第8話 魔煌士組合
翌朝、カナセは長椅子の上で目を覚ました。
周囲を見渡すとそこは居間らしいのだが色彩はどこも明るく家主が若い女性である事を教えてくれていた。
「ああ、ここってクレアの家だったよな。痛てて……」
眠気が醒めると昨日、頭の痛みが甦る。
考えてみれば昨日からクレアに殴られっぱなしだ。
居間は台所や食堂と一体になっており、テーブル越しに朝食の支度をするミリアの姿が見えた。
「あ、おはようございます」
鍋を持ちながらミリアが挨拶をしてくれた。
「ああ……おはよう……」
「もうすぐお姉ちゃんが起きてくるはずですから。それまで待って居て下さい」
彼女の笑顔は明るかった。昨晩みせたカナセに対する警戒心も今はない。
そんな彼女を見ているとカナセの気持ちも軽くなる。
「いつも朝ご飯はミリアが作ってるのか?」
「いいえ、持ち回りなんです。でもお姉ちゃんは出張帰りの日は私が当番してます」
「へぇ~、そうなんだ」
カナセが感心していると暫くして短い廊下を歩く音がした。
そして居間へと続く廊下の扉が開く。
「ミリア、悪いけど今朝のお茶は濃いめに……」
目を擦りながら現れたのはミリアの姉だった。
だがカナセと目が合った途端、居間の空気が凍り付く。
クレアは白色のネグリジェ一枚の姿で立っていた。
ネグリジェの素地は透けて見えるほど薄く、胸元の二つの小さな乳首から履いていた白い下着までもが露にしていた。
そんな自分の姿にクレアは愕然とした。
一方、あまりにも無防備で官能的な光景にカナセ自身も驚きを隠せない。
しかし何とか平静を取り戻すと戸惑いながらも全身を硬直させたクレアを軽く茶化してみせる。
「お、おはよう、クレア。朝から凄い格好だけど、それってモーニングサービス?」
だが彼女から返事は返って来ない、代わりに顔を赤らめたまま無言で扉を閉め直すと、一度居間から姿を消した。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!……」
扉の向こうで泣き崩れたクレアの咆哮が聞こえる。今の彼女は二人が見えないところで後悔と羞恥と自責の念でのたうち回っているはずだ。
「すみません……お姉ちゃん、家ではあーなんです……」
姉の不手際を妹が謝罪した。
「本当はおっちょこちょいで隙だらけの人なんです……ですからよく失敗して……」
「まあ、ミリアが気にする事ないよ。家の中で気が緩むのは当り前だし……」
そう言ってカナセは笑いながらミリアを慰めてみせた。
しかし実際はネグリジェ姿のクレアを前に体の芯が火照っていた。
「けどこんな僥倖にちょくちょくお目に掛かれるってんなら、やっぱここに来て正解だったな……」
そう思うと悦びでにやけ笑いが止まらない。
暫くしてクレアが再び居間に入ってきた。
先ほどとは打って変わってケープこそ外しているが昨日と同じ緑色の魔女の略装だった。
そして何事も無かった様に食卓の自分の席に座ると三人だけの朝食が始まった。
「いや悪いね。朝ご飯まで頂いちゃって」
「気にしないで。後見人としてこれ位の事は当然だし」
しかし食卓で先ほどのハプニングに関しては一切会話に上がらない。
あれは既に終わった事なのだという無言のメッセージだ。
朝食のメニューは雑穀粥と野菜の酢漬けという質素なものだった。
基本的に干拓地の食生活は米食が中心だった。今でこそ完璧に管理されている干拓地の水質と土質だったが開発当初は農地の管理、特に排水作業は試行錯誤の連続で、どの干拓地国家魔も長い期間、泥沼の様な浸水状態が続いた。
その為、恒久的な乾燥農地が必要な小麦栽培より頻繁な浸水でも生育可能な水稲栽培が多用されるようになりそのまま定着した。
