第16話 演奏会
そして事件から数日後、クレアは目の前で繰り広げられていたピアノの演奏を聴き入っていた。
今日は妹と一緒にトラスニークで行われたジュニアピアノコンクールに訪れていた。
場所はエニール記念音楽堂。
トラスニークで屈指の資産家一族の名を冠するコンサートホールで、一族は今回のコンクールの主催者でもあった。
全国大会はヨシュアでも二年ぶりの開催とあって、観覧席には多くの人々が詰めかけ未来の一流ピアニスト達の演奏に聞き惚れていた。
そんな聴衆の中にクレアとミリアが居た。
お目当てはコンクールの後半に行われるミリアのボーイフレンド、マシュー・イグリッドのピアノ演奏だ。
彼がコンクールに参加すると聞いて、姉が方々手を尽くしてプラチナ化したチケットを妹の為に手に入れたのだ。
チケットを渡した瞬間、妹は飛び跳ねて喜びを露わにした。
そんな妹の喜ぶ顔を目にして姉の表情もほころぶ。
先日、リードヒルの件で元気を無くしていた妹を励まそうとする、せめてもののプレゼントだったが効果は覿面、妹は前から胸を弾ませながらこの日を待ちわびていた。
しかしクレアはここに来たのはただ演奏を聴きに来ただけではない。
やがて前半の組の演奏が終了すると、コンクールは休憩時間に入った。
「お姉ちゃん?」
立ち上がった姉を見て妹が声を掛ける。
「これから知り合いに会う約束があるの。彼の演奏までには帰って来るつもりだから、あなたはここに居てなさい。ふたりでマシュー君を応援しましょう」
そう言い残すとクレアは妹を置いてひとり演奏ホールを出ていった。
ホールを出たロビーではひとりの男が立ったままクレアの到着を待って居た。
男はその鍛え抜かれた体躯と姿勢の良さから現役の軍人だと判別出来る。
「マリウス少尉」
クレアは待ち人の名を呼んだ。
「やあ、クレアさん」
男もクレアを呼び返す。待ち人の正体はマリウス・ルーメンだった。
「では行きましょうか」
「はい」
挨拶の後、二人はロビーから歩き出した。
並んで歩く二人の姿は意外と恋人同士に見える。
「今日のドレス姿とても素敵ですよ。ロビーの中で誰よりもキラキラしている」
「マリウス少尉こそ見違えて見えますわ。でもキラキラだなんて、冗談でも恥ずかしいですわ」
「お世辞ではありませんよ。正直、こんな美人を今だけでも独り占め出来て、カナセにざまあ見ろと言って上げたい気分ですよ」
「まあ、少尉ったら。そう言えば軍服姿以外の少尉さんって初めてじゃないかしら?」
「本当はあっちの作業着の方が気を使わなくて楽なんですけどね。こういう席はどうも落ち着かなくて」
「もう、そんな横着な事、言って……。パロマが聞いたら可哀そうですよ」
そう言って二人は笑い合った。
暫く二人が歩き続けると、ロビーから離れた廊下でひとりの男が立っていた。
男の胸には目印の白いバラが飾られていた。
「マリウス様とクレア様でいらっしゃいますね」
「はい。あなたが……その関係者の方ですか?」
マリウスが答えると男は頷いた
「この奥で主人がお二人をお待ちしております。どうぞ」
そう男が答えるとクレア達は廊下の奥のとある一室に通された。
部屋の中ではひとりの中年の男がソファに座っていた。
男は立ち上がりながらクレアの方を見ると、特徴的なキノコの様な髪型を無意識に掻き分けてみせた。
「お久しぶりです。エニールさん」
「久しぶりだね、クレア・リエル」
男の正体は魔煌士組合で事務課長をしていたボン・エニールだった。現在は組合を辞めエニール財団の事務局長の座に収まっている。
「エニールさんもお変わりなく」
そうクレアが答えるとボン・エニールも久方ぶりに会う少女の顔を見て笑顔を浮かべた。
しかし前に会った時よりも頭髪に白髪が混じり疲れているように見える。
「エニールさん、こちらがマリウス少尉です」
「初めまして、マリウス・ルーメンです」
「ようこそ、少尉」
二人の男が挨拶を交わすと、一同はソファに座った。
運ばれて来たお茶を口にしながらエニールは言う。
「しかし本当に久しぶりだね。国奉隊の件で詫びを入れに村に行った時、以来か……。今は何をしているのかな?」
