106 砂漠の音
その明け方、サララが目を覚ますと、ニニンドの顔がすぐそばにあった。
サララはその横顔を眺め、自分の人差し指を見つめた。最初に会った時、あれはラクダレースの後、この指でニニンドのすべすべの頬に触れたことがあった。あれが出会い。あの時、ニニンドの頬は冷たくて硬かったけれど、今夜の頬は柔らかくて、熱かった。
役者みたいな顔をした彼とは、二度と会うことはないと思っていたけれど、逮捕されて、また会うことになった。突然、捕えられて牢屋にぶちこまれた時には頭にきたけれど、あのことがあって会えるようになったのだから、人生はわからない。
わたしは「逆境に強い女」だと思われているかもしれないけれど、そう恰好をつけているだけで、本当は逆境には強くない。普通の女子より弱いかもしれない。そこを意地でがんばっているだけ。
もし、この先でもうがんばれなくなって途方に暮れた時、すぐに絶望しないで、待ってみるのもひとつのやり方かもしれない。運命が、良い方向に導いてくれると信じよう。
サララはむくっと起き上がって、洞窟の入口の焚き火に小枝をくべた。乾いた小枝がちりちりと音を立てて、黄色やオレンジの炎を伸ばしていた。
うれしい気持ちがこみあがってきて、もう眠りたくない。
ニニンドが来て後ろから肩を抱いた。
「ああ、びっくり」
とサララが飛び上がった。
「ごめん、驚かすつもりはなかったよ」
ニニンドの声がまだ眠たそうにかすれていた。
「こんな朝は初めてだ」
とニニンドが空気を吸い込んだ。
「何が」
「空気が。音も、においも」
「これがわたしの知っている朝」
「山の朝は緑のにおいがして、鳥や動物たちでけっこう騒々しかったなぁ」
「山賊時代ね」
「うん」
「山の朝、いいね」
「朝はいつもいいね」
「うん。いつもいい」
「サララはとても真剣な顔をしていたけど、何を考えていたの?」
「どうでも、いいこと」
「なに?」
「もし、もしわたしが絶世の美女で、もっと自信があったら、こんな心騒ぎはしなかったのかなと」
「そんなことか」
「そんなことじゃない」
「サララは誰よりきれいだよ。でも、その不安、わかる。こっちもだよ」
「そうなの?」
「うん。私は人を愛したら、不安や恐れがなくなるか と思っていたけれど、逆だよね」
ニニンドはサララを両手で抱いて笑った。
「心配で仕方がないよ」
「サララがラクダから落ちた夢を見て飛び起きたんだ。冷たい汗が吹き出た」
「わたしも、ニニが死んだら、どうしようかと思った。絶対に、死なないでね」
「どうやら、私達はしんどい道に入ってしまったようだ」
「戻る?」
「戻るわけがない。やっとここまで来れたんだ。戻れるわけないだろ」
「サララは?」
「わたしは退屈には弱いけど、トラブルには強い女さ、何度、乗り越えてきたと思っているの? しんどい道、行こうじゃないの」
いつものサララに戻った。
「サララが眠った後、この近くを歩いてみたんだ」
「砂漠は慣れていないと戻れなくなるから、気をつけて」
「その時、砂漠の音を聞いたよ」
「砂漠には音がないから、聞こえたのはたぶん風の音」
「風かな。とても小さな音。どこか広い場所で、草が揺れているような、大地が呼吸をしているような音だった」
「ああ。風でないとしたら、それはニニ自身の音。前にリキタが、身体の中の音が聞こえるんだと教えてくれたことがある」
「砂漠では、自分の音が聞こえるのかい」
ニニンドが感動したのを見て、サララが微笑んだ。
「ほら、あそこに、流れ星。今夜はたくさん落ちてくる」
とサララが指をさした。「前は流れ星を見るとね、これでこの星の一生が終わったのかと思ったものよ」
「私もそう思うけど、違うの?」
「流れ星は星じゃないから」
「じゃ、何?」
「正体は、星の塵とか埃で、星ではないとリキタが言ってた」
「リクイは何でも知っているね。流れ星は星ではなくて、ごみなのかい」
「リキタがこんな風に説明してくれた。例えば、星が木だとしたら、流れ星は木に咲いた 花の小さな花びら。小さな花びらが宇宙をすごい勢いで飛んで来て、地球にたどり着こうとする時に、空で花火になる。花びらは花火になっても、肝心の星は宇宙で生きているというわけ。きれいな話じゃない」
「そうなのか。聞いてよかった。今夜から流れ星を見るたびに、そのことを思い出すよ。星が死んでいくわけじゃないんだ。星は遠くで生きている」
また銀色の流れ星が、広い夜空を斜めに横切った。
「ニニのお母さんって、どんな人?」
「今思うと、空想物語の世界に住んでいたような人だった」
「わたしにはなれそうにない」
「ならなくて、いいんだよ。そのままがいい」
「お母さんが、ニニの憧れだと思っていた」
「今では、母というより、妹のように思っている」
ニニンドは母が死んだ時のことを語った。どんなに悲しい思いをしたのかということを。でも、 仲間が自分を親分として頼ってくるから、誰にも、心を話せないでいたことを。 ニニンドは思う、母親を亡くしたのは、自分だけではないのだと。世の中のほとんどの人は、愛する人 を失っている。そういう胸が張り裂けるくらいに辛いことがあっても、生きていられる。人間は強い。
砂漠の中で、自分の音というものをはじめて聞いた。
これまで、自分には音がなかったと思う。ただ日々を生きていくだけで、夢というものがなかったから。でも、今はこんな状況の中でも、私には夢がある。
でも、自分だけは弱すぎてできないと思ったこともあったけれど、こうやって生きてこられて、サララを見つけた。 出会ってくれて、ありがとう。約束してくれて、ありがとう。
今日は昨日の続きでも、約束したから、今日からの自分は昨日とは違う。この決心は忘れないつもりだ。




