マイ・プリンシパル
AIRPORT Spotlight
舞台袖は、思っていたよりも暗い。
黒い幕の向こうから、クラシック音楽が聞こえている。チャイコフスキー作曲、くるみ割り人形より「花のワルツ」だ。
客席からは華やかに見える舞台も、裏側は別世界だった。床には白いテープが引かれ、スタッフが声を潜めて行き交い、出演を待つ少女たちは皆、緊張した顔をしている。
藤崎莉央は壁に片手をつき、右足の甲をゆっくりと伸ばしていた。
中学二年生の莉央は、すらりとした長身で手足が長い。黒い髪をきつくまとめ、白い衣装と舞台化粧で普段より少し大人びて見えた。
隣には三浦萌。
莉央より少し小柄で、柔らかな栗色の髪に大きな目。淡い水色の衣装を身につけている。
「……ねえ。緊張してる?」
「してないかな。」
「うそだ。さっきから同じところ、ずっと伸ばしてるじゃん。」
莉央は自分が何度も右足を伸ばしていたことに気づいた。
「……準備。」
「5分前から?」
「うるさいなあ。」
萌が小さく笑った。
前の出場者が最後のポーズを取ったらしく、客席から拍手が起こる。その瞬間、莉央の表情から笑みが消えた。
「続いては、エントリー47番、藤崎莉央さんです。」
「はい。」
莉央の返事だけが妙にはっきり響く。
「顔、怖いよ。」
「やめてよ、今から踊るんだから。」
「萌のほうこそ、手応えは?」
「まあまあかな。転ばなかったし。」
「基準低くない?」
「中学生なんだからこんなもんでしょ。」
「そういうこと言うから駄目なんだよ~。」
いつもの調子が戻った莉央を見て、萌は少し安心した。
「莉央は? 目標。」
「1位。」
迷いのない声だった。
「ほんと、そういうとこすごいよね。普通、もうちょっと謙遜するじゃん。」
「なんで? 1位取りたいから出てるんでしょ?」
萌は一瞬、言葉を失った。
莉央は昔からそうだった。プロになる、海外へ行く、大きな舞台で踊る。自分の未来を疑っていなかった。
「じゃあさ、萌が1位取ったら何する?」
「うーん……別に何もしないかな。」
「何それ、つまんない。」
「次のコンクール出るよ。」
「もっとつまんない。」
2人が笑う。
「藤崎さん、お願いします。」
スタッフの声。
莉央の表情が変わった。
「いってくる。」
萌は頷いた。
「いってらっしゃい。」
莉央が白い光の中へ入る。
その瞬間、藤崎莉央は別人になった。
音楽が始まる。柔らかな旋律に合わせ、莉央の腕がゆっくりと上がる。
1歩、2歩。
舞台を滑るように進む。
萌は袖からその姿を見ていた。何百回も一緒に踊ってきたのに、舞台の上の莉央は違って見えた。
ターンして着地、そして次の動きへ。決して迷いがない。
萌は自分の足元を見る。
同じトウシューズ、同じ年齢、同じ先生、同じ教室。
それなのに。
――なんで、こんなに違うんだろう。
莉央が跳ぶ。一瞬だけ時間が止まったように見え、静かに着地する。
観客が、舞台の中央にいる莉央を見ている。
悔しい。
羨ましい。
でも、それ以上に。
――きれい。
純粋に、そう思った。
音楽が終わり、莉央が最後のポーズを取る。
大きな拍手。
莉央は深く礼をし、顔を上げた。その視線が一瞬だけ舞台袖へ向く。
萌と目が合った。
――気がした。
萌は小さく笑った。
すごかった。綺麗だった。悔しい。
全部、本当だ。
けれど、いつか彼女はもっと大きな舞台に立つ。
萌はふと、そう思った。
――それから数年後。
二人はそろって鎌倉女子高等学校へ進学した。
同じクラスになり、そこで仲良くなったのが山口真奈美だ。
真奈美は真面目で何事にもきちんとしている。一方で人との間に壁を作らず、気づけばいろいろな人と話していた。
休み時間になると二人の席にも気軽にやって来る。萌のくだらない話に真面目に返し、莉央が短い返事でも気にせず話しかけた。
いつの間にか、三人で昼休みを過ごす日が増えていた。
「二人とも、将来はやっぱりプロ?」
「私はプロになる。」
莉央は迷わず答える。
「私も、今のところは続けるつもり。」
真奈美は二人を見比べる。
「じゃあ、いつか二人で海外とか行くの?」
「私は行きたい。」
萌は莉央の横顔を見つめた。
「……うん。行けたらいいね。」
ある日の放課後。
三人は江の島海岸へ向かった。
夕方の海岸を歩き、萌と莉央は靴を脱いで波打ち際へ向かう。
「真奈美!」
「……もう。」
真奈美はきちんと靴下まで脱ぎ、左右を揃えて靴の中へ入れた。
莉央が笑う。
「そういうところよね。」
「何が?」
「別に。」
三人の足元を波がさらう。
「冷たっ!」
萌が叫び、莉央が笑う。真奈美も思わず声を上げた。
制服の裾を押さえ、砂浜を走る。ただの高校生として過ごす時間だった。
やがて遊歩道へ戻ると、真奈美がスマートフォンを取り出した。
「ねえ、3人で写真撮ろうよ。」
「え、今?」
「せっかく3人で来たし。海もきれいだから。」
莉央が髪を押さえる。
「私、髪ぼさぼさ。」
萌はそんな莉央を見て笑い、真奈美もつられるように口元を緩めた。
「ほら、撮るよ。」
三人が肩を寄せる。
「いくよ。3、2、1。」
シャッター音。
夕暮れの海を背にした三人の少女が画面に写る。
「いいじゃん。」
「よかった。」
真奈美が満足そうに言う。
莉央は写真を見つめたあと、ふと海の向こうへ視線を移した。
その先に何があるのか、まだ誰も知らない。大きな舞台も、ロンドンという街も、別々の道を歩く未来も。
ただそのときは、三人で並んでいた。夕暮れの海岸で、同じ時間の中に、写真の中の三人は、いつまでも笑っていた。
まだロンドンという舞台が、自分たちの人生に本当に関わってくるなど知らなかった頃、三浦萌は初めて、藤崎莉央という少女の背中に、自分とは違う未来を見た。
現在
ー 羽田空港第2ターミナル ー
午前4時48分
まだ朝と呼ぶには少し早い時間だったが、ターミナルはすでに動き始めていた。
大きなガラス窓の向こうでは、朝の薄い光を受けた航空機がスポットに並んでいる。
エプロンを走るトーイングトラクター。
機体の下を行き交うグランドハンドリングスタッフ。
出発便を知らせる電光掲示板には、これから日本を離れていく都市の名前が次々と並んでいた。
ニューヨーク、パリ、シドニー、上海。
人の流れは、時間とともに少しずつ大きくなっていく。
その流れを縫うように、一人の女性が歩いていた。
三浦萌だ。
ANAの制服に身を包み、首元にはスカーフを整えている。髪は肩につかないよう綺麗にまとめられ、胸元には社員証。右手には小さなバッグを持っていた。
「おはようございます」
すれ違うスタッフに声をかける。
「おはようございます」
相手が返す。
萌は軽く頭を下げ、そのまま歩いていった。
背筋が伸びている。顎は少し引かれ、歩幅は一定。急いでいるわけではないのに、不思議と歩く速度が速い。人の間を抜けるときも身体の軸がほとんどぶれない。
本人には、意識すらない。長い年月をかけて身体に染み込んだものだった。
スタッフ用のドアを抜け、バックヤードへ入る。
ロッカールームで荷物を置き、鏡の前に立つ。
スカーフ、髪、襟元、名札。
一つずつ確認する。
最後に靴を見る。
左右の足先が、きれいに揃っている。
萌は鏡の中の自分を見る。
そのまま、一度だけ踵を浮かせた。
ほんの数センチ。
すぐに下ろす。
「……よし。」
誰に言うでもなく呟いた。
ロッカールームを出ると、廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「先輩!」
萌が振り返る。
「実優、朝からうるさい。」
「あ、おはようございます!」
駆けてきたのは田口実優だった。
萌より2つ年下で入社2年目のグランドスタッフだ。
小柄な身体に制服をまとい、片手にはタブレット、もう片方の手にはクリアファイル。そして肩から下げたバッグの口が、思い切り開いている。
萌はそこを見る。
「実優。」
「はい?」
「バッグ。」
実優が下を見る。
「あ……。」
慌ててファスナーを閉める。
「また?」
「えへへ……今日は何も落としてませんから。」
「今日は、ね。」
「はい、昨日のは事故です。」
「社員証落とすのは事故って言わないでしょ。」
「でも、ちゃんと見つかりましたから。」
「私が見つけたんじゃない。」
「なので、本当にありがとうございました。」
実優は申し訳なさそうに、けれどどこかふんわりとした笑顔で頭を下げた。
「はいはい。」
萌は歩き出す。
実優も小走りで隣に並んだ。
二人はスタッフエリアを抜け、国際線出発ロビーへ向かう。
自動ドアが開くと、途端に、空港の音が押し寄せてきた。
ANAの国際線チェックインカウンターには、すでにスタッフが配置につき始めていた。パソコンが立ち上がり、プリンターの確認が行われ、各便の情報が共有されている。
萌の表情が少し変わった。
さっきまで実優と話していた柔らかさが消える。
「実優、端末立ち上げたら今日の担当便確認して。」
「はい。」
「あと昨日言ったやつも。」
実優がぴたりと止まる。
「……昨日言ったやつ?」
萌も止まった。
実優を見る。
「ちょっと、本気?」
「えっと……ちょっと待ってくださいね。」
「搭乗手続き変更の件。」
「あっ!」
実優が小さく手を叩いた。
「それです!」
萌は呆れながらも笑ってしまった。