その結果、干拓地国家では米が主食となり魔女の家でも炊き立てのご飯が毎日の食卓に上る。はずなのだが今は戦時、米はほとんどが供出させられ庶民の口に白い飯が入る事はほとんど無い。その代わりに飯米に雑穀や根菜が混ざるか、更に粥となって碗に盛られる始末だった。
だがそれでも食えるだけマシで、戦場から逃げて来た難民達などは今日の食う物も困るというのが今のヨシュアの食料事情だった。
朝食を摂りながらクレアはカナセを観察した。
「どうしんたんだ? 俺の顔に米粒でも付いてる?」
その視線に少年が気付く。
「いいえ、上手に箸を使うと思って。あんな水辺の一人暮らしではテーブルマナーも荒れた物かと思ったわ」
「生魚を手掴みで食うと思った? 残念、こう見えても死んだ師匠がうるさい人でね。行儀作法はきっちり仕込まれたんだ」
「ならそのお師匠様に感謝ね」
「ところでさ、後見人さん」
カナセが話題を変えた。
「俺は今日、何をすれば良い? 連れて来たんならそれなりに計画みたいな物があるんだろ? 別に今日くらいは薬屋の店番でも構わないけど」
「残念だけどお店はミリアだけで足りてるわ。その代わりあなたには今日、私と一緒に付き合ってもらうわ」
「付き合う?」
「言っておくけどデートじゃないわよ。まずはトラスニークの市庁舎に行って在留外国人登録をしてもらいます。後はその足で魔煌士組合に行ってもらうわ」
「トラスニーク? 魔煌士組合?」
「トラスニークは今のヨシュアの新首都で北に向かった所にあるわ。そして魔煌士組合は私達魔女や魔煌士を統括するギルドよ。そこであなたを魔煌士登録するの。この国で魔煌士として大手を振って働かせる為にね」
そんな説明を聞きながら食事が済むと二人は組合に向かう準備に入った。
カナセはクレアがどこからか持ってきた紳士用の一張羅に袖を通す。
「仕舞ってたお父さんのお古よ。もう使わないからカナセ君に上げるわ」
「堅苦しいな……名前を書きに行くだけだったら身なりなんてどうだって良いだろ?」
「そんな訳いかないわ。常識的に考えてあんな血まみれの破れたシャツ一枚で行く人がありますか。それに登録は審査も兼ねてるんだから外見も判断される事だってあるのよ。それと出来るだけ今日中に村長さんの所に挨拶にいって村の居留手続きも済ませたいし、あなたが使う日常品も揃えたい」
「やる事がいっぱいだな」
「そうよ、あなたはまだ社会人のスタートラインにも立ててないんだから……。ああ、ちょっと待って。裾を直すわね」
カナセの着替えが済むと三人は店の外に出た。
そして箒に跨って出発の準備に入る。
「ミリア、悪いけど今日もお店をお願いね。帰りはそんなに遅くはならないと思うわ」
「うん、行ってらっしゃい」
箒は二人を乗せると大空に向かって上昇した。店の玄関で妹が手を振ってくれている。
「健気だね。よっぽどお姉ちゃんの事が好きなんだな。あんな妹が居るんならお姉ちゃんも張り切っちゃうよな」
「でもカナセ君、昨日の事、私怒ってるんだから」
「何で? 俺は約束通り内緒にしといたぜ」
「だからってデタラメを言う人がありますか!」
「別にデタラメって訳じゃあ無いだろ? 現にチューしたのは本当なんだし」
「ああああああああああ!! 思い出しただけで腹が立つわ! どうしてこんな人の面倒を私が見なきゃいけないのかしら!」
そう言ってクレアはわざと聞える様に嫌味を漏らした。
しかしカナセは悪びれる事もなく涼しい顔だ。
箒は水路に沿って北西へと飛び続けた。
暫くすると北端を淡海に面した大きな町が見えてくる。
「トラスニークの町よ。ヨシュアの新都で政治と経済の全部が今、あそこに集まってるわ」
「組合の本部もあそこって訳か。攻撃は受けてるのか?」
「時々、飛行機が爆撃に来るくらいかしら。流石に境界線から遠いし、防空網も整備されてるから大した被害にはならないけど」
町に近づくとトラスニークの全容がよりはっきりと見えて来た。
