第2話 新しい世界
ギップフェル島。広漠なウーラシア淡水海の西方ある離れ小島。だがそこは世界が淡水で覆われる以前、最も麗美な頂があったと云わている。
そんな霊峰の成れの果てはやがてウラ鉄の領土となり、要塞化と同時に島の名を冠した巨大な駅が作られた。
駅は分岐点として機能し、四本の横断鉄道の路線が遥か西から進入すると、構内で六本に枝分かれし東に向かって伸びていく。
その六本の内の一本の複線が更に途中で分岐しヨシュアと繋がっている。
そして日々、リードヒルの終着駅へ戦争の為の大量の兵員と軍事物資を送り込んでいた。
一方で島の反対側、遥か西方の彼方へと進み続ければそこにはウラ鉄の本部があると言われている。
言わばこの島はウラ鉄の大動脈を支える心臓であり、逆にここを叩きさえすればウラ鉄は侵略の術を失い、野望の成就に破綻をきたす。
作戦名「ゴッド・パイル」干拓地国家本土で足止めをしながら、一方でウラ鉄の心臓に神のごとき深き杭を打ちみ、その重き罪を贖わす。
その大反抗作戦が遂に発動されたのだ。
作戦に参加する艦船の数は戦闘艦だけで百五十隻を超えていた。
大艦隊を構成するのはヨシュアを含む八つの近隣諸国。全てがウラ鉄に煮え湯を飲まされつつも国体を維持した干拓国家群で、八ヶ国連合と呼ばれていた。
彼等は来るべき時に備え、連合艦隊を結成し史上最大規模の大艦隊を西進させている。
だがそこは淡海、排水量は最大で2千tクラス、喫水も浅く大海を征く外洋艦と比べたら、モノにならないほど小型の船艇ばかりだった。
その中でヨシュア水軍が保有する戦闘艦隊は総数三十一隻。八ヶ国の水軍の中で編成されている艦隊の中では三番目の規模を誇っていた。
旗艦は海防戦艦「ヨークタウン」。全長93m、主砲の単装12.7㎝砲を二基を主軸に40㎜連装機関砲に25㎜四連装機関砲にロケット弾等、各種重武装を施した大型艦だ。
そのヨークタウンの後方には旗艦よりも更に大きな全長110mの戦闘母艦「ムラクモ」が連なり、更にヨークタウンに主砲塔を一基増設した海防戦艦「イントレピット」、10.5㎝砲を搭載した50m級モニター艦八隻、全長30m級ガンボート二十隻が追従し、縦列陣形を取りながら淡海の中を悠然と進んだ。
そんなヨシュア艦隊の中でカナセ・コウヤは戦闘母艦ムラクモに搭乗していた。
だがカナセは淡海の広大さにも艦艇の偉容にも目を繰れず、板張りの甲板上に立ち尽くすとじっと前を見ていた。
カナセの視線の先には水色の制服姿を纏った士官が立っていた。
その茶色い髪の士官はカナセと向き合うと、髪の色と同色を眉を歪めながらこう言った。
「最後に聞くけど……。本当に良いんだな、曹長」
士官は念入りにカナセの意思を確かめる。
「いいぜ、いつでもやってくれ、少尉」
カナセの物言いには強い意思が込められている。
「しかしなぁ、カナセ……」
だが一方の士官の気持ちは躊躇いがちだ。
「失敗したら怪我くらいじゃ済まないぜ」
「しつこいなぁ、マリウス! 俺が良いって言ってるんだから良いに決まってるだろ!」
「けど何かあった時、責任取らされるのはこっちなんだけど……」
「ああ、じれったい! 練習は充分、積んでるんだから大丈夫だって! 自分が育てた部下を信じろ、教官!」
「判ったよ。じゃあ、行くぞ。痛くったて恨むなよ!」
そう士官が答えると腰にぶら下げていたホルスターから拳銃を抜いた。
銃口の真っ直ぐ向こうにはカナセが居た。
拳銃が構えられた瞬間、カナセは両手を前に翳した。右手の人差し指と中指の間には2番コアが挟み込まれている。
「リフレクト!」
カナセが叫ぶと掌から青い光が放たれた。
光は一瞬で50㎝四方のひし形になると分厚い障壁となった。
「早い!」
その光の盾を見た士官であるマリウス・ルーメン少尉がつぶやく。
そして盾に向かって引き金を三回引いた。
