sub.暁雪の師弟(4)
足で地面を強く踏み締め、蹴り上げる度に水を吸った土が飛び散って着物の裾に少なくないシミを作り、雪のように真っ白だったそれがみるみる内に土色に染まっていく。村の妖精が俺のために用意してくれた着物を汚してしまったことに申し訳なさが込み上げてくるが、今はそれどころではなかった。
やがて居住地まで戻ってきた俺は、次に中央にあるやぐらへと向かって、到着するなりすぐさまはしごを駆け上がる。今日の見張り番をしていた男妖精は、突然登ってきた俺の姿を見るなり驚いていた。
「ふ、フユキ⁉︎ 一体どうし」
「話は後! 耳塞いでいて!」
当然ながら理由を問われるものの、今は話している暇もない。一刻を争うこの非常事態、一分一秒でも時間が惜しい。いつもは外すことがない敬語も、気にしている余裕がなかった。
俺の命令も同然の言葉に従って男妖精が耳を塞いだのを確認してから、俺は木槌でやぐらの鐘を力任せに叩く。何らかの異常を知らせる音がガンガンと何度もやかましく響き渡っていることに、村のみんなも何事かと家の入り口から顔を覗かせ始める。
欲を言えば、拡声効果のある魔法具がこのやぐらに置いてあればよかったのだが、酷く貧しいというほどではないが裕福とも言い難いこの村にそんな便利なものを備えているはずもなく。仕方なしに、俺はできる限り息を吸って声を張り上げる。
「北の山の頂上で土砂崩れが発生! 下から見上げてもどんどん崩れていくのが確認できた! 標高を考えても、もう間も無くこの村全体が土砂に呑まれる‼︎」
俺がそう説明しても、村のみんなはぽかんとしていた。訳がわからないと、今の言葉を理解しきれずにいる。
それも当然だろう。いきなりこんなことを言われても、すぐ動ける者はほとんどいないだろう。もしも俺が逆の立場なら今のみんなと同じような反応を示すはずだ。
だが、これは変えようのない現実だ。現状を知らしめるべく、俺が「あそこだ!」と指をさす代わりにつららを飛ばして問題の山を指し示す。わかりやすい目印があったことが功を奏したようで、それによって事態をやっと把握できたみんなの顔がみるみる内に青ざめていく。
「子供と年配の方を優先して、村からできるだけ離れるんだ! 一瞬の迷いが命取りになる。振り返らずに、死ぬ気で走れッ‼︎」
その言葉を合図に、みんなは急いで動き始める。若い男達が足腰の弱い年配の妖精を背におぶり、女性達は子供を腕に抱えて。慌てふためきながらも、指示した通りにそれぞれここから逃げようとしていた。
「さて……」
「お、おい、フユキ。どこ行こうとしてんだよ?」
着物の袖をまくりつつ、件の山を睨みつけているその様に、見張り番の男妖精も俺がまだ避難するつもりがないことに気がついたらしい。男妖精が止めようとするのに構わず、俺ははしごに手をかける。
「流れ込んでくる土砂の速度を見るに、全員が村を出るにはとても間に合わない。……俺が時間を稼ぎます」
「むっ、無茶言うな! あんな大規模な災害を抑え込むなんて、いくらお前が妖だからってできるわけないだろ! 下手をしたらお前が死んじまう!」
「────このまま何もしなければ全員助からない‼︎」
語気を荒げてそう告げれば、ビクッと肩を震わせる。俺の剣幕に負けたようで、引き留めようと伸ばしていた腕を反射的に引っ込める。
「やれることはやりたいんです。ある程度土砂をせき止めたらすぐに追いかけます。死ぬつもりはありません。……俺だって、まだ夢を叶えてない。ここでお陀仏だなんて御免被ります」
「……わかった。わかったから……絶対、追い付いて来いよ!」
「はい。あなたも、早く逃げてください」
それだけ言ってから、はしごの支柱を使って下へと滑り降りる。俺に続いて見張り番の男妖精も地面に降りて逃げようとしているのを見届けた後、彼とは反対方向へ走り出す。
……各々が大声を上げながら早く避難することにみんなが集中していたために、俺が村の出口ではなく、山の方角へと向かっていたのを見咎められなかったのは幸いだった。ぬかるみに足を取られながらもできる限り全速力で走り抜け、抑え込むのに最も適した場所へと辿り着いてすぐ、妖力を練り始める。
「山から雪崩れ込んでくる、か。結び付けたくはないけど、あの時を思い出すな」
じわじわと距離を詰めてくる、最早土石流と言っても差し支えないそれを見据えてため息をつく。この村に初めて訪れた時の、魔物の大群との戦いのことを。師匠との数少ない、俺にとっては輝かしいと言えるほどの────実際はそんな綺麗なものではないが────思い出を、この状況は嫌でも思い起こさせる。
今回、土砂崩れが発生した原因もこの連日の雨のせいなのは明白だ。山の土が水を吸い込みすぎたことで地盤が緩くなり、今日になってとうとう限界を迎えたのだろう。
