42話 7回目の水曜日
この日も相変わらず、祖父はアルバムから剥がされた紙を探してた。ほかの話をして紙のことを少しの間忘れるくらいにはなったけれど、結局日に何度かはアルバムを開くから、何度も紙のことを思い出す。
ーーどうしたら、紙のことを気にしなくなるか。
ほかの紙を貼ってもみた。前に貼ってあった紙のように、私の名前をちゃんと書いて。でも、前にあったあの紙じゃないとだめみたい。両親と私は、疲れと一緒に戸惑いまで抱きはじめた。
朝電車に乗って、車内を見まわす。乗ってないと思っていても、あの子のいた場所いくつかは、視線がほんのひと時止まってしまう。ルーティーンーーくせになったら、なかなか前には戻らない。珍しくたくさん席が空いていた。通路側にだれもいない、窓側の席に私は座った。眠ってはいないけれど、目を瞑って静かに過ごした。
仕事が忙しくて、帰りは少し遅くなった。でも、まだ空は充分明るい。到着した電車に乗ってみると、朝より混んでた。座る場所はなかったけれど、あの子とよく立っていた場所が空いていたから、私はそこにいることにした。
色のある景色が見たくて、私は外を眺めてた。夏至を過ぎ、週間予報も雨マークがなくなってきた。この日の空は、それらしい眩しい夏空。街の景色も、雨が続いた少し前より何トーンか明るくなってる。その街の色に、どうしてだかほっとした。
外を眺めていたけれど、窓ガラスでうっすらと影が動いた。振り返ると、少し離れたところでこっちを見ているあなたがいた。
あなたは隣に立つことを、目で知らせてきた。“明日”って言われてたけれど、ほんとうにあなたが来たことに私はちょっと戸惑ってもいた。でも前の日、話があると言っていたから、あなたの話を聞く心の準備もまったくないわけではなかった。
「昨日より疲れてそうなあんたに悪いんだけど、これ返しに来た」
隣に立ってしばらく前を見ていたあなたは、前を見たまま口にした。言い終えてから、ポケットの中に手を入れる。ポケットから出した手をあなたが開くと、あのピアスが載っていた。
「どうして……ですか?」
そう訊くので精いっぱい。ピアスの紅が、胸の奥深くに刺さってた。それでいて、ぎゅっと締めつけて。
ーーどうして、あなたがこれを私に渡すのか。
ーーこれは、私があの子にあげたものなのか。
ーーそれならどうして、私があの子にあげたものをあなたが今持っているのか。
訊きたいことは、いっぱいあった。でも、胸の深いところがとても痛くて、言葉にできなかった。
「あいつは、あんたにもらったって言って、おれに渡した」
ピアスから目を離すことのできない私に、あなたは言った。
「“あいつ”って……?」
やっとのことで尋ねた私。あなたの声の調子は変わらなかった。
「あんたが、このピアスを渡したやつ」
あなたがあんまりきっぱり言うから、顔を上げた。あなたはもう、前じゃなくて私を見ていた。見た目や言葉遣いとぜんぜんちがう。腰の低い、何かを見据えた大人の眼差しだったから、私は言葉に詰まってしまった。
「最初はおれがやろうと思った。どうすりゃいいのかあいつに訊いたら、誰にも拾われないような場所に、落とすなり埋めるなりしろって言うから」
あなたはまた、視線を前に移してた。
あなたは冷静な横顔でそんなことを言うけれど、私にはさっぱりわからなかった。あなたはそれをわかったみたいに付け加えた。
「あと数日で、あいつはここにいられなくなる。てか、日に日にここから遠ざかってる。あいつが完全にここから離れる瞬間までに、これをあいつのいうようにしてやらなきゃいけない」
「あと数日……? ここ……?」
ほかにもわからないことだらけだった。
あなたはしばらく何も言わなかったけど、視線を私の先に向けた。
「まだあいつ、毎朝乗ってるんじゃね?」
言いながら、あなたは私を促した。窓の外は、最寄り駅のホームになってた。でも私は動けなかった。
最寄り駅で降りられなかった私は、あなたの話の続きを聞いた。
「大体あと4~5日だと思うけど。人によって微妙にちがう。でも、そのくらいで行くべき場所がほぼ決まるらしい。で、決まるまでに、こっちのものとの関わりは、切れてないといけないってよ。……おれもよくわからねぇけど、あいつの話じゃそんな感じ」
あなたはまっすぐ前を見たままそう言って、言葉を切った。
(まだ毎朝電車に乗っているかもしれない……。ここにいられなくなる……。行くべき場所が決まる……。それまでに、切れてなくちゃいけない……)
あなたの言ったことを、頭の中で整理した。
----ぜんぜんちがう人の集まる、キラキラした場所に行っても、結局前にいたところにいたような人とつながっちゃう。……引き寄せちゃうのか、引き寄せられちゃうのか、どっちだろ----
あなたの言葉は、ずっと前にあの子から聞いた言葉とどこか通じる部分があった。だから、思いついたのかもしれない。
あなたの話を聞いて推測した状況が自分でもすぐには信じられなくて、でもその推測に納得する部分もあって。だけどやっぱり、わからないことが多すぎる。あなたの話と私の推測。辻褄はあっていたけれど、頭と心がざわざわして、うるさかった。冷静に考えたら、あり得ないはずのことだもの。だけど、まっすぐ前を見つめたあなたの瞳は何かを思い出しているようにも見えて、淡々とした口調のわりに切なさみたいなものが混じってて、それが私に残ったほんのわずかな冷静さを私にとどめていたような気がする。
でも結局、あなたはそれ以上話さなかった。私も、訊けなかった。あなたは手元を、私は窓の暮れてゆく景色を目に映して立っていた。
電車は終点まで行って、折り返した。それでまた、私の家の最寄り駅のホームに着いた。
「受け取るの、明日でもいいですか?」
ピアスを握ったままのあなたに、私は尋ねた。
「また明日」
あなたは、顔を上げてくれた。私がどんな表情をしていたかはわからないけど、あなたは何かを見据えた大人の眼差しを、また私に向けていた。
電車を降りて、私も言った。
「また明日」
もうすっかり、あたりは暗くなっていた。私はスマートホンを出して母に電話した。