「それですじゃないでしょ。ちゃんと確認してからカウンター入って。」
「はい。」
そこへ低い声が飛んできた。
「田口。」
「はい!」
実優の背筋が跳ねる。
数メートル先に、一人の男性が立っていた。
多田邦広。
国際線担当のグランドマネージャー。四十代後半の彼は体格はやや大きく、柔和そうな顔立ちをしているが、現場を見る目は鋭い。長年、羽田の旅客業務に携わってきた男だった。
「今走ってたな?」
「……いえ、小走りです。」
「同じだ。」
「はい……。」
実優がしょんぼりと返事をする。
その様子を見て萌が小さく笑うと、多田はそちらへ視線を向けた。
「三浦も笑ってないで注意してくれ。」
「しましたよ。バッグ開いてるって。」
「そこからか。」
多田は額を押さえた。
実優が小さく頭を下げる。
「すみません。」
「頼むよ。お客さまに『落ち着いてください』って言う側が一番慌ててどうするんだ。」
それから多田は萌を見る。
「三浦、今日最初はB側を頼む。」
「分かりました。」
「田口も一緒に組め。」
萌が一瞬止まった。
実優はぱっと顔を明るくした。
「お願いします、三浦先輩。」
「……多田さん。」
「教育も仕事だぞ。頑張れ。」
多田はそれだけ言うと、別のスタッフのもとへ歩いていった。
萌はその背中を見送ると、隣から視線を感じた。
実優だ。
「なんでそんな嬉しそうなの?」
「先輩と一緒だと安心なので。」
「私は不安なんだけど……。」
実優は本当に傷ついたような顔をした。
「そんなにですか?」
「そんなによ。とりあえず、変なこと起こさないでよ。」
萌は小さく息を吐き、カウンターへ入った。
端末の前に立ち画面を確認する。プリンター、パスポートリーダー、手荷物タグ、必要なものを順番に確認していく。
1つ、2つ、3つ、4つー。
萌は確認するとき、無意識に一定のリズムを刻んでいた。昔、音楽が始まる前に頭の中でカウントを取っていたのと同じだった。
実優が隣から覗き込む。
「先輩って、毎回その順番ですよね。」
「そう?」
「はい。絶対右から確認して、最後に一回後ろに下がります。」
萌が手を止める。
「気のせいじゃない?」
「絶対気のせいじゃないです。私、これでも観察は得意なんです。」
「じゃあ、仕事の確認は?」
実優は少しだけ目を泳がせた。
「……がんばります。」
「そこは得意って言ってよ。」
実優はふわりと笑った。
「あと、物を拾うときの姿勢もすごく綺麗です。この前も先輩がペンを落としたとき、なんか舞台役者みたいでした。」
萌の表情が一瞬だけ止まった。
「……馬鹿にしてるの?」
「してませんよ!」
実優は慌てて両手を振った。
「本当に綺麗だったんです。なんていうか……すっとしていて。」
「すっと?」
「え、伝わりません?」
「全然。」
萌は苦笑して端末へ視線を戻した。
「仕事中に人の立ち方を観察しないの。」
「はーい。」
やがて、カウンターの受付開始時刻になる。待機していた旅客が少しずつ列を作り始める。
萌は一度息を吸った。それから、カウンターの前へ視線を向ける。
「おはようございます。」
最初の旅客がやって来る。
「パスポートをお預かりいたします。」
萌は両手でパスポートを受け取った。旅客は六十代くらいの夫婦だった。大きなスーツケースが二つ。どうやら久しぶりの海外旅行らしい。
「お乗り継ぎはございますか?」
「いえ、シンガポールまでです。」
「承知いたしました。」
萌の指が端末を動く。
予約情報を確認。渡航書類、受託手荷物、座席、一つずつ、正確に処理していく。
その隣では実優が別の旅客を担当していた。萌は自分の画面を見たまま耳だけをそちらへ向けた。
「ええと……少々お待ちください。」
早速、声が聞こえた。
「搭乗口は出発時刻の20分前までにお越しください。お気を付けて、いってらっしゃいませ。」
あっという間に萌は旅客への案内を終えると、すぐ実優の横へ移動した。
「どうしたの?」
小声で尋ねる。
「重量が……少しだけ、予定より多いみたいで。」
萌は表示を見ると、一瞬で状況を理解した。
「2個口で予約入ってる。」
「あ。」
「1つずつ計って。」
実優が操作をやり直す。
萌は手を出さず横で見守った。
「できました。」
「確認して。」
実優は画面を確認する。
「今度は大丈夫です。」
萌は頷いた。
「じゃあ、お客さまに説明して」
「はい。」
実優は旅客へ向き直り、少し緊張しながらも柔らかな笑顔を浮かべた。
萌もほっとしたように笑った。そして一歩後ろへ下がる。その動きがあまりに自然で、足先がわずかに外へ開いた。
かつて第一ポジションと呼ばれていた形。ほんの一瞬、誰も気づかない程度の癖だった。萌自身も気づいていない。
萌は自分のカウンターへ戻ると、次々と旅客の対応をしていく。忙しくなればなるほど、その動きはむしろ静かになった。身体の中心がほとんど揺れない。狭い場所ですれ違うスタッフの肩を避けるときも、半歩だけ身体を引き、するりと通り過ぎる。
「先輩!」
実優が呼ぶ。
萌が振り返る。
「今度はどうしたの?」
「お客さまの乗り継ぎの荷物について……。」
実優は申し訳なさそうに手を挙げた。
「今行くから場所を教えて。」
「すみません。」
萌はすぐ歩き出した。
多田は少し離れた場所から、その姿を見ていた。
隣にいたスタッフが言う。
「三浦さん、今日も動き早いですね。」
「相変わらずだな。」
多田は短く答えた。
「昔、何かやってたんですかね?」
「さあ。」
多田は腕を組む。
人混みの中を移動していく萌は、不思議なくらい目についた。派手なことをしているわけではない。走ってもいない。それでも、次にどこへ動くのかが分かっているように見える。余計な動作がないのだ。
萌は旅客に笑顔を向けた。
「お待たせいたしました。ご案内いたします。」
その声は、周囲の喧騒の中でもよく通った。
数分後、問題なく手続きを終えた旅客が離れていく。
「いってらっしゃいませ。」
萌は深く頭を下げた。背中から首まで、一本の線を引いたような礼だった。
身体を起こすと、実優が隣で萌を見ている。
「何?」
「いや、先輩って」
実優は少し考えた。
「立ち方、綺麗ですよね。」
ほんの一瞬、萌の表情が止まる。
「またそれ?」
「だって本当に綺麗なので。」
「だからいちいち観察しない。」
「はい。」
2人は自分のカウンターへ戻ろうとしたとき、頭上の出発案内表示が切り替わった。何気なく、萌はそこを見る。
『LONDON』
白い文字が表示されている。萌の足がほんの一瞬止まった。それから何事もなかったように視線を外す。
「先輩?」
実優が呼ぶ。
「いや、何でもない。」
萌はそう答えた。
実優はそれ以上尋ねなかった。ただ、萌の背中を少しだけ心配そうに見つめている。
萌は再び歩き始めた。
もう彼女の足に、トウシューズはない。それでも、カウンターに立つ三浦萌の背筋は、あの日の舞台袖にいた少女と少しも変わらず伸びていた。
________________________________________
午後5時52分
勤務を終えた萌は、出発ロビーを歩いていた。
朝とは違う人の流れができている。これから旅立つ者、到着した家族を迎えに来た者、大きなスーツケースを引く外国人旅行客。そして仕事を終え、足早に駅へ向かう空港スタッフ。
萌も、その中の一人だった。
制服から着替え、紺色のブラウスとベージュのパンツに身を包み、黒いショルダーバッグを肩に掛けている。朝から立ちっぱなしだったせいか、さすがに脚が重い。今日は特に忙しかった。けれど、大きな問題はなかった。
帰り際には、
『先輩、今日もありがとうございました。』
と、いつもの柔らかな笑顔で頭を下げていた。
多田には、
『あんまり甘やかすなよ。』
と言われた。
別に甘やかしているつもりはない。ただ放っておけないだけだ。
京急線の案内表示に従い、萌はエスカレーターへ向かう。
そのとき、バッグの中でスマートフォンが震えた。萌は歩きながらスマートフォンを取り出した。LINEの通知だ。
画面に表示された名前を見て、足がわずかに緩む。
**莉央**
「……珍しい。」
最近は、連絡を取り合っていなかったわけではない。誕生日、年末年始、たまの近況報告、SNSに載せた写真への反応。けれど、高校生の頃のように毎日のように話すことは、もうなくなっていた。
お互いに仕事がある。住んでいる場所も違う。歩いている道も違う。
萌は通知を開いた。
メッセージは短かった。
『萌、聞いて。』
その下に、もう一通。
『この前受けたオーディション、受かったよ。』
萌の指が止まる。さらにメッセージが届いた。
『バーミンガム・ロイヤル・バレエ団に入れることになった。』
萌は立ち止まった。
後ろから歩いてきた旅行客が横を通り過ぎていく。駅へ向かう人の流れの中で、萌だけがそこに取り残された。
もう一度、文字を見る。
**バーミンガム・ロイヤル・バレエ団。**
「……え。」
声が漏れた。驚いた、本当に驚いた。
そして、嬉しかった。
莉央が、ずっと追い続けてきたものだったから。同時に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
痛いわけではない。苦しいとも、少し違う。名前のつけにくい感情だった。
萌はスマートフォンを持ったまま、人の流れを避けるように壁際へ寄った。
メッセージは続いた。