街は石とレンガで出来た市街地が広がっていた。
だが新都という割には町の規模はリードヒルより格段に小さい。それに建物の棟高さも低く、石畳も稀れで未舗装も目立つ。
「なんかリードヒルよりも垢抜けない感じだな。町の中でも畑が広がってる所もあるし」
「どこもそんな物よ。リードヒルの造りが特別なだけ」
二人は町の入り口で降下した。後で聞いた話では首都の上空は行禁止区域で飛ぶには事前に許可が必要らしい。
やがて運河の向こうから、一隻の水上艇がやってきた。旧首都よりも小さな町ではあったが水路や運河は網に目の様に張り巡らされ、用水や水運が充分に発達している事を教えてくれていた。
「おい、あれって水上バスじゃん」
「そうよ。あれに乗るわ」
「本当か? 俺、バスに乗るのって初めてなんだよな」
二人は水上バスに乗船した。
バスは乗合でクレアが前払いで二人分の料金を船頭に渡すと二人並んで据え付けの長椅子に座った。
朝の通勤ラッシュが過ぎたせいかバスの中の人影は疎らだ。
やがて客席が落ち着きだすとバスは再び動き出し外の景色がゆっくりと流れていった。
バスの平たい船体の底にはマギアコアの収まったコアモーターが積まれている。コアモーターはコアから得たマギを魔煌士を介さずに動力に変える魔法の動力装置だ。
この動力装置のお陰で船も車も戦車も排水ポンプもこの世界にある魔煌機械は普通の人間の力でも動かす事が出来る。
「うはっ! 凄ぇ。クレア、見てみろよ。バスが街中を走ってるぞ!」
窓枠に捕まりながらカナセが早速、騒ぎ出した。
「ちょっと、そんなに大声を出さないでよ。周りに迷惑でしょ」
それをクレアが恥ずかしそうに注意する。周りからすればカナセの行動はまさにお上りさんの典型だ。
「あははは! 今、魚が跳ねた! 網でもあったら掬ってやるのに!」
水上バスの中でカナセの大はしゃぎは続く。
そんな中、周囲の客の一部からクスクスと笑い声が聞こえた。
皆、最初は無関心を装っていたがカナセの子供の様な無邪気さ笑いが堪え切れなくなっていた。
だがそんな周囲の反応もカナセは一向に意に介する事はない。
「おい、クレア、あれ見てみろよ。こっちを見て笑ってくれてるぞ。何だ、都会者は不愛想だって聞いてたけどそんな事も無いんだな。なっ!」
「あれは笑ってくれてるんじゃなくて笑われてるの。お願いだから大人しくしてて……」
クレアは懇願するようにカナセを諭した。
だが想いは届かず、結局、カナセの大騒ぎは水上バスを降りるまで続いた。
「もうカナセ君とは絶対、バスに乗らないから……」
恥を掻かされたクレアはふくれっ面でバスから下りた。
だが笑われたはずのカナセの方は既に興味が水上バスから他の物に移り市街をきょろきょろと眺める。
「凄いなぁ~。リードヒルも凄いけどここだって中心まで来りゃ、なかなかデカい建物だらけじゃないか」
「離れ小島で育ってると、そう見えるんでしょうね!」
「それでどの建物に入るんだ?」
「丁字路の突き当りに大きな建物があるでしょ。あれがリードヒル市庁舎よ」
市庁舎は4階建ての古い重厚な石造りの建物だった。
そして窓から突き出たベランダのポールには三本の旗が掲げられている。
旗は白字に葦の穂を抽象化したデザインをあしらったヨシュアの国旗を中央に掲げると、左右に州旗と市旗が挟み込む様にはためいていた。
「ここで入国管理局の代理業務を行っているわ」
「じゃあ、この町の入管は?」
「前の爆撃で壊されちゃったわ」
クレアの簡潔な説明の後、二人は庁舎に入ろうとした。
しかし玄関前に並ぶ長蛇の列を見て、カナセが思わず身を引く。
「何だよ、これ?……」
「あなたと同じ、外国人登録で並んでいる人達よ」
カナセが訊ねるとクレアが答える。
