16話 3回目の日曜日
重く引きずられる足音が、ゆっくりと近づいていた。
(来た)
祖父のスイッチが入って騒動があり、それがひと段落して、両親は食材の買いものに出かけた。家には、祖父と私だけ。私は読んでいた雑誌から目を上げて祖父が顔を出すのを待った。
「歩未ちゃん」
横開きの磨り硝子の戸から顔を出した祖父は、首を傾けながらうれしそうに目をキラキラさせていた。まるで、さっきの騒動がなかったみたいに。
「なぁに?」
私も、鏡のように首を傾けた。祖父は、ますます表情を輝かせて、3歩左へ足を引きずる。身体が、戸から離れた。
「お父さんとお母さんは?」
言いながら祖父は部屋の敷居をまたぎ、ゆらゆらと部屋の定位置ーー円卓を挟んだ私の向かいに向かって行った。
「買い物行ったよ」
祖父が座椅子に座ってから私は答えた。
「あぁ、そう」
祖父は私を見て頷き、置いてあったリモコンでテレビをつけた。もう、目からうれしそうな輝きは消えた。テレビは、野球中継。でも祖父の応援しているチームの試合じゃなかった。テレビをつけたまま、祖父は円卓にあった新聞を開く。私も、テレビは消さなかった。
まだそんなに時間は経っていなかった。けれど、祖父は気になって仕方なかったみたい。いつものことではあるのだけれど。何度も新聞から目だけを上げて、向かいに座る私を見ていた。
「歩未ちゃん」
何度も私を見ていた祖父が、やっと私のことを呼んだ。居間に来てから10分くらい。野球中継よりも低く小さく、おずおずとした声。呼ばれて初めて、私は顔を上げた。
「なぁに?」
頬杖をついて、口元を緩めて。
祖父はしばらく、柔らかい表情で私を見ていた。ほっとしていたのかもしれないし、うれしかったのかもしれない。でも、同時に孤独をたたえてもいた。いろんなものと関わりのない世界にいるみたいな穏やかな表情をしている時間が多くなってはいたけれど、騒動のあとは、こういう表情がよくあった。
「いや、何でもない」
結局、祖父はまた新聞に視線を落とす。いつも通り。
「なぁに?」
いつも通り、私は尋ねた。祖父はすぐには何も言わなかったけれど、私が雑誌に視線を落としてからいつも通り話しはじめた。
「悪いのは、おじいちゃんなんじゃ」
いつも通りの言葉。いつも通りの表情。
「どしたの?」
私も、いつも通り再び尋ねる。
「お父さんとお母さんが、せっかくおじいちゃんのためによくしてくれとるんに……」
祖父の言葉はその通りだった。認知症があると言っても、祖父のつい起こしてしまう騒動は、祖父がいけないというしかなかった。そして私が騒動の場にいたかどうかに関係なく、祖父はいつも私に具体的なことは言わない。言いたくないのと、言っても私にはわからないと思っているのと、両方だと思うけど。そういう思いは、まだしっかり祖父にある。
「おじいちゃんがわかってくれてるんなら、もういいよ」
いつもの通り笑って、私は立ち上がった。
私が台所へ入って行くと、祖父は座椅子の背もたれからのろのろと身体を起こした。歩く時と同じように、この時は四つん這いで、手足を引きずりながら前に行く。野球中継の流れるテレビの前でぺたんと座って、テレビの下の棚を開けた。そこには、アルバムがある。祖父は1冊ずつ棚から出して、自分の横に積み上げた。最後の1冊は、自分の前に。重く引きずるみたいに表紙をめくった。
何分かして私が台所から戻っても、祖父はそれに気づかなかった。いつもの場所では祖父のいる場所と近すぎてさすがに気づかれると思ったから、私は普段の母の場所に腰を下ろした。積み上がったアルバムには、私がぎっしり詰まってる。もちろん、祖父が開いているアルバムにも。1つのページをじっくりと見て、次のページを時間をかけて指で拾って、壊れものを置くようにページを繰った。
両親のいない間に私の顔を見て、決まった言葉を私と交わし、ひとりになったら時間をかけてアルバムを見る。ここまでが、騒動を起こしたあとの、祖父のルーティーン。その時の祖父の背中は、とても小さい。この時は家にいなかったけど、両親はこの祖父の背中を見ながらいつも悩んだ。
それでも、祖父の唯一の願いは、最期まで家で過ごすこと。祖父は事あるごとにそれを言う。
野球中継が盛り上がっていた。ホームランが出たみたい。でも、祖父の視線は上がらなかった。