「ロータスでファイタス総帥の秘書官の仕事に着いています」
「そうだ、ファイタスだ……。総帥はお元気かね」
「はい、元気があり余り過ぎて困っているくらいです」
そんなクレアの言い方に一同は笑う。
「だが不思議な物だ……。あのカナセ君がねぇ~」
まさかあの礼儀知らずの田舎少年がエリザベス・アムンヘルムの唯一の弟子であり、ファイタスの総帥に上り詰めるとは、エニールは今でも信じられないでいた。
「つくづく自分の人生とは判らない。否、我が身の人を見る目の無さを痛感するよ……」
ボン・エニールは密かに溜息を吐く、そしてクレアに続けて言った。
「それと私の甥っ子の事なんだが……」
「トギスさんも元気でやって居られますわ。向こうではファイタスの戦士として再訓練を受けて居られるところです」
「ならトギスに伝えてくれないか? もうそろそろ帰ってきてほしい。灸を据える為、海兵隊に入れたのは良いが、こちらも少々やり過ぎた。帰って来ればお前は立派な一族の英雄だよと。出来れば総統閣下にもそうお取り計らい願いたい……」
「判りました。二人にはそうお伝えいたしましょう。ところでエニールさん」
クレアはやっと本題に切り出した。
「今日、ここへはある事を確かめる為に少尉とお伺い致しました」
「要件は重要事項なのでこの席で直接、話すと手紙には書いておったが……」
「最近、ヨシュアに出現するパスカル通りの怪物の件です」
そう答えるとクレアはボン・エニールの表情を伺った。
彼の表情が変わる事は無く、平然と言い返す。
「うむ、その話なら私もニュースで知っている。だが流石に怪物に関しては私は門外漢だ。若い君達の方が逆に詳しいのではないかな?」
「いいえ、私達にもほとんど情報は入っては来ません」
「ならば我々がその事をここで語り合っても意味は無いな……残念ながら」
「ですが聞いて下さい。私とこちらの少尉とは怪物を巡ってある共通点があるのです」
「共通点とは?」
「怪物と直接、接触した事です。なのですが件の情報不足の為に私達はお互いがその事実を知らずに居ました」
「それを何故、知る事になったのかな?」
「それについてまず、私と少尉は以前からの知己の仲である事を知っておいて下さい。私が水軍のギップフェル島攻略作戦に参加した折、彼はカナセ君のバディという立場で、私自身とも友人同士の関係でありました。そして彼の婚約者である女性とは私は医療現場で同僚の関係でもありました。そこまではよろしいでしょうか」
「うむ、それで?」
「ここからは一旦、少尉に説明して頂きます。お願いします、少尉」
「判りました。実は数日前、トラスニークの軍港で怪物が侵入したという事件が起きました。怪物の目的は窃盗です。被害は施設の損傷と私を含む十七名の負傷者、それと爆薬類200㎏相当と一週間分の携帯食料が基地内からが盗まれました。私はその怪物と戦闘に入りましたが、結局、怪物は取り逃がしました」
「それはお気の毒にな……」
「しかし問題は事件が終わった後でした。怪物の逃亡後、基地の警備隊の中で早速、追跡隊が組織され私もそれに加わる事になったのですが、基地上層部から突然、追跡中止の命令が出されました。更に事件の事は他言無用と戒厳令まで出されたのです。そして事件は施設内の設備の老朽化による火事という事で片付けられました」
「うむ、確かにおかしいな……しかし軍の思惑などこちらが知る事もできまいて」
「でも、事件にはまだ続きがあるんです、エニールさん」
今度はクレアが答えた。
「その次の日、リードヒルに居た私達姉妹とモニカ先輩がその怪物に襲われたんです」
「おい、それは本当か?!」
姉妹が襲われたと聞いてボン・エニールは驚いた顔を浮かべた。
「幸い、私と妹は無傷でした。ですがモニカ先輩は怪物に片腕を切り裂かれ重傷です。今はトラスニークの病院に入院されておられます」
「それは、いかんな……」
モニカ負傷の件を聞いてエニールは眉を潜ませる。
「しかしそんな事になって居たとは儂も知らなんだ……」
