第193話 逃れ得ぬ因縁(2)
……その名前を聞いた瞬間、頭の中であの『最悪』の光景が次々と再生される。
名門という輝かしい看板の裏に隠された、あまりにも醜悪な所業。止まない罵声、理不尽に振るわれる暴力、無関心で無責任な教師達。聞くに耐えない罵詈雑言が、殴られ蹴られたことで生まれた怪我の痛みが、現実というにはあまりにも受け入れ難い惨状が、どんどん蘇ってきて。
そして極め付けは蔑み、見下し、嘲笑う、目、目、目……
「ぐ、がっ……」
「ルージュ⁉︎」
サァッと血の気が引いて、視界がぐらりと歪み、息が上手くできない。誰かが私を呼ぶ声が聞こえたけれど、それすらもう誰なのか判別できない。
足元が覚束なくなり、身体の軸がぐらりと傾く。そのまま倒れ込みそうになったその時……私の右手をルーザがそっと握ってくれた。
「ぁ……ーザ……?」
「落ち着け。ここにはお前を傷つける奴なんて誰一人いない」
「……ぅ」
「深く吸え、ゆっくり吐け」
言われるまま、すー、はー、と深呼吸を繰り返す。私は無意識の内にルーザの手を強く握り返していて、それを見たカーミラさんが咄嗟に私の左手を取り、それと一緒に優しく背中をさすってくれた。
2人の手の暖かさが荒んでいた感情を落ち着かせてくれて、次第に呼吸も普段通りのものへと戻っていく。あの忌々しい光景も徐々に薄れていき……やがて目の前から消え去っていった。
「……は、ぁ。うん、もう平気。ありがとう」
「ほ、本当に大丈夫? 顔真っ青だったけど……」
「うん。まさか試験の相手になるだなんて思わなくて、動揺しただけだから」
そうは言っても、みんなから見ればまだ顔色はよろしくないのだろう。エメラやイア達はもちろんのこと、あのレオンでさえも心配そうに私の顔を覗き込んでいる。アルス先生とクラスメート達からも不安げな眼差しを向けられて、有り難みを感じると同時に、注目を集めてしまったことに少々恥ずかしさが込み上げてきた。
安心して、と言えたものじゃないけど、いつまでも過去の記憶に引きずられているわけにもいかない。何せ、たった今降りかかってきた問題はすごく重大なものなのだから。それこそ、この学校の命運を分けるといっても過言でない程に。
「確かにおかしいよな。なんで相手が名門学校なんだよ。いくらなんでも不自然っつーか、規模も実力とかも違いすぎるって。ふこーへーってレベルじゃねえぞ、どうなってんだ」
「簡単なことじゃん。このタイミングで、そんな理不尽なマッチングとかわざとに決まってるっしょ。その学校、ここを潰したいっていう貴族連中の子供が大勢いるんだろ?」
「え。まさか、自分達の要望を押し通すために自分の子供を使って直接手を下す気とか?」
「恐らく、ってか高確率でね。手っ取り早く目的を果たすために実力差を思い知らせて、徹底的に叩き潰そうって算段なんだろうさ。そのための名門学校からの直々の宣戦布告、ワガママな貴族連中どもの果たし状ってとこか」
「……っ!」
オスクからそれを聞いたみんなは緊張からゴクリと喉を鳴らした。とうとう貴族達が強硬手段に出てきた、それを嫌でも思い知らされて。
私達が廃校にさせないために署名を集めてることはまだ貴族に知られてないと思うけど……貴族達としては小さな学校一つを潰すのに、これ以上時間を割いていられないとでも考えているのだろう。だから合同実技試験という外部からも注目される機会を利用して、この学校を負かすことでレベルの低さを周囲に知らしめて、自分達の要望が通りやすくさせるのが狙いなのかもしれない。
「……やはりこんなの受けられるわけがない。今からでも校長に話して相手を変えてもらえば……」
「先生、それは駄目。ここで断ったら降参してるも同然ですよ。それに、あの学校に対して抗議したところでまともに相手にしてくれるかどうかすら怪しいです。突っぱねられるだけならまだいいとして、最悪の場合、試験を放棄したことを理由に、過程を飛ばしてすぐさま廃校に追い込めるよう話を進めるかも」
