義賊判事
antithesis
短編小説「義賊判事」
第一節 「正義執行」
「これより、裏裁判を開廷する。」
私の声は、ひび割れたコンクリートの壁に
反射し、無機質な余韻を残して消えた。
被告人は当惑している。当然の反応だろう。数日前、彼は無辜の市民を惨殺した事実を、心神喪失で塗り潰し、無罪放免を掴んだはずだった。国家が認めた自由の身。
そのはずの彼が、深夜の閉塞的な廃工場。
錆びついた椅子に縛り付けられている。
「被告人に対する殺人、住居侵入、および偽証の罪について審理を行う。法条検察官、起訴状を朗読してください。」
「起訴状を読み上げます。被告、萩田和夫。令和六年八月二日、一方的な執着を抱いた被害者宅へ侵入し、これを殺害。地裁の懲役十二年判決を不服とし、高裁において狡猾な演技をもって責任能力の欠如を捏造、司法を欺き、無罪を勝ち取った。本廷はこれら一連の行為を、万死に値する冒涜と断ずる。死刑を求刑する」
「利則弁護人、反論は?」
反対側に立つ男が、短く応じる。
「被告の更生は到底見込めず、情状酌量の余地も皆無です。本職としても、死刑が妥当であると判断します」
被告人は罵詈雑言を吐き散らす。
それもそうだろう。
この空間において、裁判長も、検察官も、そして弁護人でさえも、全員がお前の敵なのだから。
「静粛に」
弁護人が、流れるような動作で被告人の膝にナイフを突き立てた。絶叫が工場の天井を叩く。
その苦悶の表情を、無罪判決に打ちひしがれた遺族にみせられないことが無念である。
「判決を言い渡す。被告人を死刑に処す。正義は、即時執行される」
手元のスイッチを押す。
ガタン、と重苦しい音が響き、被告人席の床が消失する。
鈍い衝撃音が聞こえるまでの七秒間、時計の針を凝視していた。
父ならば、この七秒の誤差すら手続きの瑕疵として咎めるのだろうか。
業務終了だ。
精神病院に入院する心神喪失者の行方不明など、単なる脱走からの野垂れ死としか扱われないだろう。
疑わしきは罰せず。
法曹界において最も遵守されるべき原則。
冤罪は確かにあってはならない。
しかし、天文学的な確率を持ち出せば、現在刑に服している者にどこまでこの原則は適用されるのか。
本当に文字通りゼロにしなければならないのであれば刑法犯への懲罰をなくさなければならないだろう。
結局このような論理は我々の塩梅で調整しなければならない中途半端なものである。
そのくせ、稀に目の前の巨悪を裁くことを妨げてくる。
オモテの裁判官である間はもどかしい。空疎な論理で御託を並べなければならないのだから。
私の名は正道衡平。
疑わしきは罰せずというバグによって放流された濁悪に対して、裏裁判を通して真の裁きを与える。
同志を集め、入念な調査を行い、完全なる黒と確証を得た時、被告人をこの影の法廷へと召喚する。
殺人、強盗、強姦、児童への加害、動物虐待。
この三年間で、私は二十四体の世に在ってはならないモンスターを討伐した。
同業者が知ったらどのような論理で糾弾するのだろう。
しかし、何であれ実利と正義に基づいているのは私だ。
執行を終え、自宅の敷居をまたぐ。
靴を揃え、廊下を左折して仏壇の前へ座り、父に正義の執行を報告する。
俺の父は、率直に言って、愛せるような人間ではなかった。
門限にわずか七秒遅れただけで冬のベランダに放り出された幼少期。
道端の百円玉を拾えば遠方の交番まで歩かされた。
裁判官ゆえの職業病か、あるいはただの偏屈か。
俺が十一歳の時、あの豪雪の夜、父はひき逃げ事故に遭った。
犯人は逮捕されたが、不起訴という不条理な結末。
その論理は、当時の俺が理解を拒んで然るべき内容だった。
だが、死の淵にいた父は、信じがたいことに、その裁定に満足げに頷いたのだ。
なぜだ。自分を殺そうとした怪物が野放しにされることを、なぜ公正な司法判断として受け入れられる?