『イギリスに行けるんだよ!まだ実感湧かないけど。』
その文字を見た瞬間、遠い昔に聞いた声が蘇った。
――私、イギリスに行きたい。
何度聞いただろう。莉央は、何度も同じことを言っていた。
――いつか向こうで踊る。
――バレエで生きていきたい。
――プリンシパルになる。
恥ずかしがることもなければ、決して冗談にすることもなかった。莉央にとって、それは夢というより予定だった。いつか実現させる未来の予定。
萌は、そんな莉央をずっと隣で見ていた。そして、羨ましいと思っていた。
中学生の頃から分かっていた。
莉央には才能があった。
舞台に立った瞬間、人の目を引きつける。同じ振付を踊っていても、莉央だけが違って見える。先生から注意されたことを、一度で自分のものにする。昨日できなかったことが、翌日にはできるようになっている。努力だけでは説明できない何かを、莉央は持っていた。
萌には、それが眩しかった。そして、怖かった。
自分もバレエが好きだった。
萌は幼い頃から踊っていた。トウシューズを初めて履いた日は嬉しくて、家に帰ってからも何度も箱を開けた。舞台に立つことも好きだった。
プロになりたい。
もちろん、彼女もそう思っていた。
でも、年齢を重ねるにつれ分かってしまった。自分より上は、いくらでもいる。
しかもすぐ隣に、莉央という圧倒的な才能の持ち主がいた。だから萌は、自分の限界を誰よりも早く知ってしまった。
それでも、やめようとは思わなかった。
届かないかもしれない、プロにはなれないかもしれない。
それでも、踊りたかった。
踊っている時間が好きだった。莉央の隣にいたかった。
もう少しだけ、あと一年、次の舞台までー。
そうやって続けていた。
しかし、ー。
高校二年の六月のある日
その日は、いつもと変わらない日だった。レッスンが終わったのは、午後9時前。雨は降っていなかったが、少し蒸し暑い夜だった。
「今日の先生、機嫌悪かったよね。」
萌が言った。
「萌が同じところ3回間違えるからでしょ。」
莉央が答えた。
「私だけじゃないし。」
「2回目で気づいてよ。」
「莉央はできるからそういうこと言えるんだよ。」
「またそれ?」
「はいはい、天才様は違いますね。」
「腹立つ。」
二人で笑った。
そんないつもの帰り道だった。駅へ向かう交差点。歩行者用信号が青に変わり、萌は一歩踏み出した。
それから先は、今でもところどころしか覚えていない。
光、クラクション、誰かの叫び声、目の前に迫る白いもの、身体に加わった強い衝撃。
「萌!」
莉央の声だけは、覚えている。
ひどく遠くから聞こえていた。
左脚が熱かった。動こうとしても、身体がいうことを聞かなかった。左脚に激痛が走った。
「動かないで!」
莉央が叫んでいた。
「救急車……誰か、救急車!」
いつも冷静だった莉央の声が震えている。
萌は、ぼんやりとその顔を見上げていた。
「莉央……。」
「喋らなくていいから。」
莉央が萌の右手を握った。
強かった。痛いくらいだった。
意識がはっきりしたのは、病院に着いてからだった。
命に別状はないと、医師はそう説明した。
大きな事故だったことを考えれば、幸運だった。
しかし、左脚を中心に強い損傷があった。治療とリハビリを続ければ、日常生活に大きな支障がないところまでは回復できる。
けれどー、
萌は医師に一つだけ尋ねた。
「バレエは?」
医師はすぐには答えなかった。
その沈黙で萌には分かった。
「治ったら、またできますよね?」
医師は萌を見る。
「三浦さん。」
「リハビリします!」
自分でも驚くほど早口になった。
「ちゃんとします。毎日でも。だから――。」
「正直なところ、以前と同じように踊ることは、難しいと思います。」
萌は医師の顔を見た。言葉の意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
「難しいって……。」
返事はない。萌が医師を見続けていた。
萌は当時16歳だった。プロになれるかどうかなんて、ずっと迷っていた。自分には莉央ほどの才能がないことも分かっていた。
もしかしたら、いつか自分から諦める日が来たのかもしれない。
それでも、自分で決めたかった。
続けるのも、諦めるのも、どこまで行けるのか自分で決めたかった。
なのに、その選択肢そのものが突然なくなった。
その後萌はリハビリの甲斐あり、日常生活ではほとんど困らないところまで回復した。
医師にも、
「よく頑張ったね。」
と言われた。
周囲も喜んだ。母親も、学校の先生も、真奈美も、そして莉央も。
萌自身も笑った。
「もう大丈夫。」
そう言った。
けれど、鏡の前に立つことはできなかった。バレエスクールにも行けなかった。音楽を聞くだけで、身体が勝手に動こうとする。足を開き、背筋を伸ばす。
そこで、左脚が止まる。
以前なら何も考えず描けていた曲線が、描けない。それだけで全部を思い出した。
だから、踊ることをやめた。
スマートフォンが再び震え、萌は現実へ引き戻された。
羽田空港の京急線へ続く通路で、目の前をキャリーケースを引いた人々が通り過ぎていく。
画面には莉央からの新しいメッセージがあった。
『私昔から言ってたでしょ
イギリスで踊りたいって』
萌は思わず笑った。
「……言ってたよ。」
小さく呟く。
嫌になるくらい何度も何度も聞いた。そして、本当に叶えてしまった。
画面の文字が少し滲んだ。
萌は瞬きをする。
嬉しかった。それは嘘ではない。
莉央は努力した。萌が踊れなくなってからも、大学へ進んでも、オーディションに落ちても。思うような役がもらえなくても。
ずっと踊り続けた。
誰より知っている。
だから嬉しい。
なのに、胸の奥から、別の声が聞こえる。
――もし、あの日。
あの交差点で車が来なかったら、私は今何をしていたんだろう。
萌は目を閉じた。
そんなことを考える自分が嫌だった。
莉央の夢が叶った。
それでいい、それだけでいいはずなのに、自分が失ったものまで一緒に思い出してしまう。
「最低だな……私。」
呟いた。
スマートフォンには返信欄が開いたままだった。
何を書けばいい。
おめでとう。
すごいね。
よかったね。
全部本当なのに、どれも今の気持ちとは少し違った。
萌はしばらく画面を見つめた。
やがてゆっくりと文字を打つ。
『おめでとう』
送信。
そのあと指が止まる。
しばらく迷ってから、もう一通。
『本当に、すごいじゃん』
送信した。
すぐに既読がつく。莉央から返事が来た。
『ありがとう』
そして。
『やっとスタートラインよ』
萌は、その言葉をじっと見つめた。
莉央にとっては、ここがスタートラインなのだ。中学生の頃から走り続けて、何度も挑戦して、それでもまだスタートライン。
萌はスマートフォンを伏せた。
目の前には、京急線の改札へ向かう長い通路が伸びている。人々はそれぞれの行き先へ歩いていく。
萌も歩き出した。
背筋はいつものように伸びている。歩幅も変わらない。
けれど、左脚だけが、バッグの横でほんの少しだけ強く踏みしめられていた。
あの日から何年経っても、失ったものは、消えてなくなるわけではなかった。
________________________________________
数日後の金曜日の夜
午後7時12分
品川駅前のビルに入ったレストランは、仕事帰りの客で賑わっていた。窓際の席からは、品川駅を発着する電車の灯りが見える。
萌は窓際のテーブルで、スマートフォンの画面を見ていた。
待ち合わせは午後7時。
真奈美とのLINEには、少し前にメッセージが届いていた。
『本当にごめん。
二人で楽しんで。
今度絶対三人で会おう。』
萌は小さく笑った。
その時だった。
「萌?」
聞き覚えのある声だ。萌が顔を上げる。
一瞬、言葉が出なかった。
そこに立っていたのは莉央だった。
「……莉央。」
「久しぶり!」
「久しぶり!」
何年ぶりだろう。写真では何度も見ていた。SNSでも近況は知っている。
それでも実際に目の前に立たれると、まるで違った。
中学生の頃からすらりとしていた身体は、さらに引き締まっている。黒い髪は肩より少し長いところで揃えられ、派手な服装ではないのに、不思議と目を引いた。
そして、立っているだけで分かる。バレエを続けている人間の身体だった。
萌は、そこから目を逸らした。
「座れば?」
「あ、うん。」
莉央が向かい側に座る。
「待った?」
「10分くらいかな。」
「ごめん。」
「別に。私が早かっただけ。」
「萌、昔からそうだったよね。」
「何が?」
「待ち合わせ15分前にはいる。」
「遅刻するよりいいでしょ。」
「私はだいたい五分遅れる。」
「今日も十二分遅れてるけど。」
莉央が時計を見る。
「あ、本当だ。」
二人は笑った。
その瞬間だけ高校時代に戻ったような気がした。
店員が注文を取りに来る。料理を頼み、飲み物を選ぶ。莉央はスパークリングワイン、萌はジンジャーエール。
「飲まないの?」
「明日早番だから。」
「ああ、空港ってそういうのあるか。」
「朝4時半起きだよ。」
「無理。」
「バレエの朝練やってる人に言われたくない。」
「それでも朝は嫌い。」
「昔からじゃん。」
また笑う。
不思議だった。何年も会っていなかったのに、話し始めてしまえば、空白なんてほとんど感じなかった。
「真奈美、今日忙しいみたいだね。」
