だって一人じゃあ、あんな所にいけないだろ。康明だって僕の車に乗って行くのに」
「ヤスさんは車を持ってないんですか?」
「うるさいな」
私は勇次の頭を軽く叩いた。
「あ。今日は朝から元気ですね。そんな元気出しちゃあ、持ちませんよ?」
「勇次もバイトなんだから、頑張れよ」
私は言った。
「じゃあ、そろそろ行きますか?」
「うん」
国貞が言ったので、私は返事をした。紫色の小型車はゆっくりと、ゆっくりと動き出した。
ここから埠頭までは一時間の距離なので長い旅になる。紫車は近くの通りを抜け、多くの車が通る大通りに出た。
「さて、と。こっから先は、ほとんど真っ直ぐの一本道だからね。退屈になるぞ。ふぁぁーあ」
国貞はあくびをしながら言った。
「でも、あんまり混んでないね」
「ホントだ。これだったら、いつもより早く着くかもね」
そう国貞が言った。
「あれ? ちょっと待てよ? 今日って月曜日だよね?」
ハッとしたように、国貞が言った。
「え? あ、うん。そうだけど?」
私は返事をした。
「勇次君、学校は?」
国貞がそう言ったので、私と勇次は同時に吹き出した。
思った通り車の流れは速く、紫車は予定の時間よりも十五分も早く埠頭に着いた。埠頭前の駐車場に紫車を停め、私達は外に出た。
「うわぁ、寒いねぇ」
私は思わず、声を出した。家の周辺の気温とは比べ物にならないほど、風が冷たく寒い。やはり海が近いからだからなのだろうか。前面に広がる濁った青色をした海からは、風とともに潮の匂いがする。
「本当ですね、うぅーーさぶい」
勇次は両腕を肩につけて、小さくなっている。
「こんなんじゃ、早く来ることなんかなかったね。船はあるのかな?」
国貞は寒さを感じない(あるいは我慢?)ような声で言った。
「分からない、と、とにかく向こうへ」
私達は奥へと進んだ。
倉庫が並ぶ道を進むと、中型船が泊まっていた。この中型船は外側のエリアと内側のエリアに分けられている。外側は普通の船と同様、手すりなどがあるだけ。内側は外側から階段で下に降り、小さな会話室、キッチンなどがある。定員数は十人ほど。勇次を含めた十字軍メンバーが七人、船員が三人乗っている。
「あれ? 船あるね。もう乗っても良いのかな?」
私がそう言っていると、中から由理とカレンが出てきた。
「マキさん! 久しぶりです」
由理は私に話しかけてきたが、彼はとても疲れた顔をしていた。
「由理、久しぶりだな。……何か疲れてないか?」
「はい? あぁ、何か最近色々大変でして、マキさんも疲れた顔してますよ? やっぱり、大変でした」
「あぁ、そういう事ね。私も大変だったさ」
そう言うと、二人で苦笑いした。
「みんな大変大変って言うけど、あたしは楽だったね!」
カレンが間に入って言った。
「え?」
「あたし、実家に戻ってたから」
「なるほどね」
私がそう言うと、由理が
「とこれで、そこの彼は?」
と言って、勇次の方を見た。
「え? ちょっと……国貞さん。もしかして他の人にも伝えてないんですか!」
勇次は国貞の方を見て言った。
「ん? あぁーそうだった、忘れてた」
「ヤスさんにも伝えてなかったじゃないですか!」
「いいじゃないか、また自己紹介すれば」
「はぁ」
勇次はそう言って、前へ出た。
「佐藤勇次と言います、今回はバイトで参加させてもらう事になりました。よろしくお願いします」
「バイト? へー珍しいね、そんな事。勇次君? あたしはダイア役の夢見カレン。よろしくね」
「僕は、スペード役の由理かもめ。よろしく」
「は、はい。よろしくお願いします。はぁ、あの……」
と勇次は言った。
「何?」
「そろそろ中に入りたくて、寒い寒い」
「やれやれ、すごいバイト君だ。内部に暖房があるから、行こうよ」