父は2日後、その不可解な納得と共に息を引き取った。父権に反抗する機会すら与えられずに。
以来、俺は父と同じ道を歩むために、ただ狂ったように学業に励んだ。
都内の名の知れた大学に進学し、司法試験をパスし、ついに法曹界にたどり着いた。
断じて念願ではない。無機質な論理に付き合わされるだけの拷問だ。
今ならわかる。
父さん。あなたは法という名の鳥籠に監禁されていたんだ。
だから、俺が見せてやる。
あなたが成し遂げられなかった真実の裁きを。俺があなたの代わりに、この世界の歪みを矯正してやる。
第二節 「人畜平等」
私は猫を愛でる。
人間社会の喧騒に背を向け、ただ己のサイクルにのみ忠実に生きる
その習性は私の理想とする至高の在り方である。
激務の傍ら、自宅で命を預かるのは酷であろう。
ゆえに休日に猫カフェで無責任で無条件な愛を注ぐ。
そこでのひと時だけは、不条理で堅苦しい法曹界の憂鬱を忘れ、純粋な愛のみを注ぐことに注力する。
ある日、動物愛護法違反の公判を担当した。
被告人は猫に凄惨な加害を加え、その苦悶を愉しむという、吐き気を催す外道であった。
逆鱗の上でタップダンスを踊られているに等しい。
だが、人間社会の方によると、ヒトと畜生の間には、超えられぬ生命の価値の断絶があるという。
被告人には執行猶予が付き、釈放された。
裏裁判の出番である。
廃工場の椅子で目を覚ました被告人は、絶句していた。
法条検察官は死刑を求刑し、利則弁護人はこれに深く同調する。
だが、私が下した判決は、通常通りの
死刑ではない。
「同害報復を言い渡す。貴様が小さき命に強いた絶望を貴様の肉体をもって清算する」
私は、彼が猫をいたぶったのと全く同じ手法を選択した。
私は無言で、被告人の顔面と胴を殴り続けた。
鈍い打撃音が工場に反響する。
私の拳は青く変色し、皮膚が裂けた。だが、不思議と痛みは感じない。
拳に痛みを感じているうちは、相手への情が付け入る隙を与える。
相手が動かなくなったのを見届け、私は仕上げのスイッチを押す。
重い衝撃音が響いた直後、拳に激痛が突き刺した。
困ったな。
おかげで、明日は猫を撫でることが叶わなくなったではないか。
第三節 「無垢で穢れた瞳」
「判決を言い渡す。証拠不十分により、被告人を無罪とする」
オモテの裁判官としての、
形式的で空虚なアナウンス。
被告人の弁明は、推理小説の読みすぎた子供のような稚拙なものだ。
窃盗目的で住居に侵入したところ、すでに老婆は何者かに刺殺されていたという。
短時間に二度の強盗被害? 統計学的な奇跡でも起きない限り有り得ない話だ。
しかし、法的観点とやらに則り、私は無罪を宣告せねばならない。
被告人は安堵の涙を流し、遺族の表情は絶望に凍りつく。
私は黒い法衣の中で拳を握る。
裏裁判の出番だ。
だが、私の帳簿には裁くべき悪が積み上がっている。迅速に済ませる必要がある。
私は独自の調査を経て、彼を影の法廷へと召喚した。
検察官は死刑を求刑し、弁護人もこれに同調する。
椅子の上で、青年は獣のように泣き叫んでいた。
「やってない、僕は何も知らないんだ!」
二十四回繰り返された、聞き飽きたノイズ。
司法試験を突破するために暗記した数多の条文、父が命を削って守った適正手続きの原則。
それらがいかに脆弱で、真実を捉え損ねるかを私は知っている。
私は青年の瞳を見つめる。そこにあるのは無垢な恐怖ではない。虚実にまみれた、卑怯な揺らぎだ。
「判決を言い渡す。被告人を死刑に処する。刑は、即時執行される」
迷いなくスイッチを押した。
五秒。鈍い衝撃音。
いつも通りの、完璧な業務執行。
帰路につき、自宅の敷居をまたぐ。
揃えたはずの靴を見る。
右足が一センチだけ、外側を向いている。
揃わない。どうしても、揃わない。
指先が震え、革靴の冷たさが指に刺さる。
廊下を左へ曲がり、正義の報告を行うために仏壇の前へ座る。
その瞬間、背筋をかつてないほどの寒気が走り抜けた。見上げた父の遺影が、不自然に曇っている。
眼を擦った。曇っていたのは、
私の眼の方だった。
目を擦る。コンタクトがずれた。
その後の食事中、我が眼を疑った。
