第一話 『始まりは教室』
とある昼下がり、その教室は賑わっていた。
「よし!お前ら、食べ終わったやつはグラウンドに集合だ!」
そう言って、昼食を真っ先に食べ終わった彼は、グラウンドへ向かい、それに連れられて何人かの男子が急いで向かった。
彼らが行なっているのは、昼休みに男子たちの間で恒例になっているサッカーである。
そのサッカーを見に、何人かの女子もグラウンドに向かう。その他は、中庭で心地良いそよ風に当たりながら談笑したり、図書館に行って読書に没頭したり、それぞれのやり方で学校唯一の自由時間を謳歌している。
そうして、寂しくなった教室で、僕は机に向かっていた。
グラウンドから聞こえる楽しそうな声に少々鬱陶しさを感じながら、授業の復習をする。
「あの先生教え方が下手なんだよなぁ」とか思いながら、特に好きでもない数学の勉強をしていると、二つ隣の席に座っている女の子が声をかけてきた。
「あなたは、皆で遊んだりしないの?」
彼女は読んでいた本から一切目を離さずそう言った。
エリーゼ・ゴットフリートーーそれが彼女の名前。話したことはないが、昼休みの教室にはいつも僕と彼女の二人だけなので、名前くらいは知っている。
それが今日、初めて話しかけられた。
僕は少し驚きつつも、「ああ」とそっけない返事をして、もう話しかけてくるなと言わんばかりの雰囲気を漂わせた。
しかし、彼女は僕のそんな意思表示を全く汲み取ってはくれず、変わらず話しかける。
「どうして?」
「......」
「あなたどうしていつも勉強ばかりしているの?」
僕が彼女の問いにしばらく答えないでいると、彼女はこちらへ振り向いてしつこく尋ねた。
「ねえ、そんなにずっと勉強ばかりしてつまらなくないの?」
「さっきからうるさいな!君には関係ないだろう。邪魔しないでくれ」
きつく言ってやると、彼女は分かり易くしょんぼりとした態度で読書に戻った。
それだけなら良かったのだが、それ以降ちらちらとこちらを見てくる素振りに気が散って、一層鬱陶しくなった。
(これなら無理にでも無視するべきだったな)
変に返事をしたせいで、案外話せるやつだと勘違いされた。
この調子でずっと視線を感じては全く集中できないので、僕は仕方なく話に付きやってやることにした。
「君だっていつも本を読んでばかりじゃないか。友達はいないのか?」
そう言うと、彼女は大きく目を見開きこちらへ振り向いて、これまた分かり易く嬉しそうにした。しかし、恥ずかしかったのか、ぶるぶると首を横に振るわせて「コホンッ!」と小さな咳をすると、元の態度に戻って本に目をやった。
「い、いいえ?少なくともあなたよりはいるわよ。そうね。十人......いや、二十人くらいはいるんじゃないかしら」
(え?そうなの?全然そんな風には見えないんだが......)
友達と話している所は疎か、笑顔でさえ今初めて見たというのに、それは少々苦しいだろう。
別に馬鹿にするつもりで言ったわけではなかったが、どうやら向きになっているらしい。
そして、ようやく合点がいった。
この女、あまりに寂しい学校生活に耐えかねて、誰かと話がしたくなったんだな。そうとしか考えられない。
見るからに弱々しいが、やはり、なんて情けない奴だ。
そうなるのが目に見えていながら、なぜもっと早くに行動に移さなかったのか。見たところ普通に話せるみたいだし、今からでも皆の所に行けば、すぐにでも溶けこめるようなタイプだ。
「幾ら愛想が良くても、付き合いの悪い奴っていうのは、なかなか好かれるもんじゃないぜ」
「......何よ。私にアドバイスでもしてるつもり?」
「分かってるなら行動に移すんだな。もう入学して一ヶ月が経つ。早くしないとそういうイメージが定着するぞ」
イメージ。印象。そういうのは一旦定着すると、なかなか払拭しづらい。
ずっと暗い印象だった奴が、ある日突然陽気なキャラクターになって登校すれば、「こいつやばい奴だ」というイメージが追加されるだけ。それは「上乗せ」であって、「上書き」にはならない。
これらは徐々に定着するもので、変えようと思うなら、始まって一ヶ月が関の山。それ以降はもう、後戻りはできない。
この後、彼女は改心して、てっきり教室を出て行くのかと思ったが、残念ながらそうはならなかった。
「勘違いしないで。私は本が好きなだけ。友達を作ったら、一人で本を読む時間が減っちゃうでしょ?」
「だったら僕に話しかけてくるな。一人で自分の世界に浸っていろ」
「......」
正論を言いすぎたか。
彼女は口を開けたり閉じたりして、言い返す言葉がないようだ。
しかし、彼女の言っていることは、あまりにも矛盾がありすぎる。
「それに、一人で静かに読書をしたいなら図書館へ行けばいいだろう?あそこならグラウンドからうるさい声が聞こえることもない」
ここで「図書室」ではなく「図書館」と言ったのは、厳密にはあの場所はこの学校が所有しているものではないからである。併設された図書館というよりは、学校の方が後にできたという感じ。「隣に図書館があるから、別に図書室は作らなくても良いよね」という理由で、経費削減なのか単に面倒臭かったからなのかは知らないが、結果的に作られることはなかった。
本当は図書室がないと学校として認めてもらえないらしいのだが、ここは特別に許可が下りたという。全く良い加減な話だ。
いや、しかし、そんなずぼらなスタンスに文句を垂れている僕ではあるが、図書館という場所は嫌いではない。むしろ、あの空間は実に僕好みだ。