行列は市庁舎前の玄関前をはみ出て、外の通りを数百メートル以上の距離に伸びていた。列に並ぶ人々は皆その場に腰を下ろし一様に疲れた顔をしていた。彼等が何時間もこの場に待たされている証拠だ。
「御同輩って訳か……。ここの最後尾に並ぶのか?」
「いいえ、ここに並んでいる人達は後見人の居ない人達だから、私達は別口のはず……」
そう言われてカナセは安堵した。だが今でも行列を見ただけで辟易しそうになる。
クレアはカナセを連れ立って庁舎の中に入っていった。
クレアの言った通り、後見人の居る外国人の居留手続き用窓口は別にあり並んでいる人数も二十人ほどだった。
「これはこれで時間が掛かりそうね……」
それでもクレアは自分達の並ぶ列の長さに溜息を吐く。
「しかし外国人って山ほど居るんだな」
「ほとんどが戦火を逃れて来た難民の人達よ。それでも皆、このヨシュアで第二の人生を歩もうとそのスタート地点に立とうとしている」
「それ以外は?」
「傭兵よ。戦う為にこの国に来た人たち。そして命を賭けた事でこの国で市民権を得ようとしているの」
「ふーん……成程ねぇ」
やがてカナセの番が回って来ると二人に別々の書類が渡された。カナセには当人用の外国人居留請願書。クレアには身元保証人証明書だった。
カナセは渡された書類を用意されていた別室で他の外国人と一緒に書き始めた。
それをクレアが横で眺めていると、彼の筆跡がなかなかの達筆なのに気付いた。
「綺麗な字ね。それもお師匠様のお陰?」
「まあね、魔煌士は呪文を使う商売だから言葉をぞんざいに使うなって口酸っぱく言われたからな」
「けだし至言ね」
カナセの横でクレアが微笑む。
「オートル村0番地……。オートル村って?」
住所欄に記された場所をクレアが尋ねた。
「俺が居た所から一番近い村だ」
「あの市場でコアを売りに行くとかどうとか言ってた所?」
「ああ、住所って言うのならあの村に入るはずだよな。……職業欄には何て書きゃ良いんだ?」
「普通にコアダイバーで良いんじゃないかしら」
「コアダイバー?」
「素潜りでコアの収集を請け負う人達の事よ」
「コアダイバーか……。何か、小洒落た言い方だな」
「けど重要になって来るのはカナセ君より私の後見人としての能力だと思うわ」
書類が書き終わると二人は揃って窓口に提出した。
そしてまた待合席で長い時間待たされる。
「何もかも時間が掛かるな」
「お役所仕事ですもの。丁寧が基本だから仕方ないわ。朝、早く出て正解だったでしょ? それに血まみれの破けたシャツなんて着てる人、どこにも居ないでしょ」
そんな折、後見人の居ない行列の方で怒声と罵声の両方が聞こえた。
「なんの騒ぎだ?」
カナセが待合室から顔を出すと警備員達が声の方へと走っていくのが見えた。
騒ぎの原因は列の割り込みによる喧嘩だった。
しかし庁舎内では特に珍しい事でもないらしく、騒ぎは警備員達の手によってすぐに収まった。
「やっぱり、最初にクレアに後見人になってもらって正解だったな……」
カナセは自分の判断の正しさに密かに頷いた。
やがて受付の方からカナセが呼ばれると二人は審査官の前に座らされた。
クレアの言った通り、審査官の質問は後見人の方に集中した。
しかし審査も特に滞りなく無事に終わるとカナセは違う受付で大きな茶封筒に入った書類と掌に入る程度の金属プレートを渡された。
「在留許可証よ。まだ仮だけどね。首に掛けて肌身離さず持ってなさい」
プレートの意味をクレアが教えてくれた。
「けど何で、金属製なんだろう?」
「爆弾で消し炭にされても何処の誰だか判る様によ」
クレアはさらりと物騒な事を言った。
「さて、今度は魔煌士組合の方ね……」
二人は揃って市庁舎を後にすると暫く道沿いに歩いていった。
そして前方から現れた市庁舎よりも新しめの少しモダンで装飾過多な建物に到着する。