テレビが報じる、強盗殺人事件の真犯人逮捕のニュース。
俺は、無辜の人間を殺したのか。
あの少年の無垢な瞳が、脳へ烙印される。
窮地に立たされた時、心の中に天使と悪魔が現れるという表現がある。
俺の中にも、自首を促す声と、看過を促す声が響き始めた。
どちらが天使で、どちらが悪魔なのか。
看過を促す声は囁く。
『お前にはこれからも正義を執行し、法の網から漏れる二次被害を防ぐ責任がある。ここで止まることこそが最大の罪だ』
嗚呼、理にかなっている。俺を肯定しつつ、未来志向的に正義を語ってくれている。
自首を促す声が反論する。
『裏裁判が消滅することによる被害など知ったことか。自首することこそが道義的責任だ。』
予測される被害者を見捨てろというのか。まさしく悪魔の所業である。
俺は常に正義の側に立っている。
ならば、前者の声こそが天使の福音だ。これからも裏裁判を続け、より多くの悪を葬ること。
それこそが、この誤差に対する唯一の贖罪であり、償いなのだ。
そもそも、奴は強盗目的で侵入したと言い張っていたではないか。殺害していなくとも、
いずれは別の罪を犯し、誰かを不幸にする種だったのだ。
私は結局、間違えてなどいなかった。
自己の悪魔を粛清した。
私は仏壇に向かって、深く、長く首を垂れた。
曇っていた視界が、透明に晴れ渡っていくのを感じながら。
第四節 「第零審」
裏裁判の会議室には、重苦しい沈黙が充満していた。
私の左右に控えるのは、二人の忠実な執行人だ。
利則は単純で、強靭な男だった。ネットで炎上した悪を率先して叩き潰すことに、一点の疑念も抱かない。
私は彼の陰湿さを買ったのではない。一騎当千の武。
被告人の意識を速やかに断ち、拉致するという裏裁判の必要条件を満たす稀有な人材だ。
彼は共感と称賛だけで、喜んで正義の従刃となった。
一方で法条は私の合わせ鏡だった。現役の検察官として司法の論理を知り尽くしている。
数年前、彼は逆恨みによって家族を惨殺され、その犯人が心神喪失により野放しにされる絶望を味わった。
これほどの不条理を経験しながら、なおも法的機制に拘泥できる人間はいないだろう。
…俺の父を除いて。
裏裁判における最初の受刑者はその犯人だった。
彼に顛末を明かしたあの日から、法条もまた私の正義に魂を売った。
だが、今回のハプニングに対する彼らの反応は対照的だった。
私は昨夜のくだらない葛藤と、そこから導き出された素晴らしき結論を雄弁に語った。
利則は、首を激しく縦に振った。
常人ならば脳震盪でも起こしかねない勢いである。
しかし、法条の眼には迷いがあった。
「正道さん……我々は、本当に間違っていないのでしょうか」
その甘さが、致命的な空白を生んだ。
法条の動揺を汲み、裏裁判は二週間の活動停止を決定した。
その静寂の十三日目、私は奈落を覗くことになる。
次に裁くはずだった候補者が、通り魔殺人で逮捕されたのだ。
もし。もし我々が止まっていなければ、あの被害者は死なずに済んだ。
確信を得た。裏裁判の正義は普遍的であり、それは神託によって保障されている。
裏裁判を止めた法条を責めることはしない。
彼は必要不可欠な執行者であり、償いは更なる参画をもってなされるべきであろう。
裏裁判開廷前夜の会議。法条の眼から迷いは消え、底なしの虚無が宿っていた。
利則の眼は充血し、正義を渇望する神獣へと変貌していた。
一人の無辜を殺し、一人の悪を野放しにした。
その罪を償う方法はただ一つ。足を止めず、より苛烈に、より迅速に、この世の澱を間引くこと。
この決意はもはや、個の犠牲という次元を超克していた。
第五節 「七秒」
我々は、やりすぎたのかもしれない。
10年間で、百名を超える無罪放免者が煙のように消えた。
自己の飽くなき正義は、違和感を覆い隠すには十分すぎたが、世界はそれほど愚かではなかった。
一人ひとりの行方不明に対する人々の関心は、数分と持続しない。
しかし、似たような行方不明事案が毎週のように報じられれば、エコーチェンバーをもってしても説明はつかない。
ネットの海には政府による極秘拉致や光の戦士による制裁といった陰謀論が毒々しく渦巻き、公安当局が、日本各地で捜査を展開することとなった。
