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後日談 堕ちた勇者のカジノ狂騒曲

カジノ都市ドラドの朝は遅い。

夜通し欲望の限りを尽くした街が、けだるい眠りにつく頃、俺たち「夜の住人」のわずかな休息時間が終わりを告げる。

湿り気を帯びた地下室の空気。黴と汗、そして下水の混じったような臭いが鼻をつく。

狭い二段ベッドの上で、俺、元勇者アレクは目を覚ました。


「……くそ、もう時間か」


軋むベッドから体を起こすと、全身が鉛のように重い。

かつて聖剣を振るっていた右腕は、今はビラ配りと客への愛想笑いで酷使され、慢性的な筋肉痛に悲鳴を上げている。

薄暗い部屋には、同じように死んだ目をした男たちが何人も蠢いている。皆、借金や犯罪でカジノ王ジンに隷属させられた「従業員」たちだ。

その中には、かつての仲間だった重戦士ガントの姿もあった。


「……うう……」


ガントは下段のベッドで、身体を丸めて呻いていた。

彼の右足は再生治療によって繋がってはいるが、かつてのような鋼の筋肉は失われ、細く弱々しいものになっていた。それに加えて、連日の地下闘技場での「業務」により、体中が痣だらけだ。

俺は彼に声をかける気力もなく、洗面器の水で顔を洗った。冷たい水が、惨めな現実を突きつけてくる。


「アレク、9番ゲート前だ! 遅れると減給だぞ!」


監督役の男がドアを蹴り開けて怒鳴る。

俺は慌てて「は、はい! すぐ行きます!」と卑屈な声を上げ、衣装部屋へと走った。


鏡の前に立つ。

そこに映っているのは、かつて大陸中の吟遊詩人が歌い上げた「光の勇者」ではない。

安っぽいサテン生地で作られた、派手な赤と金の道化服。首には鈴のついたカラー。そして胸元には、『元勇者アレク』と書かれた大きな看板がぶら下がっている。

顔には白粉を塗り、口元を大きく赤く縁取る。

ピエロだ。

これが、今の俺の戦闘服だった。


「……似合ってるじゃねえか、勇者様よ」


自嘲気味に呟き、俺は重い足取りで地上への階段を上った。



『黄金の天蓋』のメインエントランス前。

ここはドラドで最も人が行き交う場所だ。昼夜を問わず、一攫千金を夢見る亡者たちが吸い込まれるように門をくぐっていく。

俺の仕事は、その入口で客を呼び込み、時には記念撮影に応じ、カジノの宣伝塔となることだった。


「いらっしゃいませー! カジノ『黄金の天蓋』へようこそ! 夢と魔法のワンダーランド、本日はスロットマシンの設定が激甘ですよー!」


声を張り上げる。喉が焼けるように痛い。

かつては「全軍突撃!」と叫んで何千もの兵士を奮い立たせたこの声が、今はただの客引きの騒音として消費されている。


「お、おい見ろよ。あれ、本当に勇者アレクか?」


通りがかりの冒険者風の男たちが、足を止めて俺を指差した。

この瞬間が一番辛い。


「マジだ。看板に書いてあるぜ。なんでも、借金で首が回らなくなって、ここで働かされてるらしいぞ」

「うわぁ、落ちぶれたもんだな。魔王を倒すんじゃなかったのかよ」

「カジノ王に負けたんだろ? 剣じゃ勝てても、金じゃ勝てなかったってわけだ。傑作だな!」


男たちは遠慮のない嘲笑を浴びせてくる。

かつてなら、不敬罪で斬り捨てていたかもしれない。だが今の俺には、彼らに怒りを向ける権利すらない。

俺は顔に張り付いた笑みを崩さず、彼らに向かって深々と頭を下げた。


「そこの強そうな旦那方! お目が高い! そうです、私が噂のアレクです! さあさあ、運試しにいかがですか? 私と握手するとツキが逃げるなんて噂もありますが、逆に言えばここで厄落としができるって寸法です!」


