第142話 酒呑童子、酔い覚めの刻(1)
目の前に立つ男……こいつこそが、オレらがその力を借りることを求めていた人物。鬼の長、酒呑童子。ニヤニヤと薄気味悪い笑みを貼り付け、両手を広げて無防備な格好をしているというのに、油断ならない迫力がそこにはある。
鎌を突きつけているのに、一切動揺を見せないそいつ。玉藻前の時とはまた違う威圧感が、正面に立つオレに襲いかかってきていた。
「おやおや、この私を前にしても怖気付かないとはこれまた珍しい。……女、名は?」
「……」
「クク、残念」
内心焦ってはいたが、自分でも意外な程に頭は冷静でいられた。この質問でオレが敢えて沈黙という選択をしたのはさっきの会話があったからこそ。
オスクが言っていた────『言霊で成立する呪詛は結構ある』ということ。ここで馬鹿正直に名前を告げようものなら、呪術の類いで縛られる可能性がある。たとえ呼び名を名乗ったとしても相手が相手、すぐバレてしまうに違いない。
だが……この後どうすればいいのだろう。まだ仲間と合流出来ていない、オレ一人だけでコイツと対峙している現状。とてもじゃないが、勝算が見えてこない。何せコイツはあのバケモノ……ヴリトラと匹敵する力を持つ奴なのだから。
それと、問題はもう一つ。
「うっ、酒臭っ……!」
……そう、酒の臭い。道中の思わぬアクシデントのせいで記憶からすっぽ抜けていたが、こいつの名前は『酒呑』……つまりは酒呑みの鬼。
フユキ曰く、そのせいで死にかけたという逸話があるくらいの大酒呑みの名は伊達ではなかった。数メートルの距離を置いているというのに鼻をつく程、こいつはオレの天敵である酒臭を全身から、しかも強烈に漂わせていた。
「ほほう、この甘美な香りをその距離で感じられるか。益々気に入った!」
「そうじゃ、ねえっ……!」
駄目だこいつ、反応を180度誤解してやがる!
相変わらず不気味な笑みを浮かべながらそいつがにじり寄ってくる度に、臭いはさらにキツいものと化してオレに襲いかかってくる。ぶっ倒れる寸前だというのに気付いていない辺り、こいつ相当酔ってやがる……!
酔いかけ、視界がボヤけ始める。流石にマズい。すかさず、オレはここで倒れてたまるかとばかりにクラクラしてくる頭を、力任せに自分の頰を引っ叩くことでなんとか持ち堪えた。
頰がジンジンと痛むが知ったことか。痛みと気合いだけを支えに、オレはなけなしの敵意を総動員させて目の前の鬼をキッと睨み付ける。
まだオレは、コイツに大切なことを聞けていないんだから。
「お前……他はどうした」
「ほう。こちらが尋ねていたというのに、そちらから問いを返してくるか。まあいい、安心しな。お前以外は私の気配に気付かなかったようだし、手出しはしてない」
気配……それがさっきの、川を越えた辺りで聞こえてきた笑い声か。思えばその声色もこいつの声とまるっきり同じだった。
確かに、あの笑い声が聞こえていたのはオレだけだった。どうやらそれがオレのように直接干渉してくるための条件らしい。こいつも鬼の長といえど、無差別に手出し出来るようではないようだ。仲間が無事だということが分かって、ほっと息をつく。
だが、そんなオレの反応に目の前に佇む鬼は嘲るような視線を向けてくる。
「己より他人の心配する暇があるというのかい。私がお前を取って食うかもしれぬというのに、ねぇ?」
「ほっとけ。それがオレらの生き方だ」
「ふん、そうかい。やはり現世の者共の考えは理解出来ないね。まあ、この山に入ってくるには随分奇怪な者もいたものだが」
「……その『奇怪な者』とは、わたくしのことでございましょうか」
「……っ!」
「クク……どうやらご到着のようだね」