玄関先にはヨシュア魔煌士組合本部と書かれた大きな看板が掲げられていた。
「こっちはさっきより早く終わるのか?」
「どうかしらね、審査員の判断に寄るんじゃないかしら」
「だったら昼飯前に終わらせようぜ」
「そう都合よくいけは良いんだけど……」
組合建物に入ると玄関の中央の台座に置かれた物がカナセの視線を釘付けにした。
それは直径2mを超える巨大な黒い球だった。
「おい、これって450番の大玉じゃないか!」
それは紛れもなく世界最大クラスのマギアコアだった。
「リードヒルにあった箱舟のコアよ。見るのは初めて?」
「ああ、しかしデカいなぁ、もしかしてこいつを運び出したのか」
「そうよ。大勢の人達の命と引き換えにね」
「戦争中にか? そりゃ気の毒に……」
「でもそれを単なる悲劇で片付けちゃいけないわ。このコアは大昔にそれ以上の命を繋いでいった私達の祖先の生きた証なんですもの。だから横の石板に亡くなった人の名前が刻まれているでしょ。この時の死は証を守った名誉の戦死なの。そして私達もヨシュアを守る事で彼等に続いていかなきゃいけないのよ。それを忘れない為の展示よ」
「うん、そうだな……」
クレアが熱く語る横でカナセは暫し、箱舟のコアに見入っていた。
450番コアは箱舟を動かす為の動力装置だった。これで昔は宇宙まで飛んでいたと思うとロマンを感じる。
そんな中、カナセはコアを眺めながらある事に気付いた。
「あれ、このコア。まだ生きてやがる……」
「判るの?」
クレアが逆に問い質す。
だがカナセの目には確かにコアからの煌気が僅かに感じられる。
「けど箱舟のコアはどれももう百年ほど前に力尽きたはずだよな」
「このコアは先祖が使い切る前に使用を止めたんでしょうね。また大気中の煌気が供給出来る日が来る事を願ってね」
「でも煌気の吸収はアイス・インパクト以降不可能になったって師匠が言ってたけど」
「それでもコアの復活に期待するって夢があるじゃない。こうやって私達ヨシュアの民は親から受け継いだこの夢を子や孫に引き継いでいくのよ。再びこのコアで箱舟を作る事を夢見て……」
ヨシュアの未来を語り出すクレアの口調は常に熱っぽく感じた。
「本当にクレアはこのヨシュアの事を愛しているんだな」
カナセは横で聞きながら静かにつぶやく。
一方、玄関の右隅から声が聞こえた。
「いらっしゃいませ。あら、クレアじゃない」
玄関ホールの右隅には来客が立ち寄る受付カウンターがあり席には受付嬢が座っていた。
「おはよう、フーレル」
「お勤めから帰ってきたの?」
「昨日ね」
「調子はどうだった?」
「散々だったわ。目当ての将軍は無傷で逃がしちゃったし」
「でも貴女が無事で何よりだわ」
二人の少女が気軽に声を掛け合う。受付嬢は長いブラウンの髪を後ろに束ねたかわいらしい女性だった。彼女も魔女の証である短いケープを纏っている。
「エニール課長は?」
「マッシュルームなら今日は本部に居るはずよ。今は会長と理事長の間でゴマ擦る為にキノコの傘をクルクル回してるんじゃないかしら?」
「判ったわ。ありがとう」
「そちらの方は?」
受付嬢のフーレルがカナセの方を見た。
可愛いい子と目が合ってカナセの胸も弾む。
「こんちわ。俺はクレアの……」
だがカナセが挨拶をしようとした瞬間、魔女の箒の柄が前を遮った。
「彼はカナセ・コウヤ君。昨日、スカウトした魔煌士よ」
「へぇ、本当に見つけて来たんだ!」
クレアの説明にフーレルは驚いてみせる。
「その分、特別報奨金が出るんですもの。ダメ元でもぶつかって当然よ」
「なるほど、君は悪い魔女に捕まったって訳だね」
「人聞きの悪い事、言わないで頂戴」
「ニシシシ……」
フーレルの意地悪な笑い方にクレアは口を尖らせる。
「ではカナセ・コウヤ君、魔女の大窯にようこそ。この来訪者名簿に名前を記入してね」