莉央が言う。
「めちゃくちゃ悔しがってた。」
「何の仕事してるんだっけ。」
「管制官。」
「ああ、そうだった。」
莉央が少し考える。
「じゃあ萌が地上で、真奈美が空?」
「そう考えるとすごいよね。」
「二人とも飛行機関係じゃん。」
「私はサービス業みたいなものだけどね。」
「でも空港でしょ?」
「まあね。」
料理が運ばれてくる。
二人は食べながら、互いの近況を話した。
萌は実優の話をした。
「とにかく頼りないんだから。」
「萌が先輩やってるの、想像つかない。」
「失礼だな。」
「でも楽しそうじゃん、仕事。」
その言葉に萌は少しだけ考えた。
「……うん。」
それから、笑った。
「楽しいよ。」
それは素直に言えた。
大変なこともある、腹が立つ旅客もいる。早朝勤務も、深夜まで残る日もある。実優の面倒も見なければならない。
それでも、自分はあの場所が嫌いではなかった。むしろ好きだった。
「莉央は?」
萌が尋ねる。
「今までどこにいたんだっけ?」
「東京のカンパニー。小さいところだけど。」
「何年?」
「大学出てからだから……3年ちょっとかな。」
「そんなになるんだ。」
莉央はフォークを置いた。
「それで、」
ほんの少し表情が明るくなる。萌には分かった。
「イギリス。」
莉央が言った。
「うん、おめでとう。」
萌は笑った。
「ありがとう」
莉央も笑う。
「まだ全然、実感ないんだけどね。」
「いつ行くの?」
「来月。」
「早いね。」
「今もうバタバタだよ。向こうの事務局から毎日メール来るし。」
「英語大丈夫なの?」
「なんとかするよ。」
「なんとかするって。」
「踊るときは喋らないし。」
「いや生活。」
「そこは……なんとかする。」
萌は吹き出した。
「何も考えてないじゃん。」
「考えてるよ。住む部屋も見つけたし。」
「え、もう?」
莉央はスマートフォンを取り出す。
「見て、スタジオまで電車で30分くらいのとこ。」
画面には、イギリスの街並みが映っている。
莉央は楽しそうに画面を滑らせる。
「バーミンガムってロンドンとは全然違うらしいんだけど、結構大きな街なんだって。」
「へえ。」
「カンパニーのレパートリーも多いし。古典だけじゃなくて新しい作品もやってるし。」
「うん。」
「それに、向こうって本当にいろんな国からダンサーが集まってるから、たぶん毎日ついていくだけでも大変だと思う。」
「そうなんだ。」
萌は笑った。いや、笑っているつもりだった。
「オーディションもさ、最初は絶対無理だと思ったよ。」
莉央は気づかず続ける。
「でも一次通ってさ。」
「うん。」
「最後にディレクターに呼ばれたときも、落ちたと思ってて。そしたら契約の話されて――。」
莉央が笑った。
その笑顔を萌は見ていた。嬉しそうだった。
当然だ、ずっと莉央が夢見ていた場所だから。
萌の口元から少しずつ笑みが消えていった。
「それでさ。」
莉央は続ける。
「まだ最初はコール・ドからだと思うけど、いつかソリストに上がって――」
萌はテーブルの下で左脚に力を入れた。
「……うん。」
「そこからもっと役もらえるようになって。」
莉央が笑う。
「プリンシパルなんて、まだ全然先だけど。」
その言葉で何かが切れた。
「いいよね。」
萌が言った。
莉央が止まる。
「え?」
萌はグラスを見る。氷が、からんと音を立てた。
「夢が全部そのまま続いてて。」
莉央の表情が変わった。
「萌?」
「中学の頃から言ってたもんね。」
「……うん」
「プロになって、イギリス行って、プリンシパルになるってさ。」
萌は笑おうとしたが、うまくできなかった。
莉央は黙った。
萌は自分でも分かっていた。やめたほうがいい、ここで止めればいい。
今日は莉央を祝うために来た。ずっと努力してきた親友の門出を祝うために。
なのに、言葉が止まらなかった。
「莉央は本当に、全部叶えていくんだね」
「……何?」
莉央の声から、さっきまでの弾んだ調子が消えていた。
萌は顔を上げる。
「ずっと羨ましかった。」
「……」
莉央の瞳が揺れた。
「昔から莉央は何でもできたじゃん。」
「そんなこと――。」
「できたよ。」
萌は遮った。
思ったよりも強い声が出た。隣の席の客が、ちらりとこちらを見る。
萌は声を落とす。
「私が何回練習してもできなかったこと、莉央はすぐできてた。」
「萌だって――。」
「そういうことじゃない。」
「じゃあ何?」
初めて莉央の声にも、少し強さが混じった。
萌は左脚に手を置いた。事故の傷は、今ではほとんど目立たない。
「私ね。」
萌は言った。
莉央は黙って聞いている。
「別に、自分がプリンシパルになれたなんて思ってない。そんな才能なかったのも分かってた。」
「萌。」
「莉央とずっと一緒だったから、余計に。」
喉が痛い、それでも萌は続ける。
「でも踊りたかった。」
莉央の顔が強張った。
萌は笑った。
今度の笑いは、完全に歪んでいた。
「自分がどこまでいけるのか、自分で決めたかった。」
莉央は何も言えなかった。
「あの事故がなかったら。」
その言葉を口にした瞬間、萌自身が一番聞きたくなかったものが出てきた。
「事故がなかったら、私だってまだ踊ってたかもしれない。それでも、莉央みたいにはなれなかったと思う。」
「萌、やめよ。」
「でも分かんないじゃん。」
声が震えた。
莉央が唇を噛む。
萌は一度目を伏せた。
「それを目の前で、全部叶えていく人にさ、笑って『おめでとう』って言い続けるの、結構きついんだよ。」
莉央の顔から血の気が引いた。
萌は言ってしまったと思った。でももう遅かった。
「……ごめん。」
莉央が呟いた。
その一言で、今度は萌が止まった。
「なんで莉央が謝るの?」
「だって……。」
「そういうのが嫌なの。莉央は何も悪くないでしょ。でも……、私が事故に遭ったのも、莉央のせいじゃないじゃん。」
萌の声が掠れる。
「イギリスに行くのも悪くない。夢叶えたのも悪くない。だから困るんだよ。」
「萌……。」
莉央を見る。
「ちゃんと喜びたいのに、親友なんだから。」
目の奥が熱くなる。
莉央は俯いた。
「私だって……」
小さな声だった。
「何?」
莉央が顔を上げる。
「私だって、ずっと怖かったよ。」
萌が眉を寄せる。
「何が?」
「萌にバレエの話するの。事故のあとからずっと。」
莉央の声も震え始める。
「コンクールで賞取っても言えなかった。役もらっても言えなかった。カンパニー入ったときも。聞いたら傷つくと思ったから。」
「勝手に決めないでよ。」
萌の声が鋭くなった。
莉央も言い返す。
「じゃあどうすればよかったの?」
二人の間に沈黙が落ちる。
「萌が踊れなくなってさ、私だけ普通にレッスン行くの、どんな気持ちだったと思ってるの。」
莉央は唇を噛む。
萌が動きを止めた。
「スクールに行っても、いつも萌がいた場所が空いてた。それに、先生が音楽かけるたびに思い出すの。」
「莉央。」
莉央の声が掠れる。
「私も一緒にいた。」
あの交差点、救急車、アスファルトの上の萌。
莉央は目を伏せる。
「何度も思った。あのとき私が先に歩いてたらって。」
「それは関係ないでしょ。」
「分かってるよ!」
莉央が初めて声を上げた。すぐに周囲を気にして、声を落とす。
「萌が踊れなくなったのに、私だけ踊ってていいのかなって何度も思った。」
萌は莉央を見る。
そんなこと、一度も聞いたことがなかった。
「でも、踊りたかった。」
莉央が言う。
そこには中学生の頃から変わらない藤崎莉央がいた。
萌は目を伏せた。
胸の中に、いくつもの感情が渦巻いている。怒っているのか、悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からない。
ただ、ここにいたくなかった。
「……ごめん。」
萌が言いバッグを取った。
「萌?」
「今日、無理だ。」
「待って。」
萌は立ち上がると左脚に体重がかかる。
一瞬、あの日の痛みが蘇った気がした。
「ごめん。」
もう一度だけ言った。
そして店を出た。
「萌!」
莉央の声が追ってくる。けれど萌は振り返らなかった。
________________________________________
その夜
萌は自宅のベッドに座っていた。部屋の明かりはついていない。カーテンの隙間から、街の灯りだけが差し込んでいる。
スマートフォンは机の上に伏せて置いてある。
莉央から連絡は来ていなかった。萌も送っていない。
「……最悪。」
呟くと両手で顔を覆った。
莉央は、何も悪くない。
最初から分かっていたのに、一番言ってはいけない相手に、一番言ってはいけないことを言った。
萌はベッドから立ち上がった。
部屋の隅にあるクローゼットを開ける。その奥にほとんど触らない白い箱がある。
迷った末に取り出した。
蓋には、薄く色褪せたメーカーのロゴ。
それを開けると中に入っていたのは、一足のトウシューズだった。
まだ怪我をする前に使っていたもの。捨てられなかった。
萌はそっと手に取る。
リボンは少し黄ばんでいる。つま先には、何度も踊った跡。
萌はベッドに座る。
目を閉じると音楽が聞こえた。
記憶の中のレッスン室。そして隣に莉央がいる。
二人で笑っていた。
いつも莉央は隣にいた。
ライバルであり、目標であり、なにより親友だった。
しかし、萌にとって一番近くにいた、一番遠いダンサーだった。