「そうでしょうね。モニカ先輩と怪物の遭遇戦の件もニュースにはされていないのですから。恐らく、知っているのは先輩本人と私達姉妹、事件現場に駆け付けた警察官達と先輩の治療に当たった医療関係者。そして組合と警察、そんな所だと思います」
「……」
「エニールさん、続きを話してよろしいでしょうか?」
「ああ、構わんよ……」
クレアの呼び掛けにエニールが渇いた声で答える。
「そんな中、その医療関係者の中に少尉の婚約者の女性が居られました。普段の彼女なら決して入院患者の病歴を口外する事は無いのですが、今回の件に関しては婚約者も被害者の一人という事もあり、少尉にその事件の事を打ち明けたのです。そしてそれを聞いた少尉はすぐに私の下に手紙を送られ、お互いに情報交換を始めました。お陰でそこで様々な事実が浮かび上がりました」
「何かな? その事実とは」
「私から説明します」
そう言ったのはマリウスだった。マリウスは懐から一枚の写真を取り出すと、それをエニールの前に置いた。
写真にはモノクロで一本の短い錫杖が映っていた。
「変化の杖と呼ばれるマギアルマの一種です。魔煌士の力が無い者でも自在に姿形を変え、超常的な力を付与させる代物です」
エニールは写真を見ながら陰気臭そうな表情を浮かべる。
「では少尉はその怪物とやらが魑魅魍魎の類ではなく、この魔煌具を使った人間によるモノだと仰りたいのだね」
「恐らくは……」
「ふん、一体、どこの誰だというのだ! こんな手の込んだ悪戯をする暇人は」
そう不機嫌そうにエニールは答える。
しかしそれをクレアが否定した。
「エニールさん、これは悪戯なんてものではありません。この国の魔煌関係者を狙った立派な犯罪です。現に私やモニカ先輩は魔女だから狙われたのです」
「だから何故、怪物は魔女を狙うのだ?」
「その結論に至る前に聞いて下さい。本品は国宝級の魔煌具でヨシュア国内では一本しか現存しません。そして現在の所持者は与党国会議員であり、エニール家の当主でもあられるタモン・エニール氏、その人です」
「待ち給え、少尉! 今の言葉は聞き捨てならんぞ!」
エニールが大声を張り上げながら立ち上がった。
「それではまるでエニール家の者が今回の事件を企てた様な言い草ではないか!」
「残念ながら我々の結論もそこに至りました」
「エニールさん。私は事件後、病床のモニカ先輩からお話を伺いました。怪物は交戦中に先輩の名前をはっきりと呼んだと仰いました。それは憎しみを込めたような物言いだったらしいです。そして私が襲われた時は、私は間近で怪物と目が合いました。確かにその顔は大猿の化け物でしたが、今思えば、その時、目撃した怪物の目つきに私は見覚えがありました。その顔は……」
「いい加減にし給え!」
エニールは顔を真っ赤にしながらクレアの言葉を遮った。
彼は明らかに怒っていた。
「話があるから会ってみたらこんな世迷言を聞かされるとは! クレア、私は君を買っていたいたのにがっかりだよ!」
「エニールさん!」
「では君達はこう言いたいのだな! その怪物の正体は変化の杖を使ったエニール家の人間で、それを知っていたエニール家は事件の後、軍やマスコミを使って事件の存在を揉み消したと!」
「エニールさん、聞いて下さい。私達はそんな些細な事を問題にしているのではないのです。これ以上事件が大事になれば被害者が増えるばかりではなく軍や組合も本気で動き出す事になります。そうなればもう孤立した「彼」を救って上げられる事は出来ません。私達はそうなる前に事件を解決したいんです! 手遅れになる前に!」
「……」
クレアの言葉にエニールは絶句した。自分を見つめる真剣な眼差しに体が縛り付けられる。そして彼女の言葉が心の底からの本心だと気付いた時、自然と体の力が抜け後ろのソファへと腰掛けた。
「君達の中ではもう怪物の正体が誰なのか判っているのだろうね……」
「確かめさせて頂きますか?」
「その必要は無い……。君達が思っているあの男だよ……」
エニールの一言にクレアは大きく溜息を吐く。
「しかし、どうしてそんな事に?」
「やはりあの日の事が原因なのですか?」
クレアが最後に訊ねる。