周りには何もなく、厚い壁で覆われているというのもあってか、外の音は全く聞こえないしとても静か。館内は全て木目調でデザインされており落ち着いた雰囲気。何より、幾冊にも並べられた古書の良い香りが、程よく緊張感を掻き立たせる。
このように勉強にはもってこいの場所で、僕も行きたいのは山々なのだが、それでも僕が行かない、否、行けないのは、図書館側が「図書を読む以外での利用を禁止」しているからである。
この校舎が建てられて以来、学校の生徒は足繁く図書館に赴いたらしい。しかし、うちは進学校というわけではなく、真面目に勉強する生徒も少なかった。そこで、段々と私語がエスカレートしていき、そういうわけで、今に至る。
ああ、全く、そんな輩がいなければ、今こうやって僕が勉強を邪魔されることもなかったというのに。
彼女はもごもごと口を動かして言った。
「あそこは......遠いから。その......行くのが面倒っていうか......」
「何?隣だぞ!?校舎を出てすぐだ。はぁ......呆れた。なんてだらしのない女なんだ君は」
「別に良いでしょ......放っといてよ」
まともに言い返せなかったのが余程悔しいのか、しばらくして彼女は尋ねた。
「あなたはどうなのよ」
「?」
「サッカー......したくないの?......運動音痴とか?」
「はぁ?そんなんじゃない」
「じゃあ何よ?どうして皆と遊ばないの?」
彼女は本当に気になっている様子で、とても素直な眼差しでこちらを見た。
幼い頃から体を動かすのが得意ではなく、実際、運動音痴と言われればそうなのかもしれないが、とはいえ、サッカーが別段やりたくないわけではない。
本音を言ってしまえば、僕も人並みに友達と遊びたいとは思っている。
しかし、それは僕が「夢」を持っていなければの話だ。僕が凡庸に生きていこうと思っていたなら、今皆と楽しくサッカーだってしていたのかもしれない。
「今、あんな風に遊んで、将来......一体何の役に立つって言うんだ」
これは違う。こんな事、本当は思っていないのに。
「役に立つ......って、そりゃあただの遊びかもしれないけど、そういう事じゃないでしょ?役に立つとか立たないとか、そんな事言ってしまったら、スポーツなんて皆無くなってしまうわよ?」
ああ。その通りだ。彼女の言っている事の方が正しい。
「ああ、そうだ。スポーツなんて何の役にも立たない。この世界には娯楽が多すぎる。競馬の騎手とか占い師とか俳優とか、あんな者がいるから社会はちっとも良くならないんだ」
しかし、とても素直にはなれなかった。
自分のしている事が誰にも認められないから、自分で肯定したくなった。
そうやって思わなければ頑張れないような、僕はそんな弱い人間だった。
「じゃああなたは......何を目指しているの?」
「......え?」
「それほど毎日勉強してるんだもの。将来の夢とか......あるんでしょう?」
「......なぜそんなことを君に言わなくちゃならないんだ」
「別に嫌ならいいんだけど。ちょっと気になっただけ......」
これを答えなかったら、彼女はまたこちらをちらちら伺ってくるんだろうなと予想していたが、僕が言いたくないような素振りをしていると、彼女はそれ以上聞こうとはしなかった。
(何だよ......全く......)
もう誰にも言うつもりはなかったが、ここで言わなければ、自分が心の中で諦めているような、そんな気がして怖かった。
「......医者だ」
気が付くと、言ってしまっていた。
この事を言って、ろくな返事がきた試しはない。当たり前だ。
この世界で医者と言ったら、本当に勉強のできる人しかなれない職業。
しかし、僕の学力は特別優れているわけでもなかった。いや、むしろ、僕は出来の悪い方だ。理解力も記憶力も乏しくて、飲み込みが悪い。だから、こうして授業の復習をしなければ、周りについていけないのだ。
どう考えても御門違い。
僕を知っている人にこの事を話そうものなら、確実に嘲笑が返ってくる。
それでも、夢見てしまったのだから仕方がない。
「ああ、いや、ごめん。今のはーー」
嘘。そう言おうとした。
しかし、彼女は僕の言葉を遮ってーー
「良いじゃない!とっても素晴らしいわ!」
そう言った。
目をきらきらと輝かせて、とても馬鹿にしているようには見えない。
「私てっきり、友達がいなくて勉強しかやる事がないんだとばかり思っていたわ。そんな立派な夢があったのね。ーーああ、じゃあ邪魔をするのはいけないわね......ごめんなさい」
彼女は小さな声で謝り、そして邪魔にならないように読書へ戻った。
僕は驚いて、彼女の方を振り向いた。
「......笑わないのか?」
「笑う?どうして?ーー命を救うって、とても素晴らしい事よ。それに、人の夢を笑うなんて凄く愚かな事だわ。だからあなたも、騎手さんや占い師さんや俳優さんを馬鹿にしたりはしないでね」
「え、ああ......」
「馬で誰よりも速く風を切っていく姿はとてもかっこいいし、占いで人を元気付ける事だってできるわ。子供の頃、町に来てた移動演劇を見て、私とても感動したの。そうやって生きる楽しみがあるっていうのは、命を救う事と何も変わらないわ」
毎日勉強ばかりしている僕よりも、彼女の方が余程人として優れていると感じた。
いや、彼女なら、人に優劣などないと言うのだろうか。
「ああ、そうだな」
そうして、僕は分かったような相槌を打つしかなかった。
ーーこれが、僕〈アトラス〉と彼女〈エリーゼ〉の出逢いだった。
一章はアトラスが呪われた魂になるまでの話です。