精神病院や無罪判決を受けた者への警護は厳格化され、国家はあからさまに加害者を庇護し始めた。
我々の正義執行の対象は凶悪殺人犯よりも、警護の対象外であるいじめ主犯や性加害者などのマイナーな犯罪者がウェイトを占めるようになる。
……そろそろ、この裏裁判も潮時だろう。
「これより、裏裁判を開廷する。これが最後の開廷である。」
俺の宣言が、冷たい廃工場に響く。
被告人は目を覚ますと一瞬、瞳孔を大きく開いたが、そのあとは不気味なほど大人しかった。
目の前に座るその翁こそ、俺が数十年間追い求めた、父を殺したひき逃げ犯であった。
いつも通り、法条は死刑を求刑し、利則は利益相反を行う。
この歪な正義の茶番劇も、今日で見納めか。
だが、憎き被告人は沈黙を保ったままだ。
俺は裏裁判の歴史上初となる被告人質問を執り行った。通常の裏裁判の風景は、とっくに見納めていたのだ。
しかし、男の口から漏れた供述は、聞くに値しない言葉の羅列だった。
自己保身から始まる形ばかりの謝罪。
視界を遮り、制動距離を引き延ばした豪雪への責任転嫁。
救護行為への意思の主張などの当て逃げの否定。
自己を正当化するために杜撰なロジックを展開する。
情状酌量はなし。
父が肯定し、守ろうとした法が、この男をのさぼらせた。
俺は判決を言い渡すという手続きさえも、未練もなくスキップした。
ボタンを押す。
二秒。 鈍い衝撃音。
我々は無言のまま、正義の執行場をただの薄汚れた廃工場へと戻し、そこを去った。
第六節 「第一審」
帰路につき、いつものように敷居をまたぐ。右、左。完璧に靴を揃える。
愛する娘が玄関まで駆け寄ってきた。屈託のない笑顔が裏裁判で触れてきた濁りを忘れさせてくれる。
ふと見ると、揃えたはずの靴の片方が、娘の足に当たったのかわずかに倒れていた。
娘が「はい、パパ」と言ってそれを整えてくれる。
家族とは、なんと温かく、そして強固な衡平の上に成り立つものか。
飼い猫は、相変わらず主人の帰りに無頓着なまま餌を貪る。
仏壇の前で、沈黙を守る父に最後の手向けを捧げる。
正義はすべて終わった。明日からは、正真正銘の表の裁判官として、臥薪嘗胆の判例の反復に身を投じる。
だが、私にはすでに百を越える悪の討伐により徳が積まれている。
神も仏も、この程度の逸脱は許してくれるだろう。
娘を寝かしつけ、妻と他愛もない世間話をする。その日常の静寂の中で、私は決意した。
あの廃工場の記憶は、誰にも告げず墓場まで持っていくのだと。
しかし、墓場から這い上がってきたのは、過去だった。
数か月後。私が座るべき裁判官席の反対側、被告人席にいたのは私自身だった。
喧騒を撒き散らす被告人ではない。罵倒を浴びせる遺族でもない。
ただ、冷徹に法を司る立場であったはずの私が、鉄格子と手錠の冷たさを味わっている。
裏裁判が、墓場から掘り起こされたのだ。
原因は、あの翁を仕留め損なったことだ。
2秒という落下時間。思い返してみれば初回は8秒近くあったか。
重なり合った死体が皮肉にも翁の衝撃を緩和した。
彼は意識を取り戻した後、かつて自分が殺した者たちの四肢を、顔を、冷たくなった肉塊を踏み台にして山を登ったのだ。
そして、死体の一人が指にはめていたダイヤモンドの指輪を拝借し、老朽化し脆くなった天井を穿った。
悪人の死体を使って、悪人が生還する。
これ以上の皮肉が、この世にあるだろうか。
逮捕から10年間。私は正道衡平の名にふさわしく、自らの余罪を淡々と供述し続けた。
計124件の殺人。
そのうち104件が再調査により我々による「被害者」が各々の事件の「加害者」であると認められた。
17件は我々が提示した証拠をもってしても証拠不十分との判断。
3件は我々の正義の執行による尊い犠牲ということだ。
世間の反応は様々であった。
正義に酔いしれたモンスターと糾弾するものから、義賊として讃える者まで様々だ。
しかし、3名の尊い犠牲を許せない者が多すぎる。
我々による正義の執行がなければその10倍以上の人間が被害者となっていいただろうに。
それでもこれだけの連続殺人は世論の一大関心事となることは必然である。