発射した三発の9㎜弾は光の壁に命中すると、キンッ! キンッ、キンッ! と、硬い物同士がぶつかり合う音を響かせながら淡海の方へと弾き飛ばされた。
しかし少尉の攻撃はこれだけには留まらない。
今度は肩に掛けていたショットガンを構え引き金を引いた。
ドンッ! という大き目の発砲音と共にスラッグショットと呼ばれる一発弾の塊がカナセを襲う。
しかしそのスラッグショットの大口径ですらカナセの作った光の壁は弾き返した。
光の盾の向こうのカナセの体には傷一つ付いてない。
「どうだマリウス、上手く行ったぜ!」
魔煌障壁の発動成功にカナセが得意げに声を上げた。
「まあ、合格だな」
撃った方の少尉もカナセの無事に安堵の溜息を吐いた。
しかしその直後、目の前の障壁の様子がおかしくなる。
銃弾を受けた箇所から放電現象が起きると次の瞬間には障壁が砕け散り、その拍子に爆発を起こしたのだ。
「うわぁ!」
爆発の勢いに負けカナセの身体が後ろに向かって飛ばされた。
「カナセ!」
銃を撃ったマリウスが慌てて転倒したカナセの下に駆け寄る。幸い、爆発の衝撃は音ばかりで体には怪我ひとつ無い。
「な、何が起こったんだ?」
突然の爆発にカナセが目を白黒させていた。
「障壁が負荷に耐え切れず崩壊現象を起こしたんだ。初心者が魔煌障壁の訓練でよくやる失敗の一つさ」
そう言いながらマリウスが爆発の原因を教えてくれると、転んだカナセの前で手を差し伸べた。
しかし爆発の衝撃は想像以上に大きく、艦内を大騒動に変えた。
異変に気付いた艦の見張り員が警報のサイレンを鳴らすと爆発の現場に銃を構えた警備員達が駆け寄って来た。
「何事か!」
警備隊長カッシーニ中尉が怒声を浴びせながら二人に詰め寄った。
そんなカナセの横には一冊の本が置かれていた。
本の題名は「マルケルス系戦闘魔煌技入門」作者はエリザベス・アムンヘルムと記されていた。
爆発の直後、ふたりは警備隊長にこってりと絞られた。
「この馬鹿者ども! 貴様らのやった事は大尉にもしっかりと伝えておくから覚悟しておけ!」
二人の行動はカッシーニ中尉からから大尉と呼ばれた二人の直属の上官に伝えられ、処罰が下されるはずだ。
最も、爆発騒ぎの他に射撃訓練の申請を偽って危険極まりない魔煌障壁の耐久テストの事まで行ったのだから処罰は当然だ。
そして厳つい顔の警備隊長の怒声からやっと解放された所で、今度は騒ぎを聞きつけたひとりの魔女が二人の前に現れた。
それはヨシュア水軍の制服を纏ったクレアだった。最も彼女の制服は上半身のみの婦人用で、下には箒に乗り易い様、民間用の短いスカート穿いていた。
「カナセ君、今をやらかしたの?! それにルーメン少尉も居らして……」
クレアは二人に問い質す。
彼女もこの作戦に参加していた。
勿論、軍から組合を通しての正式な参加だが、配属先はカナセと違い旗艦ヨークタウンで、ヨシュア魔煌士組合副統括という水軍とはやや独立した立場に居た。
「いえ、リエルさん、別に大した事はありません。カナセが魔煌障壁の訓練をトチっただけすよ。よくある事です」
そう言ってマリウスは苦笑いで誤魔化した。
しかしそれを聞いたカナセは釈然としない。
「別にトチっちゃいねぇ。現に弾は全部弾き返したんだ」
「けどあれが短機関銃か自動小銃の攻撃なら今頃、ハチの巣にされてたよ」
「大丈夫だよ、本番では上手くやるさ」
そう言ってカナセは意固地になりマリウスからの指摘を認め様としなかった。
カナセの横に居るマリウス・ルーメンはヨシュア水軍所属の戦闘魔煌士だ。
階級は少尉で列記とした現役の正規軍人だ。
この作戦の前に設立された水上騎兵隊と呼ばれる新部隊の隊員という立場で、カナセの上官兼教育係兼バディという多彩な肩書を併せて持っていた。
「そんな事より聞いてくれよ、クレア。その魔煌障壁を俺は無声詠唱で発動させたんだぜ」
「無声詠唱で? 本当なの、カナセ君。凄いじゃない!」
「まあ、俺に掛かればざっとこんなモンよ」