由理がそう言ったので、私達は後について行き、会話室へ入った。
会話室は十畳ほどの木製の部屋。テーブルや椅子、暖炉や窓といった物がある日常的な部屋だ。
会話室は十分に暖房が入っていて、気持ちよかった。
「寒い日の暖房って気持ち良い」
私はそう言葉にした。そしてテーブルの椅子に座った。椅子にみんな座ると、国貞が質問をした。
「そういえばさ、僕らは予定より早く着いたんだけど、何でもう集合してるのかな」
「え? あぁ、僕もいつもよりすごく早く着いたんです。だからみんな早く集まったんじゃないですか」
と由理が言った。
「成る程ね。じゃあ君ら以外にも、みんな集まっているの?」
「はい。団長等が最後でして……麻理ちゃんと武丸君は、上にいるんじゃないかな?」
「なーんだやっぱりみんな揃ってたんだ、僕らが一番かと思ったんだけど」
「いやいやいやいや、国貞さん。何を言ってるんですか、外はあんなに寒かったんですよ?」
と勇次が言った。
「あ……勇次。麻理亜と武丸にも挨拶に行くぞ」
「うわっ。ずるいなぁ」
勇次はそう言い、私は苦笑いをした。
そして国貞と勇次は会話室から出て行った。
私と由理、カレンは部屋に残った。
私は二人の顔を見て気になっていた、あの質問をした。
「由理とカレン、私の話を聞いてくれるかい?」
「はい?」「何ですか?」
由理とカレンは同時に返事をした。
「今回の劇団復活のための稽古、二人はどう思ってるんだ?」
「あっ! やっぱりその事ですか?」
と由理が言った。
「やっぱりとは?」
「あの……僕も最初は疑問でしたよ。何でこんなに早く再活動するのかって」
隣のカレンも爪をを噛みながら、頷いている。
「やっぱりね、私なんかギリまで反対していたんだ」
「でもやっぱり団長は団長じゃないですか、この十字軍の。止めたくないって気持ち僕には分かります。それに……」
「それに?」
「団長から電話があったんです。「お願いだから、頼む」って。そこまで言わなくたって、僕は賛成してたかもしれないですけどね」
「ははは、そうなんだ……(おいおい、私はそんな事言われてないぞ)」
国貞は一応の信頼があるらしい。ちょっと安心した。
「カレンは?」
「あたし?」
爪を噛んでいたのを止め、返事をした。
「あたしはね、正直復活するのが遅すぎるぐらいな気持ちなの」
「え?」
私は変なとこから声が出た。
「どういう事?」
「私って、今ダイア役でしょ? それで麻莉亜が役なし」
「うんうん」
「分かります? 一番良い役であるハート役だった美代子。そのハート役がぽっかり空いた今、格上げって形であたしがハート役になるわよね。だからいつ復活しても良かったわけ」
……あれ? これに似た話を聞いたことがあるような。あ、あぁそうか二日前にKでだ。でもその時は確か……
『は? 何を言ってるんだ? ハート役は一番重要な役じゃないか? 言っとくけど私はまだ劇団を復活なんて賛成じゃないからな』
『いいか? カレンを役柄を変えたりしたら、あまりにも露骨だろう? だったら今まで舞台に立ったことの無い麻理亜が、ハート役になったほうが新鮮じゃないか』
『あぁ……』
こんな会話をしてたっけ? って事は。
「カレン」
「はい?」
「……残念なんだけどさ」
そのあとの事を言おうとした時、会話室のドアが開いた。
「どうもー。マキさん、久しぶりです」
先ほど出て行った、国貞と勇次、それに麻莉亜と武丸が入ってきた。今喋ったのは武丸のようだ。
「あぁ、武丸? 久しぶりかな」
武丸は前と変わらず、黒髪の長髪。尖った目をしている。
「かな? ってどういう事です? 最後に会ったの一ヶ月前っすよ?」
「はは……一ヶ月前の事は精細にまだ覚えているから」
「あぁ、そういう事っすか」
