120 霧山の家
十五章
草が萌え出した頃になって、蔦や枯葉に埋もれた霧山の家にある一団が到着した。中年の夫婦と、若い男女の四人である。
若い男の子供の頃の記憶だけを頼りにやって来たので、三ヵ月以上もかかってしまった。それでも、ようやく見つけることができた。
「ここだよ。たしかだ」
と言ったのはジェットだった。
「いいところね」
と言ったのは、サディナーレだった。
「懐かしいなぁ」
「ジェットさんはここに住んでいたのね」
あの時、鬼ヶ岳の崖から飛び降りたジェットとサディナーレは、冬支度のために薪を探しに来ていたある夫婦に助けられた。
夫婦はあの夕方、崖の上から火達磨になって落ちてくる馬車を目撃したのだ。急いで現場に駆けつけると、怪我をして倒れていた若いふたりを見つけたのだった。
怪我をしていたふたりを彼らが住んでいた洞窟の住処に連れて行き、傷の手当てをした。女性の方は軽傷で元気だったが、男性の方が手と足に大怪我をしていた。
この夫婦はダニエルとベロニカといい、狩猟をしながら世間から隠れて住んでいた。
ジェットは名前を訊かれた時、壁に十字架がかけられているのを見て「ぼくはミカエルです」と名乗り、サディナーレのことを「デニア」と紹介した。
「私はミカエルの嫁さんです。もうデニアではないけど、デニアです」
サディナーレはそう言って、自己紹介をした。
あの時、ジェットが燃える馬車の中で、生きる方法があるとしたら、ここから飛び降りるしかないとサディナーレに告げた。
「はい。もし生きることができたら、ジェットさんの妃にしてください」
「前にも言っただろう、おれの場合は妃ではなく、ただの嫁さん……」
「ただの嫁さんになりたいです」
サディナーレは何も恐れていないようだった。
「うん、そうだね。ふたりで生きて、夫婦になろう」
ジェットは首から組紐を外して、サディナーレの首にかけた。
「はい」
サディナーレはたくさん読んだ物語の中のある言葉を思い出しながら、ジェットを見つめた。一生無縁だろうと思っていたけれど、心の奥で憧れていた言葉。
「ジェットさん……、あのう」
「サディナーレ、愛しているよ」
ついに、言ってもらえた。
「私もです。愛しています」
ついに言えた。
サディナーレはさいごかもしれない時なのに、最高に幸せだった。だから、彼女は片手にジェット、もう一方の手で緑の石を握りしめて、微笑みながら飛び降りたのだった。
あれから、ダニエルとベロニカ夫婦に助けられ、この霧山の家にたどり着いたのだ。
あの日、ジェットが口を一文字にして笑ったところを見て、べロニカが首を傾げた。
「もう一度、笑ってみて」
ジェットが何だろうと思いながらぎこちなく笑って見せると、ベロニカが探るような目をした。
「もしかして、お兄さんはミカエルではないのかい。眼医者の先生のところにいたかたえくぼのミカエルではないかい」
ジェットは驚いて、どんな答えをすれば安全なのだろうかと考えた。
「一度しか会ってはいないけど、面影がある。あんたはS国の目医者、ヨハネ先生のところにいた小さな子供じゃないのかい。サクリカンド様を背負って逃げてくれた子供ではないのかい」
ベロニカがそう言ったので、ジェットは驚いて、夢をみているのかと思った。
崖から落下する時に頭を打ったので、おかしくなったのかと思った。
しかし、そうではなかった。ダニエルの額にある大きなほくろを思い出した。あの時、見たのはこの顔だ。
「そうです」
「あの時の緑目の赤ちゃんはどうなったんだい?」
「元気です。アカイ村というところで、教師になるための学校に行っているはずです」
あの赤ちゃんが生きていた。リマナマリ王妃の赤ちゃんが、生きていた。ダニエルとベロニカは抱き合って喜んだ。
以前、ふたりはJ国の宮廷でリマナマリ王妃に仕えていたのだが、生まれた子供が緑の目だと知った。国王の目は黒なのだから、緑目のことを知ったら、王妃も、赤ん坊は殺されるかもしれない。
それで、ある夜、王妃は赤ん坊を連れて、ダニエルとベロニカに同行を頼み、王宮を逃げ出すことにしたのだ。
しかし、その夜、不思議なことが起こった。突然に雪が降り、裏口に黒い目の赤ん坊が捨てられていたのだ。神が助けてくれたのだと信じ、王妃は残り、ふたりがリクイをヨハネ先生に届けることになったのだった。その選択のほうが、赤ん坊も、母親も、生き残れる可能性があった。生きてさえいれば、また会える。
ダニエルとベロニカは赤子を連れて、なんとかS国の医院まではたどり着いたが、屋根裏に隠れているところを捕まった。ヨハネ先生と一緒に馬車で連れ去られたが、もう少しでJ国の都だというところで、ヨハネ先生が隙を見て、逃げるのに成功した。馬丁を残してみんながその後を追いかけて手薄になった際、ダニエルとベロニカも逃げ出したのだった。
あの時、ヨハネ先生はすでに重い傷を負っていたから、多分途中で生命を落としたと思われる。
ベロニカとダニエルはあちこちに隠れ住んだ後、鬼ヶ谷の洞窟に落ち着いて夫婦になって暮らし、王妃との連絡を取ろうと時機をうかがっていた。
そのうちに、王妃も黒目王子も亡くなったという噂を聞いたが、今さら、行くところもなく、神に運命を任せて祈りながら、あの谷に住み続けていたのだ。
ふたりの若者が飛び降りた後、鬼ヶ谷では草の根を分けるような捜索が続いていたので、このままここにいては危ない。
四人はすぐに洞窟をでて、新しい隠れ場所を探すことにした。ジェットが手足の大怪我のために歩けないので荷車に乗せて、ダニエルが引っ張り、ベロニカとサディナーレが荷物を背負った。
旅の途中で、ジェットが昔住んだことのある爺さまの家を思い出し、S国の霧山を目指すことにしたのだった。あそこには、ヨハネ先生がいるかもしれないとジェットは思った。おれとリクイを待っていてくれているかもしれない。あの時、必ず迎えにくると約束したのだから。