萌はトウシューズを見つめる。
「……羨ましかった。」
誰もいない部屋で言った。
でも、それだけではなかった。
初めて莉央が舞台で踊る姿を見たとき、羨ましいと思った。悔しいとも思った。
ただそれでも、誰よりも綺麗だと思った。
それも本当だった。
萌はトウシューズを胸元に抱えたまま、静かに目を閉じた。
同じ頃、莉央も自宅に戻り、寝室の床に座っていた。
荷造りの途中だった。
開いたままのスーツケース、洋服、レッスンウェア、書類、英語の辞書。
その横に、小さなアルバムが置かれている。荷物を整理していて、偶然見つけたものだった。
莉央はページをめくる。
中学校、コンクール、高校。
そして、一枚の写真。
夕暮れの江の島の海、制服姿の三人。莉央、真奈美、そして萌。
三人とも笑っている。
莉央は指先で写真の萌に触れた。
「……馬鹿。」
誰に言ったのか分からなかった。
あの事故の後、莉央は一人でスクールへ戻った。
先生が言った。
「藤崎、始めるよ。」
いつも通り、何も変わっていなかった。
一つだけ違うのは、隣に萌がいなかったこと。
同級生が呼んだ。
「莉央、そこ空けて。」
萌の立ち位置だった。
莉央は返事ができなかった。
音楽が始まると身体は動いた。長年繰り返してきたものだから、何も考えなくても動いた。
それが怖かった。
萌があんな状態なのに。
自分の身体は昨日と同じように踊れる。何も変わっていない。
そのことがひどく残酷に思えた。
レッスンを終えた後、莉央は更衣室で一人泣いた。
誰にも言わなかった、萌にすら。
数週後、萌がスクールを辞めたと聞いた。
その日、莉央はレッスンを休んだ。
初めてだった。
母親には体調が悪いと言った。
嘘だった。
ベッドの上で天井を見ながら何度も考えた。
自分もやめればいい。
そうすれば、萌と同じところにいられる。
けれど翌日、莉央はまたスクールへ行った。
莉央は踊り続けた。
その次の日も。
そして今日に至るまで。
「……私だって、簡単だったわけじゃないよ。」
莉央が写真に言う。
けれど、レストランで萌の顔を思い出す。
笑おうとして、笑えなくなっていた顔。
自分は気づかなかった。
いや、気づこうとしなかったのかもしれない。
嬉しかった、やっと届いたから。ずっと夢だったあの場所へ。
だから、萌なら分かってくれると思った。
昔から全部知っている萌なら、一緒に喜んでくれると勝手に思った。
莉央は目を閉じる。
中学生の頃。
コンクールの舞台袖。
「行ってくる。」
自分が言った。
萌が答えた。
「行ってらっしゃい。」
あれから何度、自分は萌に送り出してもらったのだろう。
なのに、自分は一度でも、萌が進む道をちゃんと見ただろうか。
空港で働いていること。仕事を楽しいと言ったこと。後輩の話をするとき、少し誇らしそうだったこと。
それなのに自分は、気づけばまたバレエの話ばかりしていた。
「……ほんと馬鹿。」
莉央は呟いた。
スマートフォンを手に取る。
萌とのトーク画面を開く。
文字を打つ。
『今日はごめん』
止まる、消す。
もう一度。
『ちゃんと話したい』
また消す。
何を書いても違う気がした。
莉央はスマートフォンを伏せる。
そして、江の島の写真をもう一度見る。
あの頃は、自分たちの未来がどうなるか知らなかった。ただずっとこのままなのだと思っていた。萌がいて、真奈美がいて、自分がいて。
それが当たり前に続くと思っていた。
その人生が、たった一つの交差点で別々の方向へ分かれてしまうなんて、誰も知らなかった。
莉央はアルバムを閉じた。
部屋には、荷物が並んでいる。
小さいころからの夢だった。
それなのに、今夜だけはその夢が、少しだけ重く見えた。
二人の夜は、同じ過去の前で止まっていた。
________________________________________
翌朝
ー羽田空港第2ターミナルー
「先輩。」
返事がない。
「先輩?」
「……え?」
萌が顔を上げた。
カウンターの向こう側で、実優が不思議そうな顔をしている。
「これ、どっちでしたっけ?」
手には手荷物タグ。萌は一瞬それを見つめてから、ようやく意味を理解した。
「ああ……そっちじゃなくて、こっち。乗り継ぎあるから。」
「分かりました。」
実優は頷いた。
萌は端末へ視線を戻す。画面には、次の便の情報が表示されている。いつもなら一度見れば頭に入る内容だった。
けれど今日は、目で追っても文字がすぐに抜けていく。
昨夜のこと、莉央の顔。
『じゃあどうすればよかったの?』
何度も頭の中で繰り返される。
「……はあ。」
小さく息を吐いた。
「先輩。」
また実優だった。
「何?」
実優がじっと萌を見る。
「今日、元気ないですよね。」
萌は一瞬黙った。
「普通だけど。」
「普通じゃないです。だって普段の先輩は、私がこれ間違えたらもっと怒ります。」
「私を何だと思ってるの?」
「怖い先輩。」
「は?」
「ほら。」
実優が少し笑う。
萌もつられて笑いそうになったが、うまくいかなかった。
実優の顔から笑みが消える。
「……本当に大丈夫ですか?」
萌は端末を見る。
「大丈夫。」
答えは早かった。だからこそ、実優には大丈夫ではないことが分かった。
少し離れた場所から、多田が二人を見ていた。
「三浦。」
「はい。」
萌が振り返る。
「そろそろ休憩入れ、もう12時半だ。」
萌が時計を見る。
「田口も一緒に行ってこい。」
「はい。」
実優が答える。
萌は少しだけ眉を寄せた。
「2人で?」
多田は何でもないように端末へ目を落とした。
「何か問題あるか?」
「……ありません。」
「じゃあ行ってこい。」
萌と実優はカウンターを離れた。
その背中を、多田が何も言わずに見ていた。
ー社員休憩室ー
萌はテーブルの前で、コンビニのおにぎりを見つめていた。開封すらしていない。
向かいでは実優がサンドイッチを食べている。
一口、もう一口。
そして萌を見る。
「……何?さっきから見すぎ。」
「気になって。」
萌が眉を上げる。
「何が?」
実優はサンドイッチを置いた。
「先輩、絶対何かありましたよね?」
「ない。」
「あります。」
「ない。」
「ありますって。」
「ほんとしつこいね。」
実優は少しだけ笑った。
けれどすぐに真面目な顔へ戻った。
「仕事のことですか?」
萌は返事をしなかった。
「ご家族?」
「違う。」
「恋愛?」
「違う。」
「じゃあ友達?」
萌の手が止まる。
それを見て実優が「あ」と言った。
「友達だ。」
「……こういうときだけ鋭いよね。」
「観察は得意って言ったじゃないですか」
「それを仕事でも発揮してよ。」
「はい。」
少しの沈黙、萌は未開封のおにぎりを手に取った。開ける海苔を巻くと、一口だけ食べる。
「……昨日さ、昔からの友達と会ったの。」
自分でも、なぜ実優に話そうと思ったのか分からない。
実優は黙っている。
「小学生の頃から一緒にバレエやってた子なんだけど。」
実優の目が少し大きくなる。
「先輩、やっぱりバレエやってたんですか?」
萌が顔を上げる。
「やっぱり?」
「だって立ち方とか。」
「今はその話はいい。」
「あ、はい。」
実優は口を閉じた。
萌は少し迷ってから続ける。
「その子、今もバレエやってて。」
「プロなんですか?」
「うん、今度、イギリスのバレエ団に入ることになった。」
実優の表情が明るくなる。
「え、すごいじゃないですか!」
「……うん。」
その声を聞いて実優もすぐ察した。
萌は手元を見る。
「でも、昨日喧嘩した。」
「先輩が?」
「悪い?」
「いえ。想像できなくて。」
「私だって喧嘩くらいするよ。」
萌はしばらく黙った。
どこまで話すべきなのだろう。ずっと誰にも積極的に話してこなかったこと。
けれど、昨日から胸の中に詰まったままのものを、誰かに聞いてほしかった。
萌が口を開いた。
「私ね、高校のとき、事故に遭ったの。」
実優の表情が変わる。
「……え。」
「それで左脚怪我して、バレエ続けられなくなった。」
実優は何も言わなかった。
「今は普通に歩けるよ。走ろうと思えば走れる。でも、バレエは無理だった」
萌は小さく笑った。
「その子はずっと続けた。昔からすごく上手かったんだ。才能があった。」
「……そうなんですね。」
萌は窓の外を見る。
休憩室からは空港の一部しか見えない。
けれど、遠くで航空機の尾翼がゆっくり動いていくのが見えた。
「私は、自分がそこまで行けたなんて思ってない。プロになれなかったかもしれない。途中で諦めてたかもしれない。」
実優は黙って聞いている。
「でもさ自分で決めたかった。それが事故で強制終了みたいになって。」
実優が少しだけ視線を落とす。
萌は苦笑した。
「だから昨日、友達がイギリス行くってすごく嬉しそうに話してるの聞いてたら……駄目だった。羨ましいって彼女に言った。昔からずっと羨ましかったって。」
実優が顔を上げる。
「事故がなかったら、私だってまだ踊ってたかもしれないってさ。最悪でしょ?」
萌が笑った。
「私はそう思いませんけど。」
即答だった。
萌が顔を上げる。
「え?」
「最悪だとは思いません。だって本当に思ってたんですよね?羨ましいって。」
萌は答えられなかった。
実優は少し考える。
「私、バレエのこと全然分からないので、変なこと言ってたらすみません。」
「何?」
「先輩、その人のこと嫌いなんですか?」