武丸は首を縦に振った。隣にいた麻莉亜が前に出た。長い黒髪が綺麗に揺れている。
「あの、久しぶりです。あたし、この一ヶ月怖くて怖くて」
「え?」
「ずっと怖かったんです。でもまたみんなと会えて、嬉しいです」
麻莉亜の大きな目は少し濡れている。
「頑張って、麻莉亜」
「? はい分かりました」
私はこのあと国貞が話すであろう事を予想していたので、こう言った。
国貞達が来たので、この十畳ほどの会話室には黒影十字軍のメンバーが集まった事になる。
「あの……マキさん?」
カレンが私に喋ってきた。
「ん?」
「さっき『残念なんだけどさ』って言いましたけど、何ですか?」
「あぁ」
私は国貞の方を見て、目配せした。国貞は頷いた。
「みんな……聞いてくれるか?」
国貞が会話室にいる全員に言った。それほど大きな声では無いが、ゆうに聞こえる。
「今回、みんなまた集まってくれて本当にありがたいと思っている」
「何ですか、いきなり?」
由理が声を上げた。
「あの、マキさん?」
「いいから、聞いてて」
カレンが再度話しかけてきたので、私はそう言った。
「みんなも気付いているかと思うが……もう去年の話だ」
そう国貞が言うと、みんな顔を少し曇らした。
「メンバーが一人減った、ハート役が無くなった。その事だ」
「あぁ、そういう事ですか」
国貞がそう言うと、カレンがそう返事をした。国貞がカレンを見ながら、
「ハート役は新しく、麻莉亜にやらせようと思ってる」
と言った。
「え?」
カレンがビックリしたような声を出した。
「私?」
麻莉亜は声が裏返って、大きな目はパチクリしている。
「ちょ、ちょっと待ってください」
とカレンが言った。
「舞台歴で言ったら、あたしの方が麻莉亜より長いし、てゆーか麻莉亜は舞台に立った事無いじゃない」
カレンは国貞に言っているようだった。
「だからこそなんだ、カレンがハート役になったら露骨すぎるんだよ。カレンはダイア役として定着してる。麻莉亜はまだ舞台に出た事なかったから、一番自然なんだ」
「で、でも、あたしは納得できません。だ、だって……」
「ふふふ……見苦しいですよ、カレンさん」
少し憂いを含んだ笑いで麻莉亜は言った。さっきのビックリした感じも演技なのか? この展開を見越していたのだろうか?
「な、何ですって?」
「私はまだ劇に出た事が無いんですから、良いじゃないですか」
「麻莉亜、あんた……」
カレンは何かを言おうとした、その時、
「黒船に到着しました、皆様、長旅ありがとうございます」
会話室に船員が入ってきた。
「あぁ、ありがとう。今回も」
国貞は船員の方に振り返り、そう言った。
由理と国貞が最初に出て行き、私と勇次の前をカレンと麻莉亜が通って行った。
「いやぁー女は怖いっすね。あんなに綺麗な人達が」
後ろで武丸が小さく言ったのに、私は気付いた。(お前の言動が怖いよ)
船がら降り、黒船についた。黒船は劇場が一つあるだけの小さな島。電話は電波が通じず、石川県に浮かぶ絶海の孤島という事になる。
「三日後にまた迎えにきますので、良い時間をお過ごしくださいませ」
船員はそう軽く言い、船に帰った。私達を乗せていた中型船は、水平線をゆっくり進み、数分後には見えなくなっていた。
「三日後といえば、二月一日だね。今月は三十一日まであるから」
と国貞が言った。
私達は停留場の前の砂利道を進み、劇場についた。劇場までの道は一本道なので迷う事も無いし、引き返すのも簡単だ。
劇場前についた私は劇場を見上げた。一ヶ月前に姫嶋美也子が自殺した場所。その瞬間、心の中にドクドクとした感覚が湧き出てきた。人に恋をしたのとは全く違う、とても不安なざわめき。
黒い劇場は私の前に姿を変えず、そびえ建っていた。
ありがとうございます。