自分をネタにした自虐ジョーク。

これを言うたびに、胃の奥がキリキリと痛む。プライドを切り売りしている感覚だ。

男たちは「ギャハハ! 違げぇねぇ!」と下品に笑い、俺の肩をバシバシと叩いて中へ入っていった。


「……ありがとうございます、行ってらっしゃいませ」


男たちの背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。

視線を横に向けると、ガラス張りのショウウィンドウの中に、バニーガール姿の女性たちが立っているのが見えた。

その中に、エリスがいた。


聖女エリス。

かつては純白の法衣に身を包み、肌を見せることなど決して許さなかった清廉潔白な彼女。

今は、豊満な胸の谷間を強調し、網タイツで脚線美を晒すハイレグのバニースーツを着せられている。

彼女の呪いは、ジンの手配した高位聖職者によって解かれた。声も出るようになった。

だが、今の彼女は貝のように口を閉ざしている。


『ドリンクはいかがですか?』


彼女が持っているトレイには、そう書かれたプレートが乗っている。

言葉を発しない「サイレント・バニー」として、彼女は一部のマニアックな客に人気があった。

今も、恰幅の良い商人がいやらしい手つきで彼女の腰を撫でている。

エリスはびくりと肩を震わせるが、抵抗しない。抵抗すれば、バックヤードでどんな「教育」が待っているか、彼女はもう学習してしまったからだ。

彼女の瞳からは光が消え、ただ虚空を見つめている。

俺はその光景から目を逸らした。

見ているだけで、自分が彼女をあそこへ突き落としたという罪悪感に押し潰されそうになるからだ。


「おい、アレク! 休憩だ! 15分だけな!」


交代のスタッフに声をかけられ、俺は逃げるように裏口へと向かった。



カジノの裏側、従業員用の休憩スペースは、表の華やかさとは対照的にゴミ溜めのような場所だった。

山積みにされたゴミ箱の横で、俺はへたり込んだ。

配給された硬いパンと、水のようなスープを流し込む。味がしない。ただ腹を満たすためだけの作業だ。


「……あ、アレク……?」


ゴミ箱の陰から、弱々しい声が聞こえた。

見ると、泥水に濡れたエプロンをつけたミリアが座り込んでいた。

かつての天才魔法使い。炎と雷を操り、敵を殲滅していた彼女の手は、今や洗剤と冷水によるあかぎれでボロボロになり、赤く腫れ上がっている。


「ミリア……大丈夫か?」

「……お皿、割っちゃったの。三枚も……」


ミリアは虚ろな目で呟いた。

彼女は精神汚染の治療を受けたが、後遺症なのか、それとも過酷な労働によるストレスなのか、時折幼児退行のような言動を見せるようになっていた。


「マネージャーに怒られちゃった。ご飯抜きだって。……ねえアレク、私、お腹すいたよ。マジックバッグに入ってたサンドイッチ、ちょうだい?」


彼女の言葉に、俺は言葉を詰まらせた。

マジックバッグはもうない。谷底に落ちたあの日、俺たちの「日常」と一緒に消えてしまったのだ。


「ごめん……今は持ってないんだ。ほら、俺のパンを半分やるよ」


俺は食べかけのパンを千切って渡した。

ミリアはそれをひったくるように受け取り、獣のように貪り食った。パン屑が口の周りについても気にしない。

その姿を見て、涙が出そうになった。

これが、俺が守るべきだった仲間たちの姿なのか。

俺がもっと慎重だったら。ジンの言葉を聞いていたら。

いや、そもそもジンを追放しなければ。

後悔は何度繰り返しても尽きない。それは呪いのように俺の思考を蝕み続ける。


「おい、サボってるんじゃねえぞ!」


厨房の方から怒号が飛んだ。ミリアが「ひっ!」と悲鳴を上げ、慌てて立ち上がる。


「い、行かなきゃ……お皿、洗わなきゃ……」


彼女は小さく震えながら、暗い廊下の奥へと消えていった。

俺は拳を握りしめ、壁を殴りつけた。

痛みだけが、俺がまだ生きていることを実感させてくれる。



午後の業務に戻ると、カジノ内がざわついていた。

メインホールの空気が一変し、客も従業員も動きを止めている。

静寂の中、二階のVIP専用バルコニーに人影が現れた。


「オーナーのお出ましだ!」


誰かの声で、フロアにいる全員が一斉にその方向へ頭を下げた。俺も条件反射で膝をつき、平伏する。

カジノ王ジン。

この街の絶対支配者。

彼がバルコニーの手すりに手をかけ、眼下のフロアを見下ろしている。

その隣には、宝石のように美しい銀髪の女性、ルナが寄り添っている。彼女はジンの右腕であり、カジノの実質的な運営を取り仕切る才媛だ。かつては奴隷だったというが、今の彼女の佇まいは王妃のように気高い。