民意と司法の乖離を是正するために地裁と高裁で陪審員制度の導入が計画されているらしい。
遺族が不条理な判決に苦闘することを減らせる。
我々の正義は無駄にはならなかった。
利則は「俺たちは英雄だ」と法廷で喚き散らし、唾を吐いた。
法条はただ、燃え尽きた灰のような瞳で床を見つめていた。
私は、自分たちが下される極刑という判決を、至極真っ当なものとして受け入れた。
腐りきった司法において、124人を殺せば問答無用で極刑になる。これが相場だ。
独房での数年間、私の心は驚くほど
澄み切っていた。法条は獄中自殺を図り、
利則は獄中で毎日暴れる。その傍ら、私は我々を崇敬する支援者からの差し入れを楽しみながら矜持を保つ。
毎日、定刻に食事が運ばれ、定刻に電気が消える。手続きは常に厳格で、誤差はない。
しかし、家族が面会に来ることはなかった。
ついに、その朝が来た。
拘置所の長い廊下を歩きながら、かつて自分が被告人たちに強いた恐怖を自己に問う。
だが、見つかるのは奇妙な高揚感だけだ。
踏み板の上に立つ。
首に縄がかけられる感触。私の人生において、これほど正しい手続が行われる瞬間が他にあっただろうか。
「執行」
ボタンが押される。
ガタン、と足元が消える。
落下。
二秒。
翁と同じ時間。
頸椎が折れる。
私は重力とともに、真っ白な虚無へと堕ちていった。
第七節 「自覚なき醜悪」
光だ。俺は仕留め損なわれたのだろうか。
現代の絞首刑において、生還例などあり得ない。ましてや、俺は通常的な体格の、首の太くない一般男性だ。
首椎は確かに断裂した。脳が意識を引き延ばしているのか。
……驚いた。世界には無数の宗教があり、その説法や教化において死後の世界という概念は人心を掌握する過程で極めて重要な装置として機能してきた。
理性的に考えて、死後の世界はなく、無に帰すのが自然な結論だろう。
まさか、我々に最も馴染み深い仏教がドンピシャで死後を言い当てているとは。
ならば話は早い。濁悪の司法、その空疎な論理が支配する現世とは違い、
こちら側では実利に基づいた純然たる正義を正当に評価してくれるだろう。
とすれば、俺は父に会える。
法曹という不条理な鎖から解き放たれた父は、私をどう迎えてくれるだろうか。
家族は六文銭を用意してくれなかった。無理もない。戦後最悪の連続殺人犯の家族として世間に陥れられたのだ。
いずれ家族がこちらへ来たとき、最愛の家族から拒絶されるだろう。
それだけが極楽浄土における唯一の懸念であった。
官吏の指示に従い、河に入水する。水は深く、足首を掴むような冷たさがあったが、私には確信があった。
三途の河でくたばるなど、システムが許すはずがない。
向こう岸に辿り着き、一息つこうとしたその刹那、身体が宙に舞った。
老婆が、私のぐっしょりと濡れた衣を無慈悲に剥ぎ取ったのだ。
俺は理知的な部類の人間である。正当な手続きとして一言断られれば、脱衣を厭うことはない。
老婆は、隣に座る翁に私の衣を渡し、それを枝に掛けようとした。
――バキリ。
枝が折れた。翁は忌々しげに、別の太い枝に移し替えた。
――メキ、バキリ。
また折れた。手間取ってやんの。
死後の番人といえど、単純作業もままならぬのか。
強引な老夫婦へのささやかな報いることができて、俺は愉快を覚えた。
その後、ある官吏には盗みを、ある官吏には不貞を問われた。
否定する間もなく先へ通される。私が潔白な人間であることが、次々と証明されていく。
四七日。
生前、嘘をついたかという質問には、流石の私も苛立った。
俺に限って、あり得ない。常に真実を、正義を、そして父の遺志とともにあった。
そのような不誠実な行いは、父への冒涜に他ならない。一点の曇りもなく否定した。
官吏は様々な鏡を用いて私を調査したが、
やがて苦虫を噛み潰したような表情とともに
「…かまわん。次へ行け」とだけ発し、私を送り出した。
通行人曰く、次に会うのは閻魔大王であるという。
俺は期待に胸を躍らせていた。私は如何様に評価されるのか。
五七日。
広大な広間の奥から、どこか懐かしく、そして骨身に沁みる声が響いた。
「自分に対してのみ、偽り続けた者がいると聞いた」