「それは……」
だがエニールが言いかけた時、外の方から騒ぎ声が聞こえた。
「なんだ?」
マリウスが思わずつぶやく。
すると外に居たエニールの使用人が部屋に飛び込んで来た。
「旦那様、大変です! ホールに侵入者です!」
「何だと!」
その一言で部屋の中も騒然となる。
「警備はどうした? ここには高位の魔煌防犯システムが……まさか!」
「はい、例のパスカル通りの……」
使用人の言葉にクレアとマリウスが部屋を飛び出した。
そして大急ぎでホールへと向かった。
「クレアさん、さっきのエニール氏の言葉……」
「はっきりと聞きましたわ。防犯システムがどうとか……」
「あれってシステムが壊れていて作動しなかったという事ですよね?」
「いいえ、逆にシステムは壊れていなくて素通りさせたって事ではないでしょうか?」
「この音楽堂でシステムが素通りさせる人物。だったら侵入して来た怪物の正体は、我々が予想した通り、エニール家の人間!」
二人はホールに戻ろうとする。
しかしホールの出入口扉の前は逃げ惑う人々の大群で既に塞がれていた。
「これじゃあ、前に進めないわ……」
クレアは人だかりの中からミリアの姿を探す。
しかし何処を探しても妹の姿は見えない。
「クレアさん、こっち!」
別の通路からマリウスが手招きする。
クレアが少尉の下に辿り着くと、一人の警備員が傍に居た。
「彼が舞台裏から案内してくれますって」
早速、二人は警備員に案内を頼むと舞台裏から音楽ホールに進入した。
舞台の上では照明に照らされながら破壊されたピアノは横たわっていた。
二人が観客席の方を見ると出入口に殺到する観客席にも目に暮れず、空になった座席の上で仁王立ちする怪物の姿があった。
「うおぉおおおおおおおおおおおおおお!!」
整然と並べられた椅子の中で怪物がいきり立つ。
「いい気になってるな。しかし何故こんな所に?」
「警備員さん、館内の防犯システムを切って。こちらが攻撃したらシステムから反撃を受けるわ!」
怪物に向かって二人が身構える。
しかし怪物の胸元を凝視した瞬間、獣の腕に抱えられた人質を発見した。
人質の正体はミリアだった。
「嘘、そんな……」」
人質にされた妹の姿に姉は愕然とする。
「ミリアー!」
「お姉ーちゃん!」
ホールの中で姉妹の悲痛な叫び声が轟き合う。
しかし妹は丸太の様な太い腕にしっかりと拘束され、解放される気配はない。
「防犯システムを解除しました!」
舞台の袖から警備員の声が返って来るとそれを聞いたマリウスは隠し持っていた護身用のコアで戦闘準備に入った。
しかしミリアが人質に取られては下手に手出しが出来ない。
「さて、どうする?」
早くも手詰まりな状態、だが時間が経てばミリアの危険の度合いもそれだけ増していく。
そんな時だった。観客席の間の狭い通路を一人の少年が怪物に向かって駆け抜けていった。少年の両腕には先ほどまでピアノに備え付けられていたはずの壊れた椅子が握られていた。
「ミリアちゃんを離せ!」
少年の正体は礼服姿のマシュー・イグリッドだった。
マシューは手にした椅子を振り翳すと果敢に怪物に挑み掛かった。
しかし怪物の振り払った片腕の一撃を浴びて敢えなく返り討ちにされる。
「キャアアアアアアアアアア!」
傷付いたマシューを見にしたミリアが悲鳴を上げた。
「マシュー君!」
観客席の横に転がる少年の姿を見てクレアが慌てて駆け寄る。
しかし少年の勇気は無駄でなかった。
怪物の注意がマシューに注がれた瞬間、舞台に居るマリウスに背を向けた。
その隙をマリウスは見逃さない。
マリウスが観客席に飛び込むと座席の上を踏み越えながら怪物に迫る。
「シェフィールド!」
マリウスが魔煌技を唱えると風の魔法が発動され、威力で銃弾を上回る真空の刃が怪物の背中を切り裂いた。
「ぐぎゃあああああああああ!」
突然、起きた背中の痛みに怪物が思わずのけぞった。
しかし変化の杖の効果で強化された肉体は致命傷に至らない。
振り返った怪物が今度はマリウスと真正面から相対する。
そんな化け物に向かってマリウスは果敢にも真正面から飛び込んでいった。