……魔力の乱れによって起こった異常気象。その原因となった異国の戦争。この国も少なからず巻き込まれ、一切関係のないこの村にさえも悪影響を及ぼし、そして今積み重なった謂れのない罪が罰として降り注ごうとしている。
何を巡って争っているのか知らないが、それによって一切加担していない自分達もこうして巻き込まれるのは不快極まりなかった。周りの被害を気にせず、上のためにと多くの命を使い捨てて。発端になった者など知りもしないが、そいつらが憎らしくて仕方がない。
「……今だけは雨で助かったな」
冷気を集めつつ、そんな皮肉を溢す。土砂崩れの原因もこの雨だが、空気に水分が満ちているこの状況であれば抑え込むのも不可能ではない。
「────『銀晶ノ風』‼︎」
妖力で成した冷気を一気に解き放ち、迫り来る土砂に向かって正面からぶつける。範囲を最大限まで広げたことで、空気中に舞っていた雫も妖術の中に取り込まれて氷と化し、土砂を押し返そうとする。
だが、氷を作ったところで大量の土砂の勢いに負けてすぐに砕け散ってしまう。早々に突破されることは想定内だったが、予想以上だ。それでも諦めるわけにはいかない。何度も冷気を放っては氷を生成し、村に土砂が到達するまでの時間を少しでも遅らせる。
「くそっ……!」
もう何度目にもなる氷が土砂に押し負ける様を見て、思わず舌打ちする。砕かれては作りを繰り返していく内に少しずつ息も上がり、集中力も徐々に削られていくのを感じた。
それでもまだやめるわけにはいかない。全員が逃げるためにはあともう少し時間が必要だ。誰か一人欠けていいことなんてないんだ。俺を受け入れてくれたかつての村人達が繋いできた今を生きる命は、俺にとって家族も同然の存在だ。それを失うようなことは絶対にしたくない……!
だけどそう意気込んだところで、消耗した力が回復するわけではない。じわじわと気力も削がれていき……ついには一瞬だったがくらりと目眩が起こり、その拍子に身体の軸が傾いた。
「……っ⁉︎ しまっ────」
倒れる……! そう頭で理解していても、対処する手段はなく。そのまま身体が地面に叩きつけられ、行く手を阻むものがなくなった土砂に呑み込まれるのを待つのみ────
「大丈夫か?」
「……は、」
しかし、その時が訪れることはなく。倒れ込みそうになった自分の身体を、誰かに受け止められたために。
そんなこと、あるわけがない。だってみんなは今頃、村の外に向かっているはずなのに。
「やっぱ無茶してやがったか。追いかけてきて正解だったな」
「必死になりすぎて自分だけが頑張りゃいいみたいに思ってるとこあるからなぁ。昔から全然変わっちゃいねぇ」
「なんでっ……!」
なんでここにいるんだと、俺を囲む村の住民である3人の男妖精達に向かって叫ぶ。引き返している暇など、ここで無駄な時間を費やせるほどの余裕など、全くないことは一目瞭然のことだろうに。
「見張り番のやつから聞いたんだよ。お前が時間を稼ぐなんて言って一人だけ残ろうとしてるってな」
「あのヒトは……!」
「まーまー、そう怒ってやるなって。お前一人を残して自分達だけ先に逃げるのは嫌だったから、ってな。妖には敵わないけど、俺達の魔法なら多少手助けしてやれるかもって来たんだよ」
「……」
その言葉通り、彼らが得意としている属性はそれぞれ水、大地、風だった。単体ではそこまで効果は期待できないだろうが、連携することで大きな力を発揮できるかもしれない。
「……後でお説教受けるなら俺一人だけでは済ませませんよ。みなさんも巻き添えです」
「んなもん、最初から覚悟してるって。いつ始めりゃいいか、合図はしてくれよ!」
最後の勧告としてそう軽く脅してみたものの、それもあっさり跳ね除けられ。もう腹を括るしかないと、改めて迫って来ている土砂を睨みつける。
「土砂の前に水をできるだけ出して、俺がそれを凍らせます。氷の壁ができたら土の塊でそれを支えて、風で土砂を力の限り押し返してください」
「よし、わかった!」
「では。────行くぞ‼︎」
合図すると同時に、一人が早速土砂の手前に水を生成し、俺がすぐさまそれに向かって冷気を浴びせる。水の塊はたちまち地面を起点として凍りつき、雨を基にしたものよりも遥かに大きい氷の壁を成した。
そして氷の壁が土砂にぶつかる直前で、2人目が氷の壁の後ろに沿って土の塊を生み出し。3人目が風を吹かせてから、全員で壁に力を注ぎ込んで土砂を抑え込む。
「ぐ、うっ……!」
直接手で触れて抑えているわけではないが、腕にかかる圧力が尋常じゃなかった。4人がかりになったというのに、距離が詰められたせいなのか急激に力が消耗していくのを感じる。
負けるわけにはいかない。完全に留められるわけではなくても、村のみんなを全員逃がすためにここから退くわけにはいかない。俺の大事な宝物でもあるみんなを、守るために……!
