海老沢泰久作「美味礼讚」について その料理たべたいなあ、と憧れてしまいます
以前運営していたホームページに収載していた文章です。
04.9.8記
最近、ホームページの管理人の自己紹介のコーナーで、
「好きな小説」の項目に、海老沢泰久氏の「美味礼讚」を追加した。
最近読んだわけではない。単行本の初版が出たのは、1992年。単行本では読まなかったが、文庫本になって、多分その初版で読んだのだと思う。
だから、初めて読んでから、もう10年くらい経っていると思う。
その文庫本は誰かに貸して戻ってきていない。
「また読みたいな」
と時々思っていたが、一年位前に古本屋で、単行本が売っていたので、購入した。
一読後、最初から最後まで通して再読したのは、1回はあると思うが、2回はないかもしれない。
が、印象的な場面が多く、部分部分であれば、相当な回数、読み
直している。
この小説は、辻調理師専門学校を創設し、同校をかつて同校の広告に使われていたコピー
「料理界の東大」
と呼ばれるまでにした、辻静雄氏をモデルとしており、小説内
でも辻静雄氏、その他著名な料理人などは、そのまま本名で登場する。
辻静雄氏については、以前、関口宏が司会をしていた
「知ってるつもり」
でも取り上げられていたから、ご存知の方も多いと思う。
私のホームページの「好きな小説」の項目には、この小説以前には2冊しか記載していない。
3冊めとして記載したくらいであるから、私は大いに気に入っているわけだが、
先ず、
私が感じる、この小説のマイナス面から書く。
作者、海老沢氏は、辻静雄氏本人を含め、相当多くの人を取材しているかと思う。
多くの取材をした実名小説であれば、あるいはやむをえないことか、と思うが、善玉、悪玉がはっきりしている。
辻静雄の側に立つ人はみんないい人。
彼の敵となる人、彼に背くことになった人は、それぞれ、なかなか厳しい人生が待っている。
正義のヒーロー、辻静雄を中心とした
勧善懲悪のドラマ、という趣がある。
これが辻静雄を取材した結果そうなったのであるのなら、辻静雄という人は、人の好き嫌いが激しく、自分に対して仇を成した人とその行為は、いつまでもおぼえている。
そういう人物像が想像出来る。
むろん、これらのことは、作者の小説的潤色がなされた結果であるのかもしれないので即断はできない。
さて、マイナスに感じることを先に書いたので、このあとは小説「美味礼讚」を礼讚する。
辻静雄氏は、ひとことで言えば、日本に本当の意味のフランス料理を導入した人ということになるだろう。
米国から始めて、フランスに至った、その食の旅はすさまじい。
三つ星の全てを含む(星付きは全て、だったかもしれない)ほとんどの著名レストランを食べ歩く。
実に羨ましい話だが、それは舌の記憶を得るための、巡礼にも似た旅だ。
通常人にとっては、本能的な、最も大きな楽しみのひとつである「食する」ということは、
この人にとっては、やるべき仕事、義務であった。
私の感覚では、1980年代から、「食」さらに「美味追求」ということが、国民的な大きな関心事になったと思うが、その先駆けとなった人であろう。
「美食」ということをどうとらえるかについては、作中、印象的な場面がある。
既に、料理界において確固たる地位を得た辻静雄が、新聞記者時代の同僚、知人を招待し、料理学校の教授たちが腕をふるう豪華な食事をふるまう。
招待を受けた人は、みんな、普段ではとても味わえない美味に感動、感謝するが、なかのひとりが辻静雄を批判する。
「お前は、こういうものをふるまえるようになった自分を自慢したいがためにこういう会合をもったのだろう。いやみなやつだ。俺は、食事など、安いラーメンがあれば充分だ。
こんな豪華な食事になんの意味がある。お前がやっていることなど何の意味もないんだ」
現代においても世界には、日々の食事にも事欠く多くの人々が存在する。食事というものは人間にとって、日常的に欠くべからざるものであるゆえに、このような世界において、「美食」を追求するということは、本質的に原罪を背負う行為であろう。
作中ではこの場面のあと、
辻静雄と学校創設時からの補佐役がふたり残る。
補佐役「校長、どうか気になさらないで下さい。この世界の芸術に意味があるように、我々がやってきたことには、意味があるんです」
校長 「いや、あいつの言うとおりだ。我々のやっていることは、それがもしこの世界からなくなったとしても、世の人たちは何も困らない。そう、我々のやっていることには何の意味もない」
補佐役「ではこれからどうされるのでしょうか」
校長 「別に何も変えないよ」
「美食」ということが背負う原罪について、この場面は、あざやかな回答となっていると思う。
海老沢氏については、この「美味礼賛」以外に、私が読んだのは、広岡監督をモデルとした小説「監督」と、
堀内恒夫現巨人監督を描いた「ただ栄光のために」だが、
海老沢氏の文章は、平明かつ明解だ。難しい言い回しはせず、情緒に流されることもない。
その海老沢氏が描く、料理の場面、氏はことさらな形容詞は使わない。食したときの感動を表す形容詞も単純なものだ。
が、氏はその料理がどういう食材で成り立っているか、どう調理するかを具体的に描く。
そして、読者に、少なくとも私に「食べたい」という強い気持ちを呼び起こさせる。
しかし、そこに描かれる料理は、結果的に、ほぼ高級料理ということになる。
小説ののっけから、
「もし値段をつけるとしたら、十五万円でも合わないかもしれない」
などという料理が登場する。
そういう料理を食べてみたい、という気持ちは、先に書いたように、むろん、私の中にある。
が、私には生涯、無縁の料理でもあろう。
もし、食べる機会があったとしても、その料理の値段が、私の気持ちを支配して、心から食事を楽しむことはできないだろう。
いつも「割安感も、「美味しさ」の大きな要素」
などと思っているのだから。
こういう食事は、例えば、高級ホテルに泊まることがあったとしも、ボーイに当然のように、荷物を堂々と渡すことができない人間。食事する人と変わらないくらいの人数の人に、サービス
のために侍されると、気を遣ってしまって
「ほっといてくれたほうが嬉しい」
などと思う人間にはたしかに勿体ない。
が、こういう世界も存在する、ということを知ることは、とても興味深かった。
最後に、総論的にいえば、私にとって最も美味しい食事は、家族とともに食べる、セルフサービスの食べ放題だ。