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18話 4回目の火曜日

 前の日にあの子と別れてからこの日の朝電車に乗るまで、私はとても不安だった。漠然とした直感でしかなかったのだけれど、あの子が電車に乗ってないんじゃないかと思って。昨日の別れ際のあの子は、私にそう感じさせた。


 電車に乗ると、あの子は2人掛けの座席に座ってた。乗っているのがわかっただけでもほっとしたけど、あの子が乗ってきた私に笑いかけてくれて、泣きそうになった。

「おはよ」

座った私に、あの子はいつも通りの言葉をくれた。私の気持ちのせいだろうけど、その声はいつもより明るく聞こえて、それがかえって心に刺さった。

「おはよ」

いつも通りの声で返そうとしたけれど、ちゃんといつも通りだったかはわからない。ただあの子は笑ってくれた。


 いつもみたいにお互いのスマートホンを見せ合いながらかわいい服や雑貨を見ていたけれど、私の気持ちは上の空というか、何となく落ちつかなかった。一緒に過ごせるだけでいいと思ってそばにいたのに、故意か無意識か長い間考えないようにしていたことーー私の中で問題ではなかったことを、考えてしまっていた。


「しばらく、出かけるの厳しいかも」

 私の気持ちを見透かすみたいにあの子が言った。目はスマートホンの方に向いていたけど、あの子は私を見ていたと思う。私から見えるあの子のうしろには窓があった。空は灰色の雲に覆われていて、窓から見えるすべての色がふだんより何トーンか暗かった。

「そっか」

 私が言えたのは、たったそれだけ。何を言うのが正しいのか、わからなかった。

 前の日の朝、雨でもあの子の周りの床が濡れていなかったのは、たまたま、ほんとうに濡れていなかったのかもしれない。私が濡れていない床に気を留めたのも、たまたまだったとも思う。もしかしたら、床が濡れてないと思ったのも見まちがいかも。でも私には濡れていないように見えたし、それを見た途端、はっとした。ぴったり合う言葉が見つからないけど、強いて言えば、何かのふたが外れたような感覚だった。

(さらちゃんは、どういう子なんだろう……?)

 どんなところで、何をして過ごしているのか。

 19歳で服の組み合わせが同じだったことは1度もなくて、ピアスも毎日ちがうのをつけて。とても優しくて、素直な子。でもおうちは、何か話したくない事情がある。それで本人にもおのずと言いたくない事情が生じていて、あの子はそれと向き合いながら生きている。だからたまに、これからパリやニューヨークに行くんだとか、不思議なことも言うんだと思ってた。

 誰にだって事情はあるし、他人じゃわからないことがある。あの子がどういう子なのか疑問に思ったこともあったけど、あの子が話したくないのなら訊かなくていい。あの子が見せてくれるあの子といられるだけで、私はいい。ーー長い間そう思ってた。だから、考えないようにしていたし、問題じゃなかった。でも、あの床を見て何かのふたが外れたときから、またじわじわとあの子の見せないあの子のことを知りたいという思いが、心の中に滲んでた。



 外で雨が降り出した。窓に小さな雫の線が次々できた。

「ね、訊いていい?」

「いいよ」

私が尋ねると、あの子はなんのことかわかっているみたいだった。元気いっぱいな声とはちょっとちがう。でもいつもみたいな明るさが声の中にまだあって、目は私の方をまっすぐ向いて。

 私が口を開こうとすると、あの子は穏やかな表情で首を振った。

「でも、質問は明日ね。もう着くよ」

あの子の言う通り、車内放送で私の降りる駅が案内された。

「ほんとだ。ま……」

またね、と言いかけて、呑み込んだ。

(明日も、いてくれる?)

そんなこと訊けるわけがなくて、私は言葉に詰まった。

「また明日ね」

あの子は、ただほほ笑んだ。


 電車を降りて、私は電車が見えなくなるまで見送った。昨日からの不安がむしろ昨日より大きくなって、心の中に残っているのはわかってた。

 

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