第105話 風よ、我が主よ(3)
ようやく『滅び』の呪縛から解放された衛兵はその場に崩れ落ちる。
武器を手放し、身に付けた鎧がグシャリと音を立てて。遠目で見ても満身創痍なのが一瞬でわかるその光景。限界だったのは明白だった。
「卿!」
槍を収め、ベアトリクスさんはすぐさま衛兵に駆け寄る。
その声がぼんやりする意識下でも聞こえたのだろうか、衛兵は頭を抑えながらふらふらと上半身を起こした。まだその目は焦点がはっきりせず、虚ろではあるけれど光は僅かに戻っていた。
「よかった……卿。戻れたようでなによりだ」
「へ、いか……? 私、は何を……」
安堵して息をつくベアトリクスさんに対して、まだ現状が理解出来ていない様子の衛兵。
『滅び』に取り憑かれていた時の記憶がごっそり抜けているらしい。表情も少し苦しげで、痛みを堪えるかのようにこめかみを抑えている。
「まずは卿の無事を喜びたいところではあるが……卿に先のことを話すのが優先か」
衛兵の身体を支えながら、ベアトリクスさんは話していく。今あるこの状況になった経路と、その一部始終を漏らすことなく、全て。
そして話し終わり、全てを理解したであろう衛兵は項垂れた。
「なんということを……私は御来客らばかりか、陛下にまで手を上げて!」
衛兵は床に拳を叩きつけて、やり場のない感情を地にぶつけた。
……後悔している。それが本心だと、すぐにでもわかった。やはりさっきまでの『滅び』が取り憑いた状態で紡いだ言葉も、行動も、全て『滅び』が無理やりさせていたことだと納得する。
「陛下に背いた挙句、剣を向けて反逆など重罪の他でもなんでもありませぬ! 即刻、側近の地位を辞任して……!」
「卿……いや、アルヴィス」
今にも責任という重圧に押しつぶされそうにいる衛兵に……いや、アルヴィスさんにベアトリクスさんは声をかける。
……その表情は柔らかいものだった。責任を咎めようという雰囲気は、ベアトリクスさんからは一切感じさせなかった。
「確かに、卿は私に剣を向けた。だがそれは、災いにそう差し向けられたに過ぎぬこと。卿が意思を持って剣を向けたのではあるまい」
「そうではありますが……しかし!」
「ならば卿が負う責任など無いではないか。それもここは密室、目撃者も貴女らと私しかいない。二方、事情も理解している……ここで卿が辞任しようにも、周りに混乱を与えるだけだぞ?」
そうか……ベアトリクスさんは最初からそれが目的で。
ここを密室した理由、他の衛兵にエレメントが盗まれたのを言わなかった本心。それは全て、『滅び』に呑まれたアルヴィスさんに責任を課さないためだった。側から見れば隠ぺいに見えてしまうかもしれないけれど……それだけ、ベアトリクスさんも信じていたということだ。
側近である衛兵を。いつも傍で支えてくれる、何よりも大切な臣下を。
「第一、忌むべきは災いだ。卿の不審に思う心を利用し、自らは影に隠れて罪をなすりつけようとしたのは他でもない『滅び』であろう。そしてそれを大精霊でありながら事前に対処出来ず、挙げ句の果て隠そうとしている私も卿と同罪であるな」
「へ、陛下に罪などありませぬ! 私を救おうと陛下自ら矛を手にして立ち向かっていただけたではありませんか!」
「────ならば、それで良いではないか」
「え……」
ベアトリクスさんの開き直ったような言葉に、アルヴィスさんも言葉を失う。
ベアトリクスさんの表情には笑みが浮かんでいる。さっきまではアルヴィスさんを助けるのに必死で、頰が強張っていたのが嘘のように。
「卿はエレメントを気にかけたのも、この国を思ってのこと。国と私を気遣うその心、それを咎める理由が何処にある?」
「で、ですが……」
「何故私が卿を側近に選んだか。それは国の役に立ちたい一心でひた向きに努力し、ただ前を向いて高い壁を乗り越えようとする姿勢に感銘を受けた故だ」
ベアトリクスさんの言葉に、アルヴィスさんを責める単語は一つもない。ベアトリクスさんがアルヴィスさんを責め立てる態度も一切なくて。
「卿が肝を焼いたように、私だけではこの国を支えるのに力不足。何より、国を守るというのは大精霊一人では手に余る大業……だからこそ、卿のような人材が必要なのだ」
「陛下……」
「それを捨ててしまえば、私が自らの首を締めるようなものであるし、不安になるではないか。勢いだけで突っ走るこの王を支えてくれるのは卿しかいないと自負している。だから、」
……と、ベアトリクスさんは不意に言葉を切った。そしてようやく顔を上げたアルヴィスさんに、手を差し出して。
「これから2人でその贖罪をしよう。許しを乞う暇があるのなら、この国のために尽くすのだ」
「……っ」
「その為には卿のような側近が必要なのだ。だから、これまで通りまた隣で支えてはくれまいか、アルヴィス」
「は、はい……私で良ければ、何処までも付いていきます!」
やっと立ち上がったアルヴィスさんはベアトリクスさんの手を取り、深く頷く。その頰に、一筋の涙を流しながら。
悔しさなのか、感謝なのか。恐らく両方であるだろうけど、もうそこには迷いがなかった。アルヴィスさんを蝕んでいた『滅び』のカケラは、いつの間にか気配も消え失せていた。
「はん、流石の『滅び』も信頼って繋がりまでは消せなかったか」
「そうだね」
私とルーザは2人を見据え、顔を見合わせて笑った。
どんな災いであれど、絆は消せない。それを2人が目の前で証明してくれている。だからきっと、傷は深くても負けちゃいないのだから。
「……さーてと」
そんな中でただ一人、オスクは不満げに呟いた。
「ここまでしてくるとなると、うかうかしてられないか。どうしてくれようかなぁ?」
オスクはいつの間にかくすねた、何の色も写さぬ透明な結晶を宙に放り投げ……それを受け止め、一人強く握りしめた。