名簿への記帳が済むとフーレルは二人に言った。
「クレアは課長に会いに行くんでしょ? じゃあ、カナセ君は私が案内しておくわ。第三応接室に通しておくから」
カナセは一旦、クレアと別れるとフーレルに手招きされた。
「こっちよ、カナセ・コウヤ君」
そして応接室の方へと案内された。
だがその道すがらフーレルは笑う様にカナセに言った。
「あの子ったら、馬鹿でしょ」
「へ?」
いきなりそんな事を言われてカナセは面食らう。
「クレアの事よ。玄関ホールで大きな声で言ってたでしょ。箱舟のコアを運び出して人が死んだのどうのって……」
「ああ、言ってた……」
「女の子なのに戦場で戦うなんて、義勇兵気取りも大概にしてほしいわ。組合も戦時奉仕制度なんて廃止すれば良いのに……そう思わない?」
「うん、そうかも……」」
カナセは何となくフーレルと話を合わせる。
だが友達の事を悪く言うのは穏やかでなはい。
そう思っていた最中、フーレルは打ち明けた。
「別にね、クレアを悪く言うつもりは無いのよ。ただ勘違いして欲しくないのは戦争の事をここの人達が皆、クレアの様に深刻に考えている訳じゃないのよ。要するにクレアみたいに気負わないでねって言いたいだけ」
「ああ、そういう事か……」
フーレルの言い方にカナセは安堵した。別に彼女はクレアを馬鹿にしていた訳ではない。
「でないと今のヨシュアでは長生き出来ないわ。私もクレアも祖国の為って言いながら死んでいった魔女や魔煌士を大勢見て来たから」
「心配してるんだな、友達の事」
「判ってくれた? いい子でしょ? 私って」
そう言ってフーレルは笑った。
やがてカナセはフーレルの案内で応接室に通された。
応接室は簡素な造りだった。卓とソファの一式以外は僅かな調度品だけで大した高級感もない。
だがその中で座らされたソファの柔らかさには驚かされた。
小島で椅子やベッド替わりに使ってた葦束とはまるで質感が違う。
「カナセ君はこれでも書いて待っていて頂戴」
フーレルは出ていく前に一枚の書類をカナセに渡した。
「ウチの履歴書よ。判んない所は空欄で良いから。でも出来るだけ埋めてくれた方が審査には有利よ。じゃあ気楽に待ってて、お茶を運んでくるから」
応接室に一人、残されるとカナセは目の前の長テーブルの上で書類を書き始めた。
このヨシュアに来て初めての一人きりの沈黙の時が過ぎる。
聞こえるのは書類の上を走るペンの音だけだ。
「そう言えば、師匠が死んだ後はこんな毎日だったな……」
カナセはぼんやりと小島での暮らしを思い出す。
ほんの昨日まで自分はあの葦束の上でひとりきりで寝ていた。
好きな時間に起きて、好きな時間に獲った魚を食い、好きな時間に寝る。
自由気ままと言えば聞こえが良いが文明から切り離された孤立無援の生活。
市場に行く日以外、人に会う事は極端に少なく、他者との会話の無い沈黙の日々がほとんどだった。
そんな生活が続けはカナセの中で耐えがたい衝動が生まれる。
こんな離れ小島の生活から逃げたい。
もっと広い世界に出て、自分の可能性を試したい。
雑誌に掲載されていたモノクロの写真の世界に行きたい、そう何度も願っていた。
だがその願いが叶ったのはあの美しい魔女と出会えたからだ。
そして今はこんな立派な建物の応接室の中で書類を書いている。
小島に住んでいた頃の自分が見ればきっと夢の様だと思うはずだ。
「けど、もし彼女と出会わなければ……」
それを思うとカナセの中で悪寒が走る。
魔女クレア・リエルとの出会いは明らかに偶然の産物だった。
「運命の悪戯か、神の思し召しか……」
しかしカナセは神と言う言葉が口から出ようとした瞬間、グッと呑み込んだ。
神への信仰は師匠から禁句とされていた。
それはマルケルスの神も同様で利用はしても崇める事は無いようにと、強く禁じられていたからだ。