萌は眉を寄せる。
「莉央を?」
初めて実優の前で名前を口にした。
「莉央さんっていうんですね。」
「……うん」
「嫌いですか?」
「そんなわけないじゃん。」
答えは考えるより先に出ていた。
実優が少し笑う。
「じゃあ、いいんじゃないですか?羨ましくても。」
萌には意味が分からない。
「いや、よくないでしょ。」
「なんでですか?」
「親友の夢が叶ったのに嫉妬してるんだよ?」
「でも、嫌いじゃないんですよね?」
「それとこれとは――」
「両方あってもいいんじゃないですか?」
萌が止まる。
実優は言った。
「嬉しいのと、羨ましいの。どっちか片方じゃないと駄目なんですか?」
萌は何も言えなかった。
そんなふうに考えたことがなかった。
嬉しいなら、喜ばなければいけない。親友なら祝福しなければいけない。嫉妬してはいけない。羨んではいけない。
ずっとそう思っていた。
だから、自分の中にある黒いものが、莉央への友情まで汚しているように思えていた。
実優はストローで紙パックのジュースを一口飲む。
「私なんて、友達が先に昇格しただけで普通に羨ましいですよ。」
萌が思わず笑う。
「スケール違いすぎない?」
「そうですか?」
「全然違う。」
「でも、その友達のこと嫌いになったわけじゃないです。いいなあ、悔しいなあって思うけど、おめでとうも本当です。」
実優は言う。
萌は実優を見る。
いつも頼りない、忘れ物も多い、すぐ慌てる。自分がいなければ大丈夫なのかと心配になる。
そんな後輩が、今は自分よりずっと簡単に答えを見つけているように見えた。
「……実優ってさ、たまにいいこと言うね。」
「ですよね?」
「調子乗らない。」
「はい。」
実優は笑う。
萌も、少しだけ笑った。
しばらくして実優が不意に尋ねた。
「その莉央さん、いつイギリスへ行くんですか?」
「来月って言ってた。」
「羽田からですか?」
萌は考えた。
「……分かんない。昨日、そこまで話す前に私が出てきちゃったから。」
「ああ……。」
実優は納得する。
それから何気なく言った。
「先輩、私たち、毎日やってるじゃないですか?」
「何を?」
「人を送り出すこと。」
萌の表情が止まった。
実優は続ける。
「旅行に行く人とか、仕事で海外行く人とか、家族と離れる人とか。」
萌は黙って聞く。
「いろんな人に『いってらっしゃい』って。」
その言葉、萌の胸の奥で何かが動いた。
中学二年生の時、暗い舞台袖の中、白い光へ向かう莉央。
『いってくる。』
そして、自分は答えた。
『いってらっしゃい。』
実優は首を傾げる。
「だったら、莉央さんにも言ってあげたらいいんじゃないですか?」
萌が実優を見る。
「ちゃんと笑えなくても、羨ましいままでも。だって私たち、そういう仕事してるじゃないですか。」
実優は照れたように笑った。
「実優。」
萌は何も言えなかった。
空港ー。
何千人もの人間が行き交う場所。
自分は毎日、知らない誰かを送り出している。搭乗券を渡す、荷物を預かる、搭乗口を案内する。
そして最後に、いってらっしゃいませと言う。
行き先も、旅の理由も、その先で何が待っているのかも知らない人たちへー。
「……そっか。」
萌が呟いた。
実優が首を傾げる。
「何ですか?」
「ううん。ありがとう、実優。」
萌は笑った。今度は朝より少しだけ自然に。
実優は目を丸くする。
「先輩からお礼言われた。」
「何?取り消すよ。」
「やめてくださいよ。」
実優は慌てる。
萌は笑った。
「はい。休憩終わり。」
萌は残っていたおにぎりを口に運んだ。
さっきまでほとんど味がしなかった。けれど今は、少しだけ塩の味がした。
カウンターへ戻った萌は、いつも通り仕事をした。
完全に気持ちが晴れたわけではない。莉央に言った言葉も消えない。昨日のことを思い出すたびに胸が痛む。
それでも朝とは違っていた。
「先輩。こちらのお客さま、ロンドンまでで合ってますよね?」
実優が呼ぶと萌が画面を見る。
「合ってるよ。」
「よかった。」
萌は苦笑する。
旅客がカウンターを離れるとき、実優が丁寧に頭を下げた。
「いってらっしゃいませ。」
その言葉に萌が少しだけ視線を向ける。
いってらっしゃい。
当たり前のように、一日に何百回も聞く言葉。
なのに今日は違って聞こえた。
________________________________________
午後5時47分
勤務を終えた萌は、ロッカールームで制服を脱ぎ、私服に着替える。髪をほどきバッグを持つ。
そして、スマートフォンを見る。
LINE通知が一件あった。
莉央だった。
萌の心臓が一度強く鳴った。
『昨日はごめん』
開くと短いメッセージがあった。
その下には文章が続いていた。
『ちゃんと話したくて』
さらに少し時間を置いて送られたらしい、もう一通。
『萌に言ってなかったこともある』
萌は画面を見つめた。
昨夜だったら、返事を書くまで何十分も迷ったかもしれない。
何を書けばいいか、どう謝ればいいか。考えて、考えて、結局何もできなかったかもしれない。
でも、今日は違った。
萌はトーク画面を閉じ、通話ボタンを開く。指が止まる。
実優の声が蘇る。
――ちゃんと笑えなくても、羨ましいままでも。
――言ってあげたらいいんじゃないですか。
萌は通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
1回、2回、3回―。
「……もしもし?」
莉央の声だ。
久しぶりでもないのに、なぜかひどく懐かしく聞こえた。
萌は息を吸う。
「莉央。」
「……萌?」
沈黙。
二人とも何を最初に言えばいいのか分からない。
萌は目を閉じた。
「昨日。」
同時に莉央が言う。
「昨日――。」
二人が止まる。
そして、どちらからともなく小さく笑った。
「莉央から言って。」
萌が言う。
「いや、萌から。」
「何それ?」
「そっちから電話してきたじゃん。」
少しだけ、昨日までの二人に戻った気がした。
萌はロッカーにもたれる。
「……ごめん。昨日、あんな言い方して。」
萌が言った。
今度は逃げなかった。
電話の向こうで莉央が息を吐く。
「私もごめん。」
「莉央は謝らなくていい。」
「それ昨日も言った。」
「そうだっけ?」
「言った。」
萌は苦笑する。
そして少しだけ間を置く。
「でも、昨日言ったこと、全部嘘じゃないから。」
莉央が黙る。
萌は続けた。
「羨ましい。」
言葉にする。昨日とは違う。
責めるためではなく、自分の気持ちとして。
「今も?」
「うん。多分、イギリス行ってからも羨ましいと思うと思う。」
電話の向こうで、莉央が小さく笑った。
「そこは変わらないんだ。」
「変わらない。」
萌も笑う。
「だって羨ましいものは羨ましいから。でも―」
萌はゆっくりと続ける。
「嬉しいのも本当だから。」
莉央が何も言わない。
「莉央が受かったってLINEが来たときさ、本当にすごいと思った。中学生の頃から言ってたこと、本当に叶えたんだって。」
喉の奥が少し熱くなる。
電話の向こうから、わずかな鼻をすする音が聞こえた。
「泣いてる?」
萌が尋ねる。
「泣いてない。」
「昔からそれ言うよね。」
「萌もでしょ。」
二人とも笑った。
今度は、昨日よりずっと自然に莉央が言う。
「私もね、萌に言わなきゃいけないことがある」
「何?」
萌の表情が少し変わる。
莉央の声が静かになる。
「事故のあと、私ずっと萌に申し訳ないと思ってた。」
萌は目を閉じる。
「それは莉央のせいじゃないじゃん。」
「分かってる。」
「だったら――。」
「でも聞いて。」
萌は黙った。
「萌がスクールを辞めてから、ずっと思ってた。なんで私は踊れてるんだろうって。」
莉央は続ける。
「何回もやめようと思った。」
「え?」
萌が顔を上げる。
莉央が言う。
「でも、やめられなかった。私も踊りたかったから。」
萌は黙る。
莉央の声が少し震えた。
「だから、萌に申し訳ないって思いながら続けた。」
電話越しに長い沈黙。
「イギリス行きが決まった時は本当に嬉しかった。でも萌に言うの、怖かった。」
萌の目に少しだけ涙が浮かんだ。
「馬鹿だね、私たち。」
「……うん。」
「お互い勝手に相手の気持ち決めて。」
莉央が笑った。
「本当だね。」
萌も笑うと、涙を指で拭った。
「いつ出発?」
少しの沈黙。
「来月の1日。」
「羽田?」
「うん。ロンドン行き。」
萌の呼吸が止まる。
その言葉、何度も見た行き先。自分の職場から毎日のように誰かが向かっている場所。
「ヒースロー?」
「うん。そこから移動する。」
萌は小さく息を吐いた。
「そっか。」
莉央が尋ねる。
「萌はさすがに仕事だよね?」
「その日はまだシフト見ないと分かんない。」
「そっか。」
わずかに寂しそうな声に、萌は少しだけ笑った。
「でも行くよ。ちゃんと見送りたいから。」
電話の向こうで、莉央が黙った。
萌が尋ねる。
「中学のコンクール覚えてる?」
「急に何?」
「舞台袖で莉央が『いってくる』って言って、私が『いってらっしゃい』って言った。」
莉央の声が少しだけ震えた。
「覚えてるよ……。」
萌は笑った。
「じゃあ、今度もそれでいいかな?」
夕暮れの羽田空港、窓の外で一機の旅客機がゆっくりと誘導路を進んでいる。
電話の向こうで、莉央はしばらく何も言わなかった。