「だ、だが、こんなのわざわざ負けにいくようなものだぞ。実力差がありすぎる……降参するよりもひどい仕打ちを受けるかもしれない。生徒をそんな目に、ましてやルジェリアが過去に受けた傷を抉るような真似はさせたくないのに!」
「かもな。腐っても名門相手、一筋縄ではいかないことなんざ百も承知だ。だが、これはチャンスでもあるぞ」
「ちゃ、チャンスって」
ルーザから不意に告げられた言葉に、目に見えて狼狽えるアルス先生。
でも、私もそれに同意だった。先生が自分の教え子を守りたいという気持ち、そして私にトラウマの元凶と対面させたくないという心遣いは嬉しいけど、ここで引いたところで貴族を余計につけ上がらせるだけ。プラエステンティアとの対決は苦しいものになるのは必至だろうけど、逆に言えばこれ以上ないくらいの好機にもなるんだ。
「デカいリスクを背負う分、勝った時の報酬もそれ相応のものになる。ここを廃校にしようっていう貴族への牽制にもなる上に、そんな有名校を負かしたとなれば評価も爆上がりだ。もう一つ、存続に必要だっていう次の入学者の問題もそれで片付くだろ。引き下がったところでこっちの得になることは一切ねえんだ。だったらその勝負、乗ってやるしかないだろ」
「そうかもしれないが……ルジェリアは、それでいいのか? 受けて立つとなれば、お前の嫌な思い出を嫌でも掘り起こすことになる。さっきも、あんなに取り乱していたのに」
「平気です。全然大丈夫には見えないかもしれませんけど、逃げてばかりじゃいけないって思ってますし。それにいつかケリをつけて、決別したいとも前から考えてました。これはその良い機会になると思うんです」
ルーザに、みんなに、自分の胸の内を明かしてある程度は克服できたと思うけど、それもまだ完全とは言えない。だからさっきあんなに動揺してしまったのだし、影の世界の学校で普段入らない部屋の扉を開こうとする度に手が震えてしまっているのだから。
いつまでもみんなの優しさに甘えているわけにはいかない。寧ろ、返り討ちにするくらいの覚悟を持たないと。それこそ舐めて挑んできたことを後悔させるくらいに。
「みんなも、それでいい?」
「おうよ! やられっぱなしじゃ気分ワリーしな。ルージュが世話になった礼もこの機会にたっぷりしてやるぜ!」
「わたし達なら平気だよ。いくら名門だからって、今まで戦ってきた敵と比べたら全然大したことないもん」
「ふふっ、それもそうですね。強大なことには変わりありませんが、命のやり取りをしないだけで大分気持ち楽です」
「だね。どんな課題かはまだ分からないけど、単純な戦いとかだったら物足りないくらいかもしれないね」
「い、命のやり取りって……それに名門学校の生徒が物足りないって、お前達は今まで一体何と戦ってきたんだ……」
「深くは詮索しない方がいいと思うけど? あんたらの基準じゃあ、腰抜かすこと間違いなしだから」
「えぇ……」
なんて、先生は私達の会話がさらに混乱を招いているようだった。
でも、クラスメート達も黙って廃校になるのは御免のようだ。受けて立とう、と一致団結している。さっきまでの不安そうな表情はすっかり消え去っていた。
「ほう……ならばお前達だけでなく、ここにいる奴ら全員を鍛えるべきか。一人一人の能力向上が、勝率を上げることは間違いない」
「そ、それはいいけど、手加減しなさいよ? あたし達がやってるものと同じ程度のメニューなんてさせたら、試験前に潰れかねないわ」
「とにかく、これで話はまとまったろ。この果たし状、有り難く受け取らせてもらうとするってな」
「うん、絶対に勝とう。報いを受けさせなきゃ」
────ワガママな貴族に目にもの見せてやる。そう決意を固めて、私達は頷き合った。