────パンッ!
「えっ」
「ありゃ、合図用の花火の音だ! 見張り番のやつに避難が終わったら打つよう頼んでおいたんだよ!」
「つーことは、みんな逃げられたわけだな! よし、俺達も逃げるぞ!」
突如響き渡った乾いた音の正体を、3人はすぐに悟ったらしい。全員揃って魔法の使用をやめたかと思えば、次の瞬間には俺の身体を3人一緒になって肩に担ぎ上げていた。
「ちょ、ちょっと⁉︎ 自分で走れますから!」
「馬鹿言え、へとへとになってるお前の身体を最後までこき使わせるわけにゃいけねぇだろ!」
「お前と同じくらいの重さの米俵なんてしょっちゅう担いでんだ。これくらい軽い軽い!」
「それよりも口閉じてろ。全速力で走り抜けるからな、無駄口叩いてたら舌噛むぜ!」
唐突で予想だにしないことの連続だということもあり、俺は3人の勢いに負けて反射的に口を閉じた。そしてそのまま、3人は俺を落とさないよう注意しつつ、村の出口まで一直線に駆け抜ける。
心配してギリギリまで残ってくれていたのだろう、出口前にはあの見張り番の妖精が「こっちだ!」と大きく手を振りながら待ってくれていた。……行く手を遮る壁を打ち砕いた土砂は、もうすぐそこまで迫って来ていた。
見張り番と合流してから、全員で揃って出口を抜けた先にある森の中へと突入した。あちこちにある木々をひょいひょいと避けつつ、とにかく森の外を目指す。
こちらも木を避ける必要があるが、土砂も木にせき止められてさっきよりも流れ込む速度が落ちている。土砂がぶつかった途端、たちまちなぎ倒されていく木々。偶然とはいえ自分達がそれに守られていることに感謝しつつ、前方へと集中する。
「出るぞっ……!」
前方にある木の隙間から僅かに差し込んでくる光。それが町の灯りだと気付いた瞬間、俺達は脇目も振らずにそこへ向かって飛び込んだ。
「────ぁ、」
森を抜けたのとほぼ同時に、土砂もその場でピタリと動きを止めた。周りには、村のみんなも集まっている。
見渡した限りでは、誰一人欠けることなくその場に立っている。全員助けられた。それは喜ぶべきではあるのだろうが……目の前に広がる光景に愕然とするばかりだった。
大きな岩や、なぎ倒した木々までもがあちこちに入り混じっている大量の土砂。ここまで土砂が到達したということ……それはつまり、この先にあった筈の村はこの土砂に呑み込まれ、完全に下敷きになってしまったということだ。
師匠を引き合わせてくれたきっかけが。紆余曲折ありながらも妖である俺を受け入れてくれた場所が。かけがえのない思い出の詰まった宝物が。昨日までいつも通り存在していた筈の村は、この一瞬の内に奪われてしまったのだ。
……俺は知らず知らずの内に手を強く握りしめ、手の平に爪を食い込ませていた。
この村が、みんなが何をしたんだ。みんなで協力し合って、声を掛け合って、その日を生きるためにそれぞれが頑張っていた。決して豊かとは言えない。それでも、笑顔を絶やさずに慎ましくも幸せに暮らしていただけなのに。
お天道様は見ていると、誰かが言った。でも俺は、もうその言葉を信じられそうにない。それが運命だからと良いヒトばかりをさっさと連れていって、試練と称して理不尽な目にばかり遭わせるのに、どうやって信じろというのか。
「────クソッタレ」
俺はその日、初めて神を呪った。