やがて、短く答えた。
「うん、それがいい。」
萌は目を閉じる。
胸の中に残っているものが全部消えたわけではない。羨ましさも、悔しさも、あの日への未練も。きっとこれからも消えない。
それでも、それとは別に言える言葉がある。
いってらっしゃい。
それだけなら、今の自分にもちゃんと言える気がした。
________________________________________
2026年8月1日
午前8時3分
東京モノレールが地下の羽田空港第2ターミナル駅に到着した。
座席にい腰かけていた莉央は、大きなスーツケースを足元に置き、その取っ手を両手で握っていた。膝の上には小さなショルダーバッグ。
パスポート、財布、スマートフォン、必要なものは昨夜、何度も確認した。
それなのに朝からずっと落ち着かなかった。
ドアが開いた。
莉央は立ち上がり、大きなスーツケースを引きホームへ降りる。
その瞬間、胸の奥が一度だけ大きく鳴った。
改札を出てエスカレーターを上がると、空港独特の空気が広がる。
その時だ。
「莉央。」
聞き慣れた声に莉央が顔を上げる。
少し離れたところに萌が立っていた。
「……萌。」
莉央の表情が明るくなる。
「来るって言ったじゃん」
萌は笑った。
今日は制服ではない。半袖のデニムシャツにパンツスタイル。肩からバッグを掛けている。
莉央が近づく。
「仕事は?」
「半休とった。」
「え?わざわざ取ったの?」
莉央は目を丸くした。
「取れるって言われたから取っただけ。」
「絶対嘘!」
「本当よ!」
萌は莉央のスーツケースを見る。
「ていうかスーツケースでか!何キロ?」
「……聞かないでよ。」
「絶対超えてるじゃん。」
「計ったから大丈夫。」
「ほんとに?」
「たぶん。」
萌が笑う。
「それ、実優がよく言う。」
「誰?」
「後輩の子。」
「ああ。頼りない子ね。」
萌がスーツケースの取っ手を掴もうとすると、莉央が止めた。
「いいよ。持てるから。」
「別にいいって。」
「左脚。」
その言葉に萌が一瞬だけ止まった。
莉央も気づく。
「あ……。」
数秒、萌は莉央を見る。
「もう普通に持てるから。」
そう言って笑った。
莉央も小さく笑った。
「そっか。」
萌は無理にスーツケースを奪わなかった。
二人は並んで歩き始める。
「チェックインまだでしょ?」
「うん」
萌が先を歩くと、莉央はその後ろをついていった。
2人はANAの国際線チェックインカウンターに向かった。
頭上の案内表示には、
**LONDON / HEATHROW**
そして。
**ANA215**
出発時刻 **10:00**
莉央は表示を見上げる。
「……本当に行くのか。」
萌が横を見る。
「今さら?」
「なんか、ここ来たら急に……。」
「怖くなった?」
莉央は少し考える。
「……ちょっと。」
萌は意外そうに見る。
「莉央でも怖いんだ。」
「何だと思ってるの?」
「怖いものなんてない人。」
「あるよ。」
莉央は表示を見つめたまま言った。
「外国で生活するんだよ。」
「うん。」
「それにきっと周り、上手い人ばかりだろうし、私なんか全然通用しないかもしれない。」
萌は少しだけ笑った。
「珍しい、莉央が弱気なんて。」
莉央が睨む。
「帰ろうかな。」
「駄目!」
今度は萌が即答した。
「ここまで来たんだから行きなさいよ。ずっと行きたかったんでしょ?」
その一言に、莉央は黙る。
そして、はっきりと答えた。
「そうだよね。うん、私行きたい。」
萌も頷いた。
「じゃあ行きなよ。」
その言葉は以前とは違っていた。
羨ましさが消えたわけではない。悔しさもある。
きっとこれからも、莉央が大きな役を取れば、舞台で喝采を浴びれば、胸のどこかが痛むこともあるだろう。
でも、それでいい。
嬉しい気持ちと羨ましい気持ちは、一緒にあっていい。
「次のお客さま、どうぞ。」
カウンターから声がする。
萌がそちらを見る。
「あ。」
莉央も見る。
そこにいたスタッフがぱっと目を見開いた。
「先輩!」
実優だった。
制服姿でカウンターの内側に立っている。実優は萌の隣にいる莉央を見る。そして何かを察したように、実優の顔が一気に明るくなる。
「莉央さん!」
莉央が驚く。
「え?」
「初めまして、田口実優です!」
「初めまして……。」
莉央は萌を見る。
「何を話したの?」
「いや、ちょっとね……。」
実優が慌てる。
「大丈夫です。変なことは聞いてないですから。」
「実優!」
「あ。」
萌が額を押さえる。
莉央が笑った。
「なるほど。この子か。」
「何がですか?」
「頼りない後輩。」
実優が固まり、ゆっくり萌を見る。
「先輩……。」
「いいから仕事して。」
「はい……。」
実優は少しだけ頬を膨らませた。それからすぐにグランドスタッフの表情へ戻る。
「本日はロンドン・ヒースローまでですね?」
「はい。」
莉央がパスポートを渡すと実優が予約を確認する。
「ANA215便、午前10時発でお預かりしております。」
画面を確認し、パスポート、ビザ、渡航書類と一つずつ丁寧に確かめる。
萌は少し離れたところからその様子を見ていた。つい数か月前なら、実優が一人で国際線の旅客を対応しているだけで不安になっただろう。
けれど、今日は手を出さなかった。
実優がスーツケースを指す。
「こちらのお荷物をお預かりします。」
「お願いします。」
莉央が大きなスーツケースをベルトの上へ乗せる。
実優が重量表示を確認する。
「重量も大丈夫です。」
「よかった……。」
莉央が胸を撫で下ろす。
萌が呆れる。
「ぎりぎりだったでしょ。」
「200g余裕あったよ。」
「それ余裕って言わないから。」
実優が小さく笑った。
「それではこちら、お預かり――」
「あっ!」
突然、莉央が声を上げた。
萌と実優が同時に見る。
「待って!」
莉央が慌ててスーツケースをベルトから引き戻すと、床に寝かせてファスナーを開く。
萌が呆れて見下ろす。
「何忘れたの?」
「忘れたんじゃない!」
莉央は服の間へ手を入れると、奥から一足のトウシューズを取り出した。
萌の表情が止まる。
使い込まれていて、つま先には何度も舞台に立った跡が残っている。リボンも新品の白ではない。
莉央はそれを両手で持った。
「……これは、自分で持ってたい。」
莉央は少し照れたように笑う。
「預けたくない?」
「うん、これ履いてオーディション受けたから。」
トウシューズを見る。
萌は何も言わなかった。
「向こう着いたら新しいのに替えるけど。」
莉央は大切そうにそれをショルダーバッグへ入れる。
「最初だけは、一緒に行きたい。」
萌はその姿を見つめていた。
「……ちょっと待って。」
「え?」
萌は自分のバッグを開ける。その中から小さな紙袋を取り出した。紙袋に手を入れ、あるものを取り出した。
古びた一足のトウシューズだった。
莉央が息を呑む。
「……萌。」
高校生の頃のものではない。もっと前、中学生だった頃。
二人で同じスクールに通い、同じコンクールに出ていた頃に萌が履いていたものだ。
つま先には擦れた跡があり、リボンは少し黄ばんでいる。
莉央は何も言えなかった。
萌が笑う。
「中学のときの。」
莉央はゆっくり手を伸ばす。
「覚えてる。」
「嘘。」
「覚えてるよ。ほらこれ、リボンの縫い方が萌。」
二人が笑う。
実優はカウンターの向こうで、静かにその様子を見ていた。
萌はトウシューズを見下ろした。
「昨日ね、久しぶりに履いてみようかなって思った。片方だけでも、馬鹿だよね。」
萌は少し笑う。
莉央は何も言わない。
「足入れたら、やっぱり痛かった。昔みたいには、もう履けなかった。」
萌は自分の左脚を見る。
萌の声には、以前のような棘はなかった。
ただ事実を語っていた。
「でもさ、不思議なんだよね」
萌はトウシューズを見る。
「何が?」
「前だったら、履けないって分かったら、多分泣いてた。」
莉央は黙って聞く。
「昨日は、そうか、履けないかって思っただけだった。」
萌は少しだけ笑った。
莉央の目が少しだけ揺れる。
萌は続ける。
「もう私は踊らない。」
一度息を吸うと莉央を見た。
「でも、踊ってたことまでなくなるわけじゃないんだなって。」
莉央は何も言わなかった。
言えば泣きそうだった。
萌はトウシューズを紙袋へ戻す。
「だから持ってきた。」
「どうして?」
「見せたかった、ただそれだけ。」
莉央は疑うように萌を見る。
「くれるのかと思った。」
「やだよ、私のだから。」
即答だった。
莉央が笑う。
「そっか。」
「うん。」
萌も笑った。
二人の手には、それぞれのトウシューズがあった。
一つは、これからも舞台へ立つためのもの。もう一つは、もう舞台へ立つことのないもの。
それでも、どちらも二人が確かに踊っていた時間の証だった。
実優が少し遠慮がちに声をかける。
「お荷物、お預かりして大丈夫ですか?」
莉央が笑う。
「はい。」
再びスーツケースをベルトへ乗せる。タグが取り付けられる。
実優が搭乗券を差し出す。
「搭乗口には、出発時刻の20分前までにお越しください。」
「ありがとうございます。」
莉央が受け取る。
実優は一度だけ萌を見る。
萌が小さく頷く。
実優は莉央へ向き直った。
「いってらっしゃいませ。」
莉央の表情が少しだけ止まる。
そして笑った。
「いってきます。」
