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傷と痛み  作者: 石木 喬
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事例1(幼年期・切り傷)

 幼少時の記憶が何歳の頃からあるのかはっきりしません。不確かな記憶はあとで写真を見たり他人から聞いたりして勝手に記憶を繋げて捏造してしまっているものも多いと思います。

 傷と痛みの話を聞いた時、一番先に思い出したのが左の眉の中にある斜めの傷でした。中央より少し眉尻に寄っていて一ミリほどの幅に毛が生えない場所があるのです。左側の額の生え際に紫色に変色した皮膚があり、これもどうやら同じ原因によるものらしいのです。

 子供の頃は顔も小さいのであまり目立たなかったのですが、成長するにしたがってその傷は目立つようになり、眉のなかに毛の生えないケロイド状の部分があることがはっきりとわかるようになりました。そのことで左目の眉はそこで一度段違いのようになって、字義通りの眉目秀麗とはいかなくなってしまいました。そこに視線を集中させると顔全体が醜くさえ思えてくるのです。いっぱしに化粧品を買ったりしてヘアースタイルや自分の顔の表情が気になる年頃になると、どうしても鏡の向こうの毛の生えていない眉に眼がいってしまいます。私は自分でいうのも何ですが父親似のなかなかの男前だと思っていたのですが、まさにその部分は「玉に瑕」となってしまいました。

 私が母からはじめてそのことを聞いたのは小学生の頃だったろうと思います。

 三輪車に乗って遊んでいて、舗装もしていない石ころの多い坂道を転がり落ちたときに顔を打って眉の部分を切り、打った額の部分も皮がむけて顔全体が血まみれになるほどの出血で、医師からはひとつ間違うと命さえ危なかったと言われたそうです。

 私は長い間自分で勝手に遊びに行って坂道を三輪車で駆け降りようとしたのだと思っていました。というのも私の記憶にある幼少期は三輪車に乗るのが大好きで、平らな道を足でこぐだけではつまらないのでよく坂になっている場所に行って駆け降りて遊んだ記憶があるからです。家の前の道路が向う側から玄関の方に傾斜していて、よく三輪車を道路の向こうに運んでは家の方に駆け降りたのだけは今でも記憶に鮮明に残っています。

 高校生の頃だったと思います。私は母からある女性がその事故に関わっていたことを聞きました。

 母は結婚してすぐに私を産んで、子供の私の面倒もよく見れないほど田畑の仕事で忙しくしていました。自分が田畑に出ている間の面倒を私もよく知っている遠縁の近所の小学生の女の子に見ていただいていたそうです。私の記憶の中のその女性はとても優しい人で、よく私の手を引いてあちこち連れて行ってくれたものでした。歳が大分離れていたので私が高校生になる頃には結婚して遠くに嫁いでいました。結婚してからは数年に一度お盆などにお会いするだけでしたが、私の顔を見るたびに懐かしそうに「大きくなって・・・、私が負ぶってあげたんだよ」と涙ながらに話すのでした。

 私はその涙が単なる感傷と思っていました。

 しかし母の話を聞いてその涙に私はまったく異なった感情を抱くようになりました。

 そのときの状況をつぶさに聞いたわけではありませんが、私のお守りをしていた彼女がちょっと目を離したすきに坂の上から私の乗った三輪車が転がり落ちて、そのときできた傷が私の眉毛の中にある傷だというのです。

 私はその話を聞いた時、まだ小学生の彼女がどれだけ驚き、悔悟の涙を流し、心が咎めたことだろうかと哀れで痛ましい思いさえしました。そしてその時以来、そのことを決して彼女に聞いてみようとは思いませんでした。

 私も高校を卒業して故郷を遠く離れていました。還暦を迎えたとき、私ははじめて高校の同窓会に出てみようという気になり、ついでに何日か旅行の予定を増やしてもうなかなか会えなくなるであろう私の叔父や叔母など思い出の多い人たちに会ってみようと思いました。たまたま同窓会の開かれる温泉旅館がその女性の住所の近くであったことから、その女性にも連絡を取って会うことにしました。

 私はそのとき、彼女に会って当時のことなどを聞く予定でいました。自分も知らないその時の様子を彼女から教えてもらえるのではないかと思ったのです。長い年月が過ぎたので、思い出として聞いても笑いながら話せるのではないかと思ったのです。

 彼女の夫の運転で同窓会の行われた温泉旅館まで迎えに来てくれ、二十年ぶりに会う彼女は体を悪くしていたせいもあり背が曲って小さく見え、随分老いた印象でした。私の顔を見るなり涙ながらに抱きつき、確かめるように何度も私の名を口にしました。私の知っていた彼女とは別人のような気がしました。

 私もよく知る彼女の両親が眠る墓に立ち寄り、自宅に着くと近くに住む彼女の弟まで集まって昔話に花を咲かせました。私のために懐かしいでしょうと田舎料理をたくさん作ってくれていて、御馳走になりながら私の小さなころの思い出に花を咲かせました。

 私はいつ言い出そうかと思いながら、結局言い出せずじまいに終わってしまいました。

 彼女は私の顔を見ながら眉毛の辺りが気になっていたのかもしれません。

 もしそのとき私が彼女に聞いたら、彼女は私以上に痛みを感じたかもしれません。

 私はその傷をいくつもある思い出のひとつとして、むしろ大切にしようと考えるようになりました。

 これを心の傷あとと言っていいのか分かりませんが、お役に立てたら幸いです。


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