聞き覚えのある声が聞こえてきて、オレは反射的に振り返る。
耳を頼りにその声が聞こえてきた方向を辿ると……そこには艶やかな長い黒髪をなびかせた、夜空を染め上げた浴衣を纏う女が一人。そしてその女の後ろに続く、数人の人影。
「ルーザ、無事⁉︎」
「怪我とかしてねえよな!」
「お前ら……!」
オレを庇うかのようにカグヤが鬼との間に割って入ってくるのと同時に、心配そうに駆け寄ってくるルージュ達。離れていたのはほんの数分だったが、この状態が酷く久しぶりのように感じた。
「良かった……なんともないみたいで」
「うむ、流石に肝を冷やした。また拙者の注意不足で其方を危険に晒してしまうとは……武士の端くれとして、許され難きことだ」
「いや、イブキだけの責任じゃねえよ。オレだって油断してた、悪かったな」
「……おいこら、鬼畜妖精モドキ」
「は、なんだよ……いででっ⁉︎」
何を思ったのか、オレの元へ来るや否や頰を手加減無しに引っ張ってくるオスク。何故か視線も敵意を向けているように鋭かったが、オレが悲鳴を上げたことでそれがフッと緩む。
「ハハッ、随分な痛がりようじゃん! こいつは本物、間違い無し!」
「いっつ……テメエ、いきなり何しやがんだ!」
「ま、まあまあ。オスク、ルーザがいなくなって凄く必死になって探してたから。多分、責任とか感じてたんじゃないかな」
「ん……そうか」
ルージュがそう教えてくれたことで、オレは殴りかかろうとしていた拳を引っ込める。
確かに、言われてみればオスクも他の仲間と同様に安心したようにため息を漏らしていた。その息遣いも珍しく荒れているし……保護者として、相当焦っていたのだろう。あの鋭い眼差しも、オレが変な術にかかっていないか危惧していたというのなら説明がつく。
オレの安否を確かめてから数秒。周りが落ち着いたのを見計らって、オスクはその鋭い眼差しを今度は目の前に立つ鬼へと向ける。
「で? アンタが鬼の長とかいう酒呑童子ってヤツ?」
「如何にも、って言ったらどうするというんだい。生憎、私は野郎にとんと興味は無いんだけどねぇ」
「アンタの興味の有無は関係無いし。土足で踏み入ったとこ悪いけど、アンタは身内に手ぇ出してくれちゃったんだ。輪切りにされる覚悟くらいあるっしょ?」
紅い瞳をギラリと光らせ、引きずり出した大剣を酒呑童子に向かって突き付けるオスク。口調こそ軽いが、そこにあるのは今にも切り捨てんと言わんばかりの強い殺意のみ。
このままじゃオスクは本当に酒呑童子を輪切りにしかねない。それはカグヤも思ったらしく、咄嗟にオスクを手で制した。
「オスク様、お待ちください。貴方が刃を向ける理由も分かりますが、倒すべきはこの方ではないと、貴方も充分理解している筈でしょう」
「フン……馬鹿にしないでくれる? 衝動で行動起こす程、愚かじゃないっての」
「お分かりいただければ良いのです。それでは酒呑童子様、急な来訪で申し訳ないのですが、ご相談があるのです」
「ほほう、この鬼に相談と! この酒呑童子に、あの天下の『かぐや姫』が! ククク、世も末だねぇ!」
何が可笑しいのか、突然ケラケラ笑い始める酒呑童子。オレらはそんな反応に思わず身構えるが、カグヤは一切動揺を見せず、話を続ける。
「ええ……全く、可笑しい限りでございます。貴方のお力を借りたいと思う程にまで、わたくしも追い詰められているのですから」
「ふぅむ、お前さんがそこまで頭を悩ます案件かい。よし、余興として話くらいは耳を傾けてやるとしよう」
「感謝します。では……」
カグヤが予定通り、酒呑童子に取引を持ち掛ける。
これから、世界の存亡すらも左右する話が始まる────そう思うと、オレらの身体は嫌でも強ばった。




