47話 7回目の日曜日~家の中~
起きたら、あの子のピアスはなくなっていた。前の晩ちゃんと机に置いて寝たから、びっくりした。ほんの一瞬、不安になった。けれどそのとき、夢で初めて会った女の子の顔が浮かんだ。臙脂色のカチューシャをつけた女の子。
「またね」
ってその子は言ってた。
「そっか……」
臙脂のカチューシャをしたその女の子は、そう言っていなくなった。ーー夢の中で。
身支度をして居間に向かうと、入ってすぐのところに祖父が立ってた。
「おはよう」
私が言うと、祖父の身体はびくっと縦に小さく動いた。
「おはようさん」
祖父の大きく開かれた目は、漠然とした不安みたいなのを湛えてた。テレビは、ついてない。庭からもうすぐ戻って来そうな母が、窓の向こうに見えた。
「なにかお困り?」
私が訊くと、祖父は首を傾げた。
「はて、困っては……ないね」
言ってから、ズボンのポケットを探る。
「どうしたものかと思って」
祖父は、小さな紙の塊をおもむろに出した。それから、力の入れ方を忘れたみたいな手で、かたいそれを解こうとした。
「これなんだよ……これがね」
もそもそ言いながら、まだ解こうとする。びりっと、耳に残る音がした。
祖父は、左右の手にひとつずつ在る塊を見下ろしていた。動くことなくただ落ちる視線。
「貸して」
私が左手から片割れを取っても、祖父は身動きしなかった。
固かった紙の片割れは、簡単に開いた。端の方がもろもろになっている。開いたものの、中を見た。
“成実”
ふりがなまでふってある。誰の字か、わからなかった。私の知ってる家族の字じゃない。でも、祖父は中を見て笑った。
「あぁ、これだね」
ちゃんと、祖父の表情をして。
台所横の勝手口が開いた。母が庭から入ってきた。
「何見てるの?」
居間の入り口で立っている私たちに近づいた母は、紙の中の字を見た。
「あぁ、懐かしい」
母の表情が優しくなった。
「これ、だれのこと? だれの字?」
私が訊くと、母は微笑む。
「おじいちゃん、だれの字?」
祖父は、照れたような、ごまかすような笑みを浮かべて、
「おなか空いた」
と定位置に座った。
朝食の準備をはじめた母はしばらく関係ない話をいくつかして、それから少し黙って、口を開いた。
「歩未はね、"成実"になるかもしれなかったの」
その瞬間、身体中を、何かがぐわっと駆け抜けた。
「成実……」
母の発したその音を、自分でも口にしてみた。
----実が成るって書いて成実になるかもしれなかったけど、こっちになった----
あの子と会ったばかりのころの言葉を思い出すのも、その名前が祖父の紙の名前と一緒なのも、ちょっとできすぎだと思った。でも今までのあの子とのことを思うと、納得もあった。だから、訊いた。
「私にお姉ちゃんか妹がいたら、"成実"だった?」
母は朝食の準備の手を止めた。少し長く黙っていたけど、トースターのつまみを回して、言った。
「お兄ちゃんかお姉ちゃんかわからなかったけど、あの時はちがう名前と成実が候補だったわ。1回目と2回目でちがう名前の方は候補が変わった。歩未の時は、歩未と成実だった。お父さんとお母さんは、男の子でも女の子でも同じ名前を候補に挙げてた。おじいちゃんは毎回ね、2つの候補の名前を両方筆ペンで書いてくれた。生まれた赤ちゃんの写真の横にその紙を貼るって。……結局歩未しか貼れなかったけど。もし歩未のあとに弟か妹がいたら、今度こそ成実だったかも」
母は言ったあと、トースターの中に食パンを入れた。
母のその時の表情はとても優しく、だけど切なく見えた。それは、私が知っていたからだと思う。大きな病気をもって私が生まれて、両親が2人目をあきらめたこと。……わかっていたことなのに、胸が、きゅっとなった。
食パンが焼けた。コンロでは、目玉焼きも焼けた。食パンに目玉焼きを載せる。祖父の分は一口大に切って、父の分はラップをかけて。母がパンを運ぶ後ろから、私は牛乳の入ったグラスを運んだ。
「おじいちゃん、ごはんよ」
もううたた寝をはじめていた祖父を、母が起こす。
「あぁ。そう、ありがとう」
目を開けた祖父は、いつもの表情に戻ってた。この世界と切り離された、穏やかな遠い世界にいるような。
言葉なくパンを掴んで、口を近寄せる。目玉焼きの切り口から、黄身の雫が滴った。