クレアが訓練の成果を褒め称えるとカナセもまんざらでもない顔をする。
確かにカナセは光の障壁を言葉による詠唱を使わずに魔煌技を発動させた。
それは高度な魔煌技術に属し、並の魔煌士では不可能な芸当だった。
魔煌技を発動させるには魔煌士が明確な意思をコアに示さなければならない。それには言葉を使って明示する方法が効果的だった。
しかし呪文の詠唱には語彙の正確さが求められる。言い間違いや不確定な言葉で唱えてもコアは魔煌士の気持ちに応えてはくれない。時には詠唱の失敗は逆向きの力を働かせ、思わぬ事故を生み出す原因にもなる。
そして何より声による詠唱は時間が掛かる。
それを改善する為に開発されたのが無声詠唱だった。
無声詠唱は心の声で呪文を唱える。魔煌士の強い意思がコアに直接働きかけ魔煌技を発動させるのだ。
せいぜい唱えるのは「リフレクト」等の技名程度に過ぎない。
それをカナセはマリウスの指導の下、僅か二ヶ月で体得したのだ。
そんなカナセ・コウヤも魔煌組合からの出向という形で従軍していた。
所属はマリウスと同じ水上騎兵隊。前日のウラ鉄の哨戒艦隊を撃破した同部隊だった。
だが正規の軍人では無い為、特務曹長という肩書を与えられていた。
それでも部隊内での扱いは一般兵士と変わりない。
その証拠にクレアやマリウスと同じ水色をしたヨシュア水軍の制服に袖を通していたのだが二人と比べてばかなり着崩しており、だらしの無い身なりになっていた。
そんなカナセが作戦に参加すること自体は突拍子もない出来事という訳でもない。
ヨシュアに初めて来た日からウラ鉄と戦うと宣言した位なのだから、言わば当然の成り行きだ。
だが一番の動機はクレアが作戦に参加するという事実だ。
好きな女の子が戦場に赴く一方で自分は後方で安全に浸る。その様な状況をカナセの気質が許すはずもなかった。
そしてもう一つ、カナセを戦争へと駆り立てる理由があった。
それはミリアとの約束だ。
トラスニーク防衛戦の後、カナセはミリアとの約束通り、クレアに妹の前で自分が戦いに参加していた事を包み隠さず打ち明けさせた。
「ごめんなさい、ミリア。今まであなたに黙っていた事は全部、素直に謝るわ」
クレアは今まで黙っていた事を妹に素直に謝った。
「でもね、お姉ちゃんの話も聞いて……」
同時に姉は妹に戦い続ける事をはっきりと告げた。
当然、妹は姉の決意に猛反発した。
「絶対に嫌! そんなの許さない!」
その結果、二人の間で生まれて初めて姉妹による大げんかが始まった。
その中で、カナセは約束に従ってミリアの味方に付いた。
「ええ?! どうしてカナセ君がそっちに付いてるの!」
当初、クレアはカナセが自分を裏切って妹の味方をした事に困惑した。
当然、妹を説得する手助けをしてくれると思い込んでいたからだ。
「この裏切り者!」
だがそれが原因でクレアの意思は挫けるどころか、逆に意固地にする。
「ミリア。悪いけど、お姉ちゃん、今度の大きな作戦には絶対、参加するから! 止めたって無駄なんだから!」
「そんなの嫌よ! だってお姉ちゃん、今度こそは死ぬかもしれないもん」
「そんな事無いわ! 今まで失敗した事は無いし、これからも無いはずよ!」
「それこそ判りっこないわ! だってお姉ちゃんがドジな事、私知ってるもん!」
「ドジって、こんなにもしっかり者のお姉ちゃんが何時、何をしたっていうの?!」
「カナセさんが来た日からお姉ちゃん、自分の歯ブラシを毎日、間違えて使ってる。白いのはお姉ちゃん、青いのはカナセさんのなのに!」
「なっ!」
「ミリア! それって本当かい?」
驚いたカナセが思わず聞き返すとミリアが頷いた。
「カナセさん、何時も使っても無いのにいつも歯ブラシが濡れてるでしょ。あれってお姉ちゃんが先に使ってるから……」
「でも確かクレアが言ったんだよな……。青いのは俺用だって」
「ウソよ! そんなの大ウソよ!」