そうだ。俺は法の論理を承諾した体で本職の裁判に臨み、その裏で真実の鉄槌を下してきた。
顔を見上げたその瞬間、抽象語が巡っていた俺の脳内は、抽象の究極体である純白に塗り潰された。
・・・そこに座していたのは、当て逃げに倒れた、俺の父だった。
第八節 「第二審」
底の見えぬ暗闇の中、俺の身体は浮遊している。
一方向へしか動けぬが、上下左右の判別がつかぬこの空間において翔んでいると形容しても齟齬はなかろう。
0秒。父と息子として語らった時間。
父は、どこまでも閻魔としての父であった。
省みれば、父は、常に判事としての父であったはずだ。
そこに父性という甘美な人情を期待すること自体、可笑しな話だったのだ。
2度目の審判、俺の正義は完膚なきまでに棄却された。
父は、あろうことかこの深淵にまで、不条理な法の論理を繰り込んでみせたのだ。
俺がやむを得ぬ誤差として切り捨てた六名の冤罪を、通常の殺人以上に糾弾し、心血を注いだ百十八名への正義を無意味な暴挙として一蹴する。
もはや、これ以上の誹りは聞くに堪えない。
結局のところ、俺は父という偶像を、独りよがりに解釈していただけなのだ。
父が愛したのは俺ではなく、俺が壊そうとしたあの無機質な法そのものだった。
もはや、俺になすべきことは残されていない。
ただ、重力に従うだけの質量となり、なるがままにこの地獄を受け入れる。
さらばだ、正義。
俺はゆっくりと、奈落へ沈んでゆく。
第九節 「お前等とは違う」
言葉が固形物として喉を裂き、捻り出てくるような苦痛も、数千年間も受け続ければ平穏に辿り着く。
とはいえ、平然と刑をこなしていれば鬼どもの不興を買い、余計な加虐を招くだけだ。
俺は模範囚として、十分な悲鳴を発し、このシステムに適応していた。
だが、どれほど時間が経過しても、拭い去れぬ不快がある。
それは、ここへ堕ちてくる顔ぶれだ。
歴史的大虐殺を誘発した首謀者、稀代のシリアルキラー、化学兵器を用いたテロを行った宗教団体の教祖。
俺は六名の無辜を殺した。だが、彼らと同等にカテゴライズされるほどのカルマを積んだ覚えはない。
地獄の秤は、あろうことか量刑の個別事情を無視しているのだ。
彼らと同じ枠に括られた屈辱だけは、数千年経てもなお、俺の自尊心を苛み続けていた。
代わり映えのしない焦熱と沈黙。
俺を正道衡平として繋ぎ止めていたのは、皮肉にもこの執念深い自負であった。
そんな折、眼前に一本の白銀の糸が垂れてきた。
釈迦の慈悲か、あるいは地獄のシステムか。
刺激に飢えていた俺は、迷わずそれへ縋る。
どれほど登攀を続けたろうか。血の池や針山が暗闇の底へと没した。
上を仰いだところで、何かが約束されているわけでもない。
これもまた、地獄の拷問プログラムの一環であったようだ。
ふと下を見れば、無数の罪人が蟻のような列をなし、俺を追ってきている。
この細糸が幾千人の加重に耐えうるとは到底思えない。
もっとも、このまま糸が断裂し、落下したとしても一向に構わなかった。
登った先に何があるかも分からぬ現状で、今なお活力に満ちためでたい後続者たちの希望を
わざわざ妨害するほどの情熱も湧かなかったのだ。
やがて罪人の群れが俺に肉薄し、その中の一人が私の足を掴み、力任せに振り落とそうとした。
その刹那。
糸は俺のすぐ上で、音もなく断絶した。
叫び、喚き、落下していく囚人たち。
だが、俺は気付いた。私だけが、彼らとは正反対のベクトルへと放り出されている。
彼らとは堕ちた方向が違うのだ。
重力に従い、垂直に堕ちていく彼らの姿が急速に遠ざかる。
一人、異質な軌道を描きながら、俺は思考を巡らせた。
自白すべき罪もなく、救済への執着もない。
そんな俺が辿り着くべき処遇とは何か。
俺は暗闇の中、静かにその考察に更けた。
第十節 「上告」
父に裁かれたあの場所から、地獄の底まで到達するのに要した時間よりも、
遥かに長い時間をかけて、俺は「堕ちて」いる。
闇が遠ざかり、代わってどこまでも透き通るような晴天と、それをわずかに遮る瑞雲が流れ始めた。
自ずと察せられた。俺は今、浄土へと昇天している。
善人と認められたのか?
