第72話 ウソツキハダレ(2)
「お茶、ありがとうございました。シュヴェルさん」
「お気に召したのならなりよりです。またいつでもお越しください」
「はい!」
お茶をもらってからしばらくして。ようやくリラックス出来た私はルーザの家を後にしようとしていた。
お茶をもらったのと、シュヴェルさんから聞いたルーザの『相棒』という言葉のおかげで私の肩の重荷はすっかり下りていた。身体も温まって、散歩の目的であったのんびりする時間も充分に楽しめた。
帰り際にシュヴェルさんにまたお礼を言って、私は歩き出す。お茶をもらってから時間も随分経ち、お昼をとっくに過ぎていた。
まだ光の世界に戻らなくても時間の余裕はあるし、まだ少し怖くもあった。またあの視線と、声と、対応が待ち受けているとなるとまだ戻る決心がつかなかった。
しばらくはシャドーラルの王都で散歩してよう。戻るのはそれからでも遅くはない。
「えっと……何処に行こうかな」
最初に比べれば影の世界も慣れてきたとはいえ、まだ私が知っているのは一部だけ。まだ知らない場所も多く、地図が手放せないのが現状だ。
この歳になって迷子になるなんて流石に恥ずかしいし……興味はあるけど、慎重に進まなきゃ。
「やっぱり似てるな……」
地図を指でなぞると、そんな考えが自然と浮かぶ。
ミラーアイランドの地形と、シャドーラルの地形。並ぶ店こそ違えど、伸びる道の長さも大きさもほぼ一致していた。唯一違うのはオスクの地下神殿がある岩山くらい。以前からわかっていたこととはいえ、やっぱりこんなに合致しているのは不思議なものだ。
似ているけど……確かに違う。鏡は写すものをそのまま写しても、それは全てではない。私にとってそれは私を取り巻く見方の違い。
ここなら何もない。視線も、声も、対応も。ここなら私は『普通』になれる。肩書きも、尊敬させることも、何一つ縛るものがないのなら、私は自由だ。思う存分散歩を楽しもう。
地図で道を確認しながら私は影の世界の王都に踏み出す。雪が舞い散る、白く飾られた道へと踏み入る。
シャクシャクと音を立てる残った雪と、しんしんと静かに降り注ぐ雪花。その中でも温かみのある会話をする妖精と精霊達。そんな様子を眺めているだけで楽しかった。
「ふふっ……」
思わず笑みがこぼれる。
やっと散歩らしい散歩が出来た、その嬉しさで。ここなら私を『普通』として見てくれる。光の世界で感じた圧迫感も今はない。
ルーザが『相棒』と言ってくれたことも相まって、私の気持ちは弾んでいた。もう少し寒さが和らいでくれたら羽を広げて飛び立ちたいくらいに。色々解放されたこともあって、少し調子に乗っているのが自分でもわかる。
「次は気をつけないとな〜」
そう言いながら私はローブのフードをいじる。
私にも責任はある。公表したことを忘れ、何も隠さずに大っぴらに歩いていたことが騒動の原因だ。王女ということを公表したのはもう過ぎたこと、私もそれを自覚しなくちゃいけないんだ。
このフードは手頃な変装道具だ。愛用しているローブが、そんなことのために役立つとは思わなかったけど。
……今はそのことは忘れよう。今となっては貴重になってしまった『普通』の時間なんだ、この散歩を目一杯楽しまなきゃ。
その後私は王都をぶらぶらしながら魔法薬を試したり、本を手にとってみたり、ただ歩いているだけだったり。行き当たりばったりのような感じで歩みを進めながら散歩を楽しんだ。
でもそんな楽しい時間はずっと続くわけがなく。無情にも時は過ぎ去り、雪が降り注ぐ空もだんだん群青色が増している。
分厚い雲の先では空が鮮やかなオレンジ色に染まっているんだろう……そんな様子が思い浮かぶと同時に、もう戻らなくてはならないという考えが頭をよぎる。
「……帰ろう」
正直、怖い。願わくば、ここに留まっていたい。
でもそうはいかない。屋敷に戻らなくてはいけないし、ルーザやオスクも今日は向こうで泊まっている。二人に余計な心配をかけないためにももう帰らなくちゃ。
私は気持ちが傾かない内に鏡の泉へと向かい、鏡を潜り抜ける。
途端にシャドーラルの寒さと切り離され、少し暖かな空気に包まれる。そして目の前には海に囲まれた、白く染まっていない見慣れた景色が広がった。
「えっと……夕飯の買い出ししなきゃ」
屋敷にある食材の備蓄分は基本的に私一人分だ。今ではルーザ達が出入りすることが多くなったものの、やっぱり屋敷にあるものだけじゃ足りない。
……食材を買うには王都に行かなくちゃいけない。以前まではなんでもないことだったのに、それが今では物凄く怖い。またあの視線が、敬意が、声が、私を晒して一人ぼっちにするから。
「だ、大丈夫……。フードを被れば見えない筈……」
自分に言い聞かせるように、胸に手を当てる。ドクドクと脈が早くなっているのが伝わってきた。
……早く済ませてしまおう。その一心で羽を広げて飛び立った。
人目につきそうな場所を避けて、王都に降り立つ。
日が暮れてきたとはいえまだ夕方。行き交っている妖精も多く、王都を賑わせていた。
ここから食材を取り扱う店はそう遠くない。早く済ませて、屋敷に帰ろう。
今度はしっかりフードを被り、足早に目的の露店へと向かう。メニューを頭で考えながら野菜を選び、必要な分だけ購入する。さほど時間もかからず、すぐに済ませられた。
「これで良しっと」
購入したばかりの野菜が詰まった紙袋を持ち上げる。ずしっと腕に来るしっかりとした重み。私に気づく視線もないし、後は帰るだけだ。
帰るだけ……の筈だったのに。現実はどこまでも残酷だ。