姉は早速、間接キスの事実を否定した。
しかしこの程度、言い返された位で怯む妹ではない。ネタはまだあるのだ。
「それだけじゃないもん! 先週だってお姉ちゃん、洗濯ものを干してた時、傍でカナセさんとおしゃべりしながら、平然と自分の下着を干してたでしょ! あれ見た時、私、すっごく恥ずかしかったんだから!」
そんな妹の指摘に姉は顔を真っ赤にした。どうやら今度は思い当たる節があるらしい。
「カナセ君! あなたって人は!」
「ええっ! それって俺が悪いの?!」
当たり散らすクレアの態度に今度はカナセが困惑する。
「それに今週だって三人でやった薬草畑の草刈りの時、おねえちゃん、暑いからってスカートなんか穿いて作業したでしょ? だからしゃがんだ時、スカートの中身がカナセさんに全部丸見えになってて……」
「もう良いわ! お黙んなさい!」
「何よ! あの時、カナセさんがずっと見てたのも気付かずにヘラヘラ笑ってた癖に!」
そんな調子で二人の口喧嘩は脱線を繰り返しながら延々と続いた。
だが一方で、そんな二人の言い争いを一部始終目撃しながらカナセは安堵していた。
傷付け合う事を恐れてお互いが黙り合うより、声を張ってでもお互いが本音をぶつけ合う方が健全に思えたからだ。
そしてそれが出来るのもふたりの姉妹の絆が外海よりも深い証拠だ。
「なにニヤニヤしてるのよ! このスケベ!」
「いっ!」
しかし時折、喧嘩のトバッチリがこちらに飛んで来るのは困りものだ。
暫くして二人は喧嘩疲れでぐったりし始める。
それを見計らってカナセが仲裁に入った。
「ミリア、いい加減にお姉ちゃんを許してやんなよ。それにクレアだって妹の気持ちを少しくらい判ってやったっていいんじゃないか?」
「嫌です! この頑固者を諦めさせるまで私は止めません!」
「頑固者って何よ! 頑固はミリアの方じゃない! それとカナセ君、あなたどっちの味方よ! さっきまで妹の肩ばっかり持ってた癖に!」
「俺は何時だって両方の味方だよ。二人の幸せをどんな時だって心から願ってるんだ」
「何よ、この裏切り者! 日和見主義の風見鶏!」
「風見鶏は随分な言い方だな。折角、俺が二人の納得する落としどころを拾おうっていうのに……」
「落としどころ?」
カナセの発案に姉妹が声を揃える。
「要するに、ミリアはお姉ちゃんを戦争に行かせたくなくて、クレアは祖国を守るために戦わざる得ないってのがお互いの意見の食い違いなんだろ?」
「そうよ! 要するに……そうよ!」
「じゃあ、ミリア。ここは一度だけ折れてお姉ちゃんが戦いに行く事を許してやって上げられないか?」
「そんなの駄目です! 何で一番大事な部分で私が妥協しなきゃいけないんですか! それにカナセさん、言いましたよね! お姉ちゃんとの話し合いでは味方になってくれるって!」
「勿論、俺はミリアの味方だよ」
「じゃあ、何で?!」
「だから、こうしようって言ってるんだ、ミリア。ミリアはお姉ちゃんは今度の戦争に行く事を許す。けどその間、俺も一緒に行って、クレアを守り通す事を約束する。お姉ちゃんには怪我ひとつさせない。そして無事にこのカーニャの村に連れて帰る」
「それってどういう意味ですか?」
「お姉ちゃんが危ない時は俺が盾になって代わりに死んでやるって事だよ。要するに身代わりだな」
「カナセ君、ちょっと、待って!」
カナセの発案を当のクレアが遮った。
「そんな事をやってくれなんて頼んだ覚えは無いわ! どうして私の為にカナセ君が危険に晒されなければならないの?」
「理由なら充分さ。クレアは俺の嫁さんになる。ミリアにも初めて会った時にそう言ったよね」
「もう止めて! 今になって、そんな冗談……」
「冗談なんかじゃない。俺は本気だよ」
カナセは真剣な眼差しでクレアを睨みつける。
「もう決めた事だ。それがどんなに危険な状況でも、君がどんなに嫌がっても俺は何時だって君の前で戦う。何時だってクレアより先に死ぬ気でいるさ」