その仮定が頭をよぎった瞬間、かつてない不安が自分を襲った。
家族だ。彼らは自分をどう迎えるのか。
公判どころか、面会にさえ十年間来なかった。
自分の中に残る家族像は、あの日、玄関で靴を整えてくれた娘の、愛に満ちた笑顔のままで止まっている。
だが、今の彼女たちにとっての俺は、もはや人間ですらないモンスターであろう。
別人として拒絶される恐怖が、俺を別の不安へと紛らわす。
そして、客観的には滑稽に聞こえるだろうが、俺にとっては今、死活問題が迫っていた。
この凄まじい勢いのまま浄土の地に激突し、そこにいる住人を死傷させはしないか。
もしも無辜の他者を巻き込んでしまった場合、どう弁明すべきか。
まず第一に、被害者への心からの謝罪を行おう。
その上で、特殊なコンディションによって進路調整や減速が不可能であった事実を論証し、
オーバーシュートによって救護活動の開始が遅れたものの、
確かな救護意思は保持していたことを供述しなければならない。
だが、果たして。例え俺が懇切丁寧に論理を尽くしたところで、
被害者やその関係者は、弁解の言葉をそのまま受け止め、納得してくれるのだろうか。
……俺ほどの理知性を持ち合わせない限り、自己保身にまみれた醜悪な言い訳であると唾棄されるだろう。
私は迫りくる黄金の地平を見つめながら、他者を巻き込まぬことだけを祈り、
なす術もなく流れに身を任せるしかなかった。
目が覚めると、俺は蓮池の縁に打ち上げられていた。
誰をも巻き込まずに済んだことは僥倖であった。
周りを振り返ると、多様な人種の人同士で、微笑みあいながら談笑している。
これこそ人類の希求していた光景ではなかろうか。
自分を静かに見つめる存在がある。
恐れ入った。まさか、すべてが釈迦の施しであったとは。
湿った衣を整え、居住まいを正して尋ねた。
「自分は、善人として認められたのか?」
どうやら俺の善性が認められた一方で、極楽に安住するためには、背負ったカルマが多すぎるというのだ。
釈迦は、俺に直々に説法を行い、改心させた上で人間道へ転生させ、カルマを清算せよと説いた。
エンマが作成した俺宛の懲罰プロトコルは、もとよりそうなっていたらしい。
父がか?ありえない。
今まで、俺は自分の正義を否定する者を「濁悪」と見なし、その論理を棄却してきた。
だが、お釈迦様までもそう断ずるのは、流石に無理がある。
よろしい。ならば拝聴しようではないか。俺とは別の正義を。
最終章 「第三審」
釈迦は、主張しない。ただ、事実と矛盾を指摘するのみ。
父が犯人の不起訴に納得した理由。それは、豪雪による視認不可、
制動不能、そして後続の玉突き事故を回避するための緊急避難的措置。
これら全ての構成要件が精査され、当て逃げの嫌疑が晴れたからに他ならない。
裏裁判の法廷で、俺が「自己保身の言い訳」と切り捨て、唾棄したあの供述。
いま、墜落という不可抗力を経験した俺は、二十年憎み続けたあの男に、痛いほどの共感を覚えていた。
避けようがなかった。あれは、あまりにも運が悪かったのだ。
そういえば、冤罪で殺してしまったあの少年の瞳も、俺は卑怯な揺らぎと断じた。
自分には、法曹人に求められる最低限の理知性すら有していなかったのか。
法条が家族の惨殺案件に検察として出廷できなかったのは、個人の感情が理性を汚染することを防ぐための、法制度としての防波堤であった。
法の機制は、我々の人間としての限界を理解し、信用していなかったのだ。
初めて法の論理に感服した。