戦士の誉れよ、少年の勇気を湛え、か弱き少女を救わんが為に自分の命を賭ける事に何の躊躇いがあろうか。
「止めんか、タモン!」
ホールの中でボン・エニールの声が響いた。
その声に怪物が思わず怯むとマリウスが二撃目を放つ。
今度はミリアを掴んでいた左肩が切り裂さかれ怪物の腕から少女が離れた。
ミリアは床に落ちると同時に機転を利かせ、駆け寄って来る姉の下に逃げ帰る。
「お姉ちゃん!」
「ミリア! 良かった無事で!」
姉は急いで妹の手を引くと座席の影へと身を隠した。
「うぎゃああああああああああああああああああああああ!」
一方で怪物は流石に痛みを堪え切れず、傷付いた肩を掴みながら悲鳴を上げた。
そして周囲の座席を蹴散らしながら逃走を試みる。
「タモン!」
怪物に向かって再びボン・エニールが叫ぶ。
しかし怪物は聞く耳も持たずホールの中を駆けずり回ると、やがて誰も居なくなった舞台の方へと走っていった。
傷付いて動かなくなったマシューの下には既に姉妹が駆け付けていた。
クレアはモニカの時と同じ応急キットをハンドバッグから取り出すと、マシューの体に魔煌治療を施し始めた。
「マシュー君! マシュー君! しっかり!」
ミリアが横たわるマシューに懸命に声を掛ける。
マシューの怪我は重症だった。胸板に掛けて爪で切られた痕があり、出血も見える。
「お姉ちゃん!」
ミリアが心配気に姉の方を見る。
「大丈夫よ、ミリア。こんな怪我、お姉ちゃんがすぐに直して上げるから。後遺症も無くね。それよりもマシュー君の手を握って励まして上げてて」
そう答えながら姉は治療を続けた。
そんな中、倒れたマシューから声が聞こえた。
「ミリアちゃん……」
「マシュー君、無理にしゃべっちゃ駄目だよ……」
「君に怪我は?」
「マシュー君のお陰でどこも痛くないわ」
「そう、良かった……僕、頑張ったよね」
「うん、マシュー君、凄くかっこよかったよ!」
そう言ってミリアが褒め称えるとマシューは虚ろな瞳を浮かべながら笑っていた。
一方、怪物の影は舞台袖の非常口から脱出した。
「待てぇ!」
それをマリウスが追い掛ける。
しかしマリウスが外扉の前に立った頃には既に怪物の姿は町の中へと消えた後だった。
やがて警察と救急隊が到着しホール内の事態収拾に努めていく。
その頃にはマシューへの治療は功を奏し彼は一命を取り留めた。そして治療はクレアから救急隊へと引き継がれ、救急車でトラスニークの総合病院へと運ばれていった。
その頃、マリウスは再びボン・エニール氏の下に向かっていた。
「少尉、お独りか? クレアは?」
「暫く、妹の傍に居たいと先にここを出られました」
「うむ……それは気の毒だったな。被害者には財団名義で見舞いを出しておく」
「ところでエニールさんは警察へは行かれないのですか?」
「このコンクールの主催者はエニール家だが私の立場も観客のひとりに過ぎない。事情聴集には他のエニール家の者が弁護士を連れて向かっているはずだ」
「しかしよろしいのですか? 警察に何かしらの指示を出さなくて。例えば怪物の追跡を止めさせるとか……」
マリウスが嫌味っぽく答えるとエニールは溜息を吐く。
「少尉、そう年寄りを虐めんでくれ……」
「そんな老け込む様な御年でもないでしょう。少なくともウチの両親よりはお若いはずですよね、エニール財団事務局長殿」
「もしかして君は怒っているのかね?」
「ええ、勿論。特に今回、ひとりの勇気ある少年が巻き込まれました。なのに責任ある大人が目の前でズルをするのを見てると腹が立つではありませんか?」
「それは手厳しいな……」
「多分、私の親友のカナセ・コウヤだったら……………………散々、怒鳴り散らした挙句、大暴れするでしょうね」
そうマリウスが答えるとボン・エニールは溜息を吐きながら天井を見詰めた。
「判った、少尉。本来、エニール家の尻ぬぐいが私の仕事だが……そろそろ年貢の納め時の様だ。それに私もあの少年が目に前で傷付く姿は流石に堪えた。少尉の知りたい事は全て話そう……私が全責任を持ってね」
そう答えてボン・エニールは大きく肩を落とした。