そうカナセが答えると姉妹は揃って絶句した。
彼は正気ではない。しかしその目は本気だ。
血を分けた姉妹はまるで通じ合う様に心の中でそう思った。
そんな愕然とする二人に向かってカナセはこう続けた。
「だから、せいぜい安全な所に居てくれ、クレア。無理をしないでくれ。君が弾の飛んで来ない所に居てくれれば俺も無茶なんかしなくて済む。俺の為にもミリアの為にもそうしてくれ。それが駄目なら素直に妹の言う事を聞いてカーニャ村に居てくれ。お願いだ」
「……」
そう言われれば流石にクレアにも返す言葉が無い。そして困った顔で妹の様子を伺う。
それに気付いたカナセが今度はミリアに聞く。
「ミリアはどう思う? 俺じゃ駄目かな? 頼りない?」
次は妹が考える番だ。
「カナセさん……本当に信じていいんですか?」
ミリアが訊ねる。
「勿論さ。自分の命に代えて君のお姉ちゃんを守ってみせる。トラスニークで戦った時みたいにね」
「判りました。ならお願いします。あちらに行ってもお姉ちゃんを守って下さい。命に代えても……」
妹は遠回しにカナセに姉の為に死んでくれと頼んだ。幼い少女の口から出て来たとは思えないほど冷酷な言葉だ。
だがその言葉と引き換えにミリアはもう一度、カナセの言葉を信じることにした。
それから二ヶ月後、二人は揃って同じ船の上に立っていた。
「でも命に代えて守るとか言いすぎよ。そんな事、言われたこちらの気が重いわ……」
あの時の事を思い出す度、クレアは溜息を吐く。
だがそうカナセが言ってくれたお陰て、クレアは作戦に参加する事が出来たのだ。
今まで隠して来た秘密から、妹に対するうしろめたさから解放された。
その事に関してだけ言えばクレアはカナセに感謝が尽きなかった。
そんなカナセは今、一冊の魔煌書を挟んでマリウスと向き合っていた。
魔煌書の著者はエリザベス・アムンヘルム。大雨の日、あの銀髪の少年が教えてくれた魔女の名前だった。
この世の魔煌士の中で彼女の名を知らぬ者は存在しない。居たとすれば辺境の田舎少年だけだ。
ロータスの魔女とも呼ばれた天才魔女。彼女の働きにより暗黒期によって失われた数多くの魔煌技が取り戻されたとも、過去に前例がない新たな魔煌技を生み出したとも、その数多の功績は広く知られている。
彼女の記した魔煌書籍の数も膨大だった。九曜神全ての魔煌技大全を編纂し今も魔煌士の必読の書として扱われ、愛好家や支持者が途切れる事はない。
その支持者のひとりがクレア・リエル本人だった。
クレアは会った事も無いロータスの魔女をベス先生と呼び、心酔していた。
そして家の本棚から先生も魔導書がカナセによって持ち出される時、必ずこう言った。
「カナセ君! これはベス先生がお書きになられた聖典なんだからね。少しでも汚したら承知しないんだから!」
因みにベス先生とは熱狂的支持者の間でのエリザベス・アムンヘルムの愛称らしい。
そしてその尊敬すべきベス先生の書き残した全書の中には難解な戦闘魔煌技マルケルス神技も当然、含まれていた。
「さて、今度はこの空力魔煌技ってのをやってみようか、マリウス」
「そんなに急ぐなよ。それよりもさっきの魔煌障壁のおさらいをしたほうが良い」
「それくらい平気だよ。もう実戦では上手く使える様に出来てる」
「それにどうして小難しいマルケルス系の戦闘魔煌技だんだ? 確かに強力だけど皆と同じインドラ系の方が簡単で便利じゃないか。自分以外に先生も多いしさ」
「いいや、そんな他人と一緒は気に食わない」
そう言って相棒の意見を取り合わない。
カナセは飽くまでマルケルス神技一本で拘る気で居た。
今のカナセの心は充実感に満ちていた。正直、魔煌技の修練が楽しくて仕方がない。
なぜならヨシュアに来てからのカナセは魔煌士としての自分の力量不足を度々、思い知らされていた。