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午前8時44分
ー保安検査場前ー
いよいよここから先は、搭乗客しか入れない。
萌と莉央は、しばらく何も言わず向かい合っていた。
こういうとき、最後に何を言えばいいのだろう。
頑張って、元気で、またね。
どれも違う気がした。
莉央が小さく息を吸う。
「萌。」
「何?」
「私。」
一瞬、言葉が止まる。
「いってくる。」
その瞬間、萌の目の前から空港が消えた。
暗い舞台袖、黒い幕、白い衣装。
中学二年生の莉央。
舞台へ向かうその背中。
『いってくる。』
あの日と同じ言葉。
萌は笑った。
「うん、いってらっしゃい。」
莉央も笑った。
目には少しだけ涙が浮かんでいる。
「莉央、泣いてる?」
萌が言う。
「泣いてない。」
「絶対泣いてる。」
「萌もでしょ。」
「泣いてないから。」
二人とも笑った。
「莉央!」
その時人混みの向こうから、聞き覚えのある声がした。
二人が同時に振り返る。
少し離れた場所から、一人の女性がこちらへ向かって早足で歩いてくる。
「……真奈美?」
莉央が目を見開いた。
山口真奈美だった。
二人のところまでやって来ると、真奈美は小さく息を切らしながら、まず腕時計を見る。
それから莉央を見る。
「……間に合った。」
心底ほっとしたように言った。
萌が驚く。
「真奈美、仕事は?」
「大丈夫、ちゃんと調整してきた。」
真奈美はバッグの肩紐を直す。
「昨日、上司に事情話して、午前の担当を少し替わってもらったから。」
「そんなことしてまで来たの?」
莉央が尋ねる。
真奈美は一瞬不思議そうな顔をした。
「だって今日でしょ?」
「……今日だけど。」
「なら来るよ。」
あまりにも真っ直ぐに言われて、莉央は言葉を失った。
真奈美はそういう人間だった。
自分の仕事はきちんとする。誰かに迷惑を掛けることも嫌う。だから、来られないのなら来ない。
けれど、来ると決めたのならできる方法を探す。
友達だから。ただそれだけで。
昔と同じだった。それだけで胸の奥が少しだけ温かくなった。
真奈美は、改めて莉央を見る。
「……本当に行くんだね。」
「うん。」
「ずっと言ってたもんね。」
莉央が少し驚く。
「覚えてる?」
「覚えてるよ。」
真奈美は少し笑った。
「すごいね。」
それは飾りのない言葉だった。
莉央は首を小さく横に振った。
真奈美は何かを言おうとする。
けれど言葉が続かない。
「何?」
莉央が尋ねる。
「いや。」
「言いたいことある顔してる。」
「あるけどさ、こういうの苦手なんだよね。」
真奈美は少し困ったように笑った。
萌が吹き出す。
「真奈美らしい。」
莉央が言う。
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ。」
真奈美は一度だけ息を吸った。それから余計な言葉を探すのをやめた。
「莉央、頑張ってきて。」
真っ直ぐだった。
莉央の目が少しずつ潤んで来た。
「真奈美」
「何?」
一歩近づく。そのまま真奈美を抱きしめた。
「……え。」
真奈美は少しだけ迷ってから、莉央の背中へ腕を回した。
「……元気でね。」
小さな声だった。
「うん。」
真奈美はまだ離さなかった。
莉央が笑いながら聞く。
「真奈美?」
「あ。」
ようやく離れる。少し照れたように視線を逸らした。
萌がニヤニヤしている。
「何?」
「真奈美って意外と寂しがりなんだね。」
「違うから。」
莉央も笑う。
真奈美は二人を見る。
そして何かを思い出すと、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「写真撮ろ。」
萌が顔を上げる。
「今?」
「今!」
真奈美は言った。
その言葉で、萌の中に高校時代の江の島が蘇った。
あの時も真奈美が言った。
――写真撮ろう。
萌が小さく笑う。
真奈美は近くにいた女性に声をかけた。
「あの、すみません。もしよかったら、一枚だけ写真お願いできますか?」
「あ、もちろんです。」
相手と二言三言交わし、すぐに笑顔になる。
スマートフォンを渡し、三人が並ぶ。
萌、莉央、真奈美。
肩が触れる、高校時代と同じ三人。
けれど、もうあの頃とは違う。
萌は空港で働き、真奈美は管制官になり、莉央はこれからイギリスへ行く。
それぞれ、まったく違う道を歩いている。
「撮りますよ。」
女性が声をかける。
三人が笑う。
シャッター音が鳴る。
「ありがとうございます。」
真奈美はスマートフォンを受け取ると写真を確認した。
「どう?」
莉央が覗く。
「いいんじゃない?」
萌も見る。
「真奈美、ちょっと顔固いよ。」
「……あ、本当だ。」
「もう一回撮る?」
「いや、いい。これも思い出だから。」
真奈美は写真を見ると少しだけ笑った。
萌と莉央が一瞬黙る。
それから莉央が笑った。
「やっぱり真奈美だね。」
その言葉に、三人は顔を見合わせて笑った。
莉央が腕時計を見る。
もう行かなければならない。
莉央の表情が変わる。
「……そろそろ。」
真奈美も時計を見る。
少し寂しそうだった。
それでも。引き止めることはしない。
莉央が萌を見る。
そして、真奈美を見る。
萌と真奈美も真っ直ぐその目を見る。
一瞬、泣きそうに表情を揺らした莉央は、それでも小さく笑った。
「じゃあ、行ってくる。」
萌が答える。
「いってらっしゃい。」
真奈美も少し遅れて言った。
「いってらっしゃい、莉央。」
莉央は頷き、保安検査場へ向かって歩き始める。
数歩、それから振り返る。
萌が手を振っている。
真奈美もすぐに手を上げる。さっきまで少しぎこちなかったのが嘘のように満面の笑みだった。
莉央は笑って手を振った。
そして今度は振り返らず、ゲートの向こうへ消えていった。
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午前10時7分
ANA215便、ロンドン・ヒースロー行き。
機体はゆっくりとスポットを離れた。
窓際の席、莉央は機窓の外を見つめている。
ターミナルが少しずつ遠ざかる。
駐機している航空機、管制塔、誘導路、見慣れた東京の風景。
機体は滑走路へ向かう。
莉央は膝の上に置いたバッグへ手を添えた。
中にはあのトウシューズが入っている。
オーディションを受けた靴。日本で最後まで踊った靴。
そしてこれから、イギリスへ一緒に渡る靴。
エンジン音が高まると、身体がシートへ押しつけられる。
機体は加速し地面が離れた。
羽田空港がみるみる小さくなる。東京の街が模型のように遠ざかっていく。
莉央は窓に額を寄せた。
その目に映っていたのは東京の景色だけではなかった。
鏡張りのレッスン室、ピアノ、まだ幼かった自分。
その隣には萌がいた。
「莉央、そこ足違う。」
「萌のほうが違う。」
「違わないし。」
笑い声。
コンクールの舞台袖。
「緊張してる?」
「してない。」
「嘘。」
「うるさい。」
白い照明、舞台。
そして。
「いってくる。」
「いってらっしゃい。」
夕暮れの江の島、三人で撮った写真。
そして、萌がいなくなったレッスン室。
それでも、自分は踊った。
今日にいたるまで、何度も何度も何度も。
莉央はバッグを開く。
トウシューズのリボンへそっと触れた。
機体は雲の上へ出ると、白い光が窓いっぱいに広がった。
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ー羽田空港展望デッキー
萌は、遠ざかっていく機影を見つめていた。
隣には真奈美。
風が強い、髪が揺れる。
「見えなくなったね。」
真奈美が言う。
「うん。」
萌は空を見たまま答えた。
莉央を乗せたANA215便は、もうほとんど見えなかった。ただ青い空だけが広がっている。
真奈美は何も言わず、同じ空を見ていた。
「……萌。」
少しして真奈美が呼ぶ。
「何?」
一度やめた。
萌が横を見る。
「大丈夫?」
萌は少し驚いた。
真奈美は空を見たままだった。直接顔を見るのが少し照れくさいのかもしれない。
萌は答えた。
「うん、ちゃんと見送れた。」
「そっか。」
真奈美はそれだけ言った。
萌はもう一度空を見る。
「私ね、大丈夫だと思う。」
真奈美が萌を見る。
「何が?」
「いろいろ。」
萌が答えると、2人は再び空を見上げた。
昔、私は舞台に立つ人になりたかった。
照明の真ん中に立って、音楽に合わせて踊って、拍手を浴びる人に。
でも、なれなかった。
ずっとそれを、私は失った人生だと思っていた。
あの事故の日から、私の人生には。何かが足りないのだと思っていた。
でも違った。
踊れなくなっても、バレエが私からなくなったわけじゃない。
背筋を伸ばすことも、歩くときの癖も、物を拾う仕草も、音を聞けば身体が覚えていることも。
全部、今の私の中に残っている。
あの頃の私が、今の私をつくっている。
そして、私は今、空港にいる。
毎日、誰かを迎えて、誰かを送り出す。
夢を叶えに行く人も、大切な人に会いに行く人も、新しい人生を始める人も。
私は、その人たちの旅立ちに立ち会う。
あの時、私は舞台袖から莉央を送り出した。
今日、私は空港からもう一度、莉央を送り出した。
それでいい。
きっと、私には、私の立つ場所があるから。
――いってらっしゃい。
私の親友、プリンシパル。




