36話 6回目の金曜日
「やっぱり今日も会えなかったし、メールもなかった」
夕食の片づけをしている母の背に、私は言った。朝の通勤電車であの子の姿を見られたのは、もうかなり前。メールのやり取りを何日かはしたけれど、それももう1週間前のことになっていた。母は、私の言葉に、手を動かしたまま相槌をくれた。
「今まで言ってなかったと思うんだけど、最近よく夢を見るの」
母はほんの少しの間頭の中で何かを探したみたいだったけど、お皿を洗う手を止めてくれた。
「夢?」
私は頷いて、どんな夢か説明した。最近よく見る、子どもだけで野原の家に住んでいる夢。一緒に住んでいた子が順番に出て行っちゃって、私が家の外を歩いたら、今まで住んでいなかった女の子が家に来る。でもその女の子は、子どもの私が声をかけたら去ってしまった。離れて見ていた大人の私は、吸い込まれるようにその腕を掴んだ。その刹那、風が吹いて私は目覚めた。--それが、1番最近に見た夢の終わり。
毎回最初から同じ夢を見ていること、見るたびに少しずつ夢の場面が進んでいることも一緒に話した。ついでに、『何度も同じ夢の続きを見る』って、スマートホンで検索したということも。
「いろんなこと考えちゃって。意味を欲しくなっちゃって」
母は、言葉にはせずゆっくりと頷いてくれた。
「どうして、子どもの私は知らない子と住んでたんだろう? どうして、“夢の最後の女の子”は私から離れていったんだろう? “夢の最後の女の子”と、“あの子”と、月曜日に会った男の人に言われた“あいつ”と、ニュースになってた“最近身元のわかった女の子”を、私どうして重ねちゃってるんだろ……?」
笑って話しているつもりだった。でも、母は私の方に向き直って、何も言わずに抱きしめてくれた。
「お母さんも、言ってたよね。“あいつ”と“あの子”と“最近身元のわかった子”、タイミング的に同じとは考えにくいんじゃないかって。……私もそう思う。……わかってるけど、重なっちゃうの」
母は私を抱きしめたまま、私の頭を、ぽん、ぽんとしてくれた。
「だから、決めたの」
母に身を預けたまま、私は告げた。
「あの子がどこかで、どんな形でも、元気でいてくれたらそれでいい。元気っていうかね、うーん……」
1度言葉を切って、目を閉じて呼吸をした。もう1度だけ、言葉を探した。
頭の中を、清んだ空気が通り抜けた。
「縛られずに、在りたいように在ってくれたら、って。そう願うことにした」
目の周りと、鼻の頭が熱くなった。笑えていないんだって気がついた。母は、長い間私の頭をぽん、ぽん、としてくれたけど、もう1度腕に力を込めて抱きしめてくれた。
どうして、そう決められたかは言わなかった。あなたに言われた言葉、夢から覚めても身体に感触の残ってた風、目覚めてから読んだ夢についてのネットの記事。そのうちのどれかか、ぜんぶか、ほかのものか。ーー私自身、どれがきっかけで決められたのか、正直わかっていなかったから。母の抱きしめてくれた腕には、心地よい重さがあった。
湿気が入るから、窓もカーテンもぴっちり閉めて、クーラーをつけていた。ほんのかすかに、雨の音が聞こえていた。
母は、私にまわしていた腕をそっとほどいた。水を出して、残りの洗いものに取りかかる。水が出始めたら、雨の音は、もう聴こえなくなっていた。
その夜、私はベッドに入って目を瞑る前に、ひとりごとを呟くみたいにあの子に言った。
「おやすみ」
って。