初めて目の当たりにする本物の戦争、ナタルマへの敗北、銀色の髪の謎の天才少年との邂逅、全く知りもしなかった魔獣召喚、そしてトラスニーク防衛戦。そのどれもが強い衝撃となって重なり合いカナセの心の奥に刻み込まれていた。
井の中の蛙。終わってみれば、それが正当な自己評価だった。
「これじゃ、駄目だ。もっと自分を高めなきゃ……」
逸る気持ちにカナセは焦燥する。
そして防衛戦から帰ると、クレアの家の本棚から魔煌書を引っ張り出し、コア収集の合間を見て読み漁り始めた。
しかしリエル家の魔煌書の大半がウェスタ神の汎用魔煌書か医学書であった為、どこか物足りない。
カナセが欲していたのは強力なマルケルス系の戦闘用魔煌技だった。しかしそんな魔煌技が記された書物は街の本屋や図書館に行っても見当たらなかった。
「そんな背伸びしなくても、基本的な物から勉強していけば? 医学魔煌技だって充分、役に立つはずよ」
クレアそう諭してくれたがカナセの不満は募る。
そんな折、カナセは組合本部から呼び出しを受けた。
それはクレアがミリアに自分の秘密を打ち明けた頃だ。
カナセがクレアと共に組合に訪れると彼は歓迎の声に包まれた。
「ようこそ、トラスニークの英雄!」
「素敵よ、トラスニークの英雄!」
カナセはここで初めて、自分が箱舟のコアをウラ鉄から護り抜いた英雄として、人々から受け入れられている事を知った。
そしてそのまま組合本部の会長室で感謝状の授与式となった。
感謝状を渡したのはこの日初めて会った魔煌士組合の会長だった。
会長は禿げ頭の小男の老人で前にここに居たマッシュルーム頭ほどの印象に残る人物ではなかった。
感謝状授与の後は組合本部の綺麗所から花束を贈呈された。
「凄いじゃない、カナセ君! 出会った時から、なにか持ってる男だと思ったわ!」
花束を渡しながらフーレルがカナセを褒め称えた。
誰もがこの新参者の大手柄に沸き立つ。
中には彼を名誉市民として推す声もあった。
そんな歓声を前にカナセも悪い気はしない。
本来、立身出世を夢見てこのヨシュアに来たのだから当然だ。
それに魔煌技の修練で悩んでいた時期なので気分転換間にもなった。
「どうだい、クレア。俺の事を見直したかい?」
カナセがクレアの目の前で感謝状をひけらかす。
「勿論よ。感謝状は家に帰ったら額に入れて飾りましょうね」
クレアもトラスニークの英雄を素直に称賛してくれた。
カナセはクレアに褒められた事の方が会長から貰った感謝状より何百倍も嬉しかった。
だがそんなお祭りの様な授与式の後、会長からカナセに向けある要請がなされた。
それはヨシュア水軍への出向の要請だった。
近々、ヨシュア水軍が他国と連携して大規模な水上作戦を行う。
後の「ゴッド・パイル作戦」の事だ。
それに同席するクレア・リエルと共に参加してくれと言われたのだ。
クレアは既に組合に参加の意思を示していた。
ならばカナセに断る理由は無い。
カナセは会長の前で即答すると契約書にサインをした。
水軍への出向は水没地帯のコアダイバーに変わる新しいカナセの仕事だった。
カナセは早速、トラスニークにあるヨシュアの水軍基地へと向かった。
同時にそれは行き詰っていた魔煌技修行の転機でもあり、カナセがヨシュアとウラ鉄との戦争に本格的に関わる事になる瞬間でもあった。
そして今、少年は戦闘母艦ムラクモの艦上で高名な魔女の書き残した魔煌書を読み漁る。
そんなカナセの姿を見てクレアが微笑む。
「思い込んだらどこまでも突っ走るタイプね……」
それが学問でも発揮される事はクレアにとっても発見だった。
だがそんなカナセの気質は嫌いではない。
「でもここで根を詰められてもね……。戦う前から疲労困憊じゃあ困りものだわ」
多分、彼の頭の中には今、ゴッド・パイル作戦の事など無いはずだ。
ここに連れて来られたのは何も本を読ませる為ではない。
「ねえカナセ君、ちょっと休憩しない?」
「う~ん……。ちょっと待ってくれ。今いい所なんだ……」
