41話 7回目の火曜日
「落とした」
あなたに声をかけられたとき、すでに私はあなたの姿を忘れていた。だからいきなり知らない人に声をかけられたと思ったの。
祖父は前の日から、ことあるごとにあの紙のことを尋ねていた。いつもなら他のことを少し話せば前の話をすぐ忘れるのに、今回は1日経っても同じ話を繰り返したから、両親も私も疲れきってた。
朝の電車では、前の日みたいに座席に座った。でも、疲れていて何も考えられなかった。15分間、ただ真っ白な頭で座っていて、車内放送で否応なく電車を降りた。
帰りは仕事のあとでもっと疲れていたけれど、眠れる感じではなかった。かと言って、やっぱり何も考えられない。朝よりも訳の悪い、へんに気が立った状態で座ってた。
車内放送は聞こえなかった。窓の景色が最寄駅のホームに差し掛かって、私は降りる準備をした。立ち上がろうとした私の肩を、だれかが軽くたたいた。
立ち上がる前に私は振り返ったけれど、肩をたたいた人ーーあなたーーに見覚えはなかった。前に会ったときも鼻にピアスはつけていたけど、髪型は色まで変わっていたから、あのときと同じ人とは思わなかったの。
私が声を出そうとしたとき、あなたは私の通勤定期を持っていた。
「落とした」
ーー1週間くらい前、同じことを言われた。同じように私に通勤定期を差し出しながら。声を聞いて、私は定期を差し出してくれた人をじっと見た。接し方は前よりかなり柔らかいけど、顔立ちや声は、記憶の端と結びついた。ーーあなたを、思い出した。
「降りっぞ」
言うと同時に、あなたは私の手首を引っ張った。私たちが電車を降りるとすぐ、扉が閉まる音が聞こえた。
あなたはホームの奥の色褪せたベンチに座って私にも座るように言ったけど、私は立ってた。私が立ったままでいると、あなたはもう1度私の定期を差し出した。ーー何も言わずに。
そのとき、1週間前初めてあなたに定期を拾ってもらったときは、あの子に3日連続で落とした定期を拾ってもらったことを思い出してたのに気がづいた。ーーその瞬間、頭の中を、何かが走った。
ーー定期落としすぎじゃない?
何日か前の母の言葉が、頭の中で不意に聞こえた。
ーー隙だらけ
はじめて定期を渡してくれたあなたの言葉も、続けて聞こえた。
うれしいとか、かなしいとか、おこってるとか、そう言うんじゃなかった。ただただ、そうだったんだ、って思った。
(私は1度も、定期を落としていなかったのね)
そう、言葉にはできなかった。
あなたは私の目をしばらく見たあと、黙って定期を持つ手を下ろした。それからもう片方の手でポケットを探った。今度はそれを私に差し出す。
「あんたに返す」
あなたは、しずかな声で言った。
「何を?」
あなたは、ゆっくりとポケットから出した手を広げた。
あなたの掌に載っていたものは、臙脂色。小さいけれど、西陽が刺さって鋭く光る。独特な、歪な形ーー忘れようのないあのピアスに、そっくりだった。
初めてあの子と出かけた日、あの子に私があげたもの。あの子がずっと悩みながら見つめてて、私が買ってあの子に贈った。
(どうして、あなたが同じものを持ってるの……?)
これも、言葉にはできなかった。
ピアスを差し出して、あなたは、“返す”と言った。
(やっぱり、これは私があの子にあげたものってこと?)
そこまで推測することはできたけど、心も頭も疲れきってた私には、それ以上のことを整理することはできなかった。
「疲れてんのな。明日にするわ」
あなたは、私の表情を見て立ち上がった。
「あ……」
私が言おうとするのを、あなたの差し出す私の定期が、柔らかく止めた。
「また明日」
私に定期を渡してから改札に向かいながら、あなたは言った。
あなたが見えなくなってから、頭の中のざわざわした感触と一緒に私は帰った。
「おやすみ」
夜寝る前、私はこの日もあの子に言った。頭の中は、まだざわざわ動いてて、この日は夜もあんまり眠れなかった。