俺は盗み見るように上目遣いで彼らを見た。

ジンは最高級のスーツを完璧に着こなし、その表情には揺るぎない自信と余裕が漂っている。

かつて俺たちの後ろを歩き、地図を見ながらブツブツと小言を言っていた男とは、もはや別の生物だ。

彼は「勝者」のオーラを全身から放っていた。


「……景気はどうだ、ルナ」


ジンの声が、魔道具によって拡声され、ホール全体に響く。


「順調です、マスター。本日の売上は過去最高を更新する見込みです」

「そうか。なら、今日は全台の設定を少し甘くしてやれ。客に還元するのも王の務めだ」

「承知いたしました」


フロアから「うおおおお!」「オーナー万歳!」という歓声が上がった。

客たちはジンを神のように崇めている。金をばら撒き、夢を見せてくれる神として。

その歓声の渦の中で、俺だけが泥の中にいるような気分だった。


ふと、ジンの視線がこちらに向いた気がした。

エントランス付近で膝をつく、ピエロ姿の俺。

目が合った。

心臓が跳ねる。何か言われるだろうか。罵倒されるか、嘲笑されるか。

だが、ジンは一瞬だけ眉をひそめ、すぐに視線を外した。


「……エントランスのマットが汚れているな。後で替えさせておけ」


それだけだった。

俺の存在など、汚れたマットと同じレベルの「背景」でしかない。

罵倒されるよりも、無視されることの方が遥かに残酷だった。

俺はかつて彼の親友であり、パーティのリーダーだった。その俺が、彼の視界にすら入らない路傍の石ころになったのだ。


ジンとルナがバルコニーから去っていくと、ホールには再び熱狂と喧騒が戻った。

俺は立ち上がろうとして、足がもつれて転びそうになった。

みっともない。

その時、目の前に小さな影が立った。


「あ! やっぱり勇者アレクだ!」


見上げると、10歳くらいの少年が目を輝かせて立っていた。身なりからして、観光に来た金持ちの子供だろう。

俺は慌ててピエロの笑みを作り直した。


「やあ、ボク! そうだよ、僕が勇者アレクさ! 握手かい?」


俺が手を差し出すと、少年は無邪気に笑って、懐から何かを取り出した。

それは、かつて俺たちが活躍していた頃に売られていた「勇者カード」だった。キラキラと光るレアカードだ。


「これにサインしてよ! パパがね、『こいつは昔すごかったんだ』って言ってたから!」

「あ、ああ、いいとも……」


過去形の称賛。それでも、求められるのは嬉しい。俺は震える手でペンを取り、カードにサインしようとした。

だが、少年は俺の手元を見て、顔をしかめた。


「あれ? 手、汚いね」


少年の無垢な言葉が、胸に突き刺さる。

ビラ配りでインクにまみれ、掃除もさせられている俺の手は、黒く汚れていた。爪の間には垢が溜まっている。

聖剣を握っていた頃の、手入れされた美しい手ではない。


「……ごめんね、今お仕事中だから……」

「なーんだ。なんか、カードの絵と全然違うじゃん。臭いし」


少年は興味を失ったようにカードを引っ込め、俺から離れた。


「パパの嘘つき! 勇者なんて全然かっこよくないじゃん! ただのおじさんだよ!」


少年は走り去っていった。

残された俺は、差し出したままの手を空中で彷徨わせ、やがて力なく下ろした。

そうだ。

俺はもう勇者じゃない。

ただの、汚くて臭い、カジノの客引きおじさんだ。


「……いらっしゃいませー」


俺は機械的に声を上げた。

心を守るために、感情のスイッチを切る。

何も考えるな。

ただ、目の前の客を呼び込め。

ノルマを達成しなければ、今夜の飯はない。ガントの薬代も稼げない。

俺たちは生かされている。ジンの慈悲という名の残酷な飼育箱の中で。


「カジノ『黄金の天蓋』へようこそ! 夢を掴むチャンスはここにありますよ!」


声を張り上げるたびに、俺の中の何かが削げ落ちていく。

その欠片は、ドラドのきらびやかな床に落ち、誰にも気づかれることなく踏みつけられていった。


夜が更けていく。

ネオンの光が強さを増し、俺のピエロの化粧を不気味に照らし出す。

かつて魔王を倒し、世界を救うと誓った男の末路。

それは悲劇ですらなく、ただの滑稽な喜劇の一幕として、今日も消費されていくのだった。


「いらっしゃいませー! さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」


俺の絶叫のような呼び込みが、カジノの喧騒にかき消されていった。

これが、俺の新しい「戦場」だ。

永遠に終わらない、敗北の戦場だった。

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