そう言って珍しくクレアの言葉に見向きもしない。
クレアは仕方なくカナセから離れると、今度は少尉の方を見た。
「どうです? 少尉もご一緒にお茶でも如何ですか?」
「そうですね、クレアさんのお誘いだし。どうだ曹長?」
「もうちょっと、待ってくれ。もう少しで掴めそうなんだよ」
カナセは時間を惜しんで新しい魔煌技を覚えようと躍起になる。
「そんなに慌てなくてもいいんじゃない。魔煌障壁の無声詠唱が出来るなんて、それだけでも立派な魔煌士よ」
「いいや、まだまだだ……通りすがりの美少年は最初に序詞を唱えただけでもっと高度な呪文を立て続けに四つ起こしやがった……」
「まだあの事を気にしてるの?」
「そりゃそうさ。あんなにカッコ良くやられたんじゃ俺も示しがつかねぇ」
「負けず嫌い」
「悪いか?」
「いいえ、向上心を持つ事は良い事だと思うわ。でもあまり根を詰めないでね」
「ああ、判ってるよ。ええっと……風の起こし方は……
そう言うとカナセは再び魔煌書を見ながら掌を前に向けた。
「もう、付き合ってたら限が無いわ。少尉、私達だけで行きませんか」
「そうですね、自分だって同じ飲むならご婦人とは二人きりの方が嬉しいですし」
「まあ、少尉ったら」
そう言ってクレアとマリウスはお互いに笑い合った。
そんな中、下を向いていたカナセが顔を上げて無声詠唱を唱えた。
「アエラス!」
空力魔煌技が発動した途端、掬い上げる様なつむじ風が三人を包み込んだ。
その拍子にクレアのスカートは捲れ上がり、白昼に白い下着が露になった。
「きゃああああ!」
クレアが悲鳴を上げながら必死にスカートを押さえつける。
一方で、顔を真っ赤にさせるクレアを尻目にカナセが得意げに笑った。
「あははははは、少尉、今の見たか? また一つ覚えた!」
「え? ええ?!」
だがマリウスは恥ずかしがるクレアを前に、目のやり場に困っている様子だ。
やがて風が収まるとクレアは怖い顔でカナセを睨む。
「もう! カナセ君のいけず! あなたってどうして女の子が嫌がる事ばかりするのかしら! それにルーメン少尉もお困りじゃない!」
「別に困ってなんてないよな、少尉」
「へっ? あっ、いや……」
マリウスは答えに窮すると紅潮したままの顔を慌てて背けた。
「にししし、少尉殿もご満悦だって、クレア」
一方でカナセが反省する様子は全くない。それがクレアには腹立たしい。
「バカッ! 本当に仕方の無い人! 大っ嫌い! 少尉も同罪です。お茶の件は無しですから!」
「ああ、リエルさん……」
そう散々なじった挙句、クレアは箒に跨ると、ぷいとソッポを向いて飛んで行ってしまった。
甲板上で二人だけになるとマリウスがカナセに訊ねる。
「いいのか、カナセ? 彼女、怒って飛んで行ってしまったぞ」
お茶を飲み損ねたマリウスが溜息を吐きながらカナセに訊ねる。
だがカナセは特に焦る事もない。
「大丈夫、大丈夫。クレアはね、その場ではカンカンになって怒るけど、暫くするとケロっと忘れるいい娘なんだ。心配ないって」
「なら良いけど……」
そんな時、傍にあった伝声管から声が聞こえた。
「マリウス・ルーメン少尉、カナセ・コウヤ特務曹長、両名は直ちにブリーフィングルームに集合せよ」
声の主は二人の上官であるホーナー・ナット大尉だった。
「やれやれ、もうさっきの爆発の事でボスからの呼び出しか」
「それともクレア女史へのセクハラが即刻、バレたのか?」
カナセのぼやきをマリウスが笑った。
「だったら少尉、俺の弁護を頼むよ。良い物見せたんだからさ」
「なら見せる相手を間違えたんじゃないかな? 自分の様な突撃艇乗りに見せた所で何も変わりゃしないよ。むしろ大尉に見せるべきだよ。あれを見ればボスも少しは心が動かされるはずだ」
「やだよ、あんなオッサンに見せて堪るかってんだ。後でクレアに色目なんて使われちゃ大変だよ」
「無声詠唱の事だよ……」




