40話 7回目の月曜日
「おはよ」
朝ベッドから起き上がってあの子に言った。1週間がまたはじまった。
カーテンを開けて、身支度をして、居間へ向かう。
「おはよう」
居間へ入ると、先に起きている両親に言った。平日の朝は祖父の次に私が遅い。でも、この日返ってきた声は3つあった。祖父が、私より先に起きていたの。
祖父はこのころもう、特に朝が遅かった。母が朝食を作ってくれているうちに声をかけるけど、私たちのごはんが終わって父が出勤する時刻くらいまで、祖父は居間に出てこない。身支度や廊下を歩くのに、それだけ時間がかかるようになっていた。その祖父が私より先に身支度を済ませて居間にいたから、すごく驚いたの。
でも、祖父が私より早く居間にいたのは、いつもとちがうスイッチが入っていたからだった。
「歩未ちゃん、ここにあった紙知らない?」
アルバムの1点に目を落としたまま祖父は言った。
「どこ?」
のぞくと、何かが貼ってあった感じの空白はあった。紙の裏が剥がれきらないでくっついている。
「何て書いた紙?」
訊いた私に、祖父は何も答えなかった。目線も、アルバムから離れない。
アルバムを見る祖父の姿はほとんど毎日見ているけれど、私自身が中をじっくり見たのなんて、もう何年前かわからない。祖父が開いていたのは、私の写真ばかりのアルバムの最初のページ。たしか、あそこには私の名前を書いた紙が貼ってあった。
『命名 歩未』
でも、毎日のようにアルバムを開いているのは祖父だけで、たぶん紙を剥がしたのも祖父だと思う。何を思って、祖父は突然紙を剥がしたんだろう。
「ずっとあんな感じ?」
私は台所に行ってから両親に尋ねた。両親は揃って頷いた。
「今日は何のスイッチが入ったかな?」
言いながら父は居間の見える位置まで移動して、祖父の背中を静かに見つめた。
「いつ剥がしたかな……?」
おつゆをお椀に入れながら、母が呟く。
「毎日見てるのに今朝言い出したから、最近じゃない?」
父は一旦そう言ったけれど、しばらくして、
「そうとも限らんね」
とぽろっとこぼした。
祖父は声をかけられてもなかなか朝ごはんの席につかなかった。やっと食べはじめてからも、何度も紙のことを尋ねて、ごはんを終えてすぐまたアルバムを開いた。デイサービスの迎えが来るまで、ずっと。
父が出勤してから、母はデイサービスに電話していた。こんな状態じゃ、行かせるのも迷惑かもしれないと母は考えたんだと思う。でも、とりあえずは迎えにきてくれることになった。私はそのあとすぐ出勤したから見ていないけど、この日のデイへの出発は、やっぱりだいぶ手こずったみたい。
電車に乗って、まわりを見渡す。もうあの子に会えないと思っていても、これはルーティーンとして染みついていた。座る場所はいくつか空いていた。座席に座って15分、私は祖父の背中を思い出してた。食らいつくみたいにアルバムを見ている、小さな背中。
アルバムの紙のおかげでいつもの騒動にはならなかったけど、食事中1分おきに紙のことを訊いてきたのは、立派な1つの騒動だった。
(おじいちゃんはなぜ、今更紙を剝がしたんだろう? そもそも、ほんとうはいつ剥がしたんだろう? 何を書いた紙か答えなかったってことは、もう書かれた内容を覚えていなかったのかもしれない。剥がした紙は、どこに持って行ったんだろう?)
ほんとうに、わからない騒動が増えてきた。祖父にとっては十分な理由があるにちがいないけど、私たちにはわからない動機。
(私たちがわかってあげられない世界にいるとき、おじいちゃんは、必死に何を思ってるんだろう……)
言いようのない孤独を湛えた祖父の背中は、なかなか頭を離れない。
しばらくして降りる駅に着いたから、重い身体に力を込めて立ち上がった。