ともあれ、裏裁判を突き動かした私怨の動機は、ここに瓦解した。
だが、俺はなおも反駁を試みる。
動機が誤りであっても、百人以上の悪を葬ったという結果は肯定されるべきではないか。
釈迦は、私が地獄で経験した数千年の苦悶を指し示す。
歴史に名を刻む大虐殺者たちと同じ空間で、等しい責め苦を受ける理不尽。
懲罰の均衡が取れていない。これは地獄のシステムの不手際ではないか。
俺はそう確信していた。釈迦は深く頷いた。
……そうか。
俺は裏裁判において、殺人から性犯罪、動物虐待、子供のいじめに至るまで、その全てを「死刑」で清算させた。
加害者の心境など考慮に値せず、悪人は無限の苦しみを与えられるべきだと盲信していた。
SNSという衆愚の蔓延る法廷ならば、喝采される価値観だろう。
だが、刑罰の深さは、罪業の評価値そのものであるはずだ。
殺人とその他の加害を同列に置く行為は、実殺人被害者の尊厳を貶める侮辱に他ならない。
有罪は即ち死刑となる裁きなど、理性的といえるのか?
俺は正義の裁きと称しながら、厳密な罪業評価、判事の責務を放棄し、正義という麻薬に酔いしれていただけなのだ。
釈迦は、独りで合点を続ける自分に、慈悲深い微笑を投げかける。
嗚呼、俺は悪人だ。それも、最も質の悪い、自覚なき独善者だ。
それでも、この御方は私をここへ引き上げてくださった。
俺は、万人の心まで見通す釈迦に、どうしても訊ねたいことがあった。
「なぜ、現世の法の論理を厳格に守った父が、息子である私にだけ、地獄のルールを歪めるような超法規的措置を取ったのでしょう。父の性格上、最も有り得ぬ行動でございます。」
釈迦への上告。
釈迦に促されるまま、周囲を振り返る。
あちこちで日本人が、西洋人が、ムスリムが、人種の垣根を超えて談笑している。
「彼らは異教徒です。邪見は地獄行の要因であったはずだ」
かつてはそうであったらしい。だが、当代の閻魔が、裁判の基準を大幅に変更したのだという。
仏教に触れ合えなかった者に対する機会平等の精神のもと、各々が属していた社会や信仰、家族間の功徳に重きを置く裁断。
信仰していた宗教に敬虔であれば等しく浄土へ昇天し、教えを自分勝手に解釈し他人を害した者は地獄へ堕ちる。
属した社会の法律を遵守した者から、真の公共の利益のために抵抗した者までその功徳を認め、恣意的な法解釈のもと既得権益に執着し搾取していた者は餓鬼道へ送る。
無宗教でも、己の信念に忠実で、また無償の施しを厭わない者は転生し、狡く一貫性のない者は畜生道へ送られる。
与えられた裁量を存分に活かし、仏教観念に基づいた黄泉の国の秩序を変え、仏法の死角にいた魂たちを救っていたのだ。
俺は、父を大きく誤解していた。
父は、自分や家族には純白の厳格さを求めながら、他者には法が許す限りの融通を利かせていたというのだ。
家族だからこそ見えなかった、父の素顔。
現世の機制から解放された父は、閻魔として司法システムを完全に再定義したことで真の完璧な衡平を実現していたのだ。
俺は、法を蹂躙し、乱雑な手続きに逃げることでしか正義を貫けなかった。
俺こそが、法を監獄にしていたのだ。
3度目の審判。全てを理解した。
俺に対する、超法規的措置。
父は、閻魔としてではなく、家族として俺を裁いたのだ。
浄土の心地よい風が頬を霞む。
全ての淀みが消え失せた今、息子として取るべき行動は、ただ一つであった。
正道衡平は清々しく、暗の底へ落ちていった。
(完)




