第58話 真か偽か、下せし者は百鬼夜行(3)
「あ、危なかった……」
幻術から解放されたことを確信して、安堵感からほっと息をついて胸をなで下ろす。安全を確認した後に私は足元の紙切れを拾い上げた。
紫の紙に、蛇が這ったような難解な文字が描かれている奇妙で禍々しい札。切ったことでその効力は失われているものの、明らかに妖精や精霊とは違う、魔力に似た力の気配が残っている。
「ふーん、戻ってこれたか」
「……!」
聞き覚えのある余裕をかました声にハッと振り向くと……そこにはオスクがいつものように浮遊しているのが目に入った。
「オスク……!」
なんだか久々に姿を見た気がした。
幻に囚われてからそれ程時間は経っていないものの、孤独に押しつぶされそうになっていた私には凄く安心感がある。仲間がいることの大切さが嫌という程思い知らされた感覚だ。
「はあ? なに泣いてんの」
「え?」
……いつの間にか、自分でも気づかないうちに涙が溢れていたらしい。指摘されたことで、初めて自分の頬に雫が伝っていることに気が付いた。
でも、良かった。オスクの隣にはシルヴァートさんもいるし、この2人が本物だということがわかるから。流石に二重に幻術を施すなんてこと、シルヴァートさんにもできないだろうし。
「あの話の後、お前達の挙動がおかしくなったのでな。確認してみたら、予想通り幻術にかかっていた」
「や、やっぱり……。あれ、シルヴァートさんはかからなかったの?」
「この堅物に幻術は効かないっての。幻術のことを熟知している奴に仕掛けようったって無理な話っしょ」
なるほど。それでシルヴァートさんだけは幻術にかからずにいたから、私達が幻術にかかったことを知ることができたんだ。
オスクも幻術にかかっていたのだろうけど、そこは大精霊。すぐに幻惑の世界から解放させる手段を見つけたんだろう。
でも……他のみんなはまだ幻に囚われている。オスクの鎖で、幻術に惑わされたみんなが離れてしまわないように今いるこの場所に繋がれているけれど、みんなの表情は悪夢にうなされているように苦しそうだ。
唸り声を上げて、額には汗が滲んでいる、見るからに辛そうな状態。私も、ついさっきまでこんな感じだったのかな……。
「幻術から解放される手段を見つけただろう? どんなものだったか教えてくれ」
「あ、はい。これです」
私はシルヴァートさんにさっきの紙切れを見せた。これを破るか燃やすかすれば幻術は解ける筈、と添えて。
「了解した。私がこの者達の意識下に潜り込み、念話で幻術の解き方を知らせよう」
「はい。お願いします」
そう言ってシルヴァートさんがみんなに解き方を伝えようとした時。
「う、うん……」
ルーザがふらふらと頭を抑えながらむくりと起き上がった。
「あ……」
さっきのこともあり、ルーザの姿を目にするだけで心に安堵感が広がる。自然と顔がほころび、胸を締め付けていたものが緩んだ気分に包まれる。そうして私は思わず、ルーザに飛びついて顔を埋めてしまった。
「お、おい⁉︎」
「良かった、ルーザ……! 本物だよね……!」
「はあ? なに言ってんだよルージュ。本物も偽物もあるか」
ルーザは首を傾げつつも、涙をぼろぼろと零す私の頭をそっと撫でてくれた。
そんな動作が、肌に触れるルーザの体温が、何もかも暖かく感じた。今、何気なく口にしてくれた私の名も、それが目の前にいるルーザが本物だという何よりの証明だったから。
「よくわからねえが……辛かったんだな」
ルーザは困惑しながらも、私が落ち着くまで振り払おうとしなかった。
ルーザの手の暖かさが伝わってくる。さっき私を掴む手は乱暴で痛くて、とても冷たかったからそれが余計に嬉しかった。
「ま、いいけどさ。お前、よく戻ってこれたよな?」
そんな私にため息をつきながらオスクはルーザに尋ねる。
確かに、ルーザはシルヴァートさんが幻術の解き方を教える前に起き上がった。ルーザは幻に惑わされる前に、振りほどくことができたのかな。
「ああ、それか。なんか周りのもの全部ぶった斬ったら元に戻ったな」
「「……」」
あまりのルーザの答えに私とオスクは空いた口が塞がらない。
流石というべきか。力押しで幻術を解除したなんて、ルーザらしいといえばらしいものだけど、術者もまさか鎌を振り回されるとは思わなかっただろうな……。
「この脳筋妖精が……」
「は? なんか言ったか?」
「別にぃ……」
オスクがボソッと呟いた言葉はルーザに聞こえなかったらしい。
まあでも、あながち間違ってはいないかな……なんて思っていたら、今度はイブキが起き上がった。
「……む。どうやら戻ってこれたか」
「あ、イブキ! 幻術、解除できたんだ……!」
「かたじけない。あの幻術には見覚えがあったというのに。拙者の注意力不足だな」
戻ってこれたというのに、イブキは私達に申し訳無さそうだ。
幻術にかかったのはイブキのせいじゃないのに。私達だってあれだけ気をつけろ、と言われていたのにまんまと罠にかかってしまった。
「お前だけの責任じゃないだろ。そもそもオレらも仕掛けられる前に気づけるところはあった筈だしな」
「そうだよ。もうかかってしまったんだから、この幻術の術者をなんとかしよう」
「……それもそうであるな。この幻術はまさしく妖のもの……しかも、ここの妖を束ねる大妖と言っていい程の者の仕業」
イブキの視線が私達を通り過ぎて、その先を見据える。つられて私達も見てみると……そこには黒い着物を着た、灰色の妖精が立っていた。
「は⁉︎ なんで『オレ』が……」
そう。そこには紛れもなく『ルーザ』が立っていた。
忘れる筈もない。さっき、私を引き込もうとしてきた偽ルーザだ。だけどその偽ルーザの表情は本物のルーザには程遠い、冷たい表情で妖しげな笑みを浮かべている。
「うっわ。ルーザが2人とか、一番恐ろしい悪夢だ……」
「どういう意味だよ、それ……」
偽ルーザを目にしたオスクの言葉に、明らかに不満げなルーザ。
でもそんな2人をなだめている暇は無さそう。この偽ルーザを今、一瞬でも視界から外せば何をされるかわかったものじゃない。
『大人しく引き込まれてればいいものを……。妖精の分際で随分手こずらせてくれる。おかげでカグヤ様の命令も果たせないじゃないの』
偽ルーザはもう隠すつもりもないのか、ルーザとは全然違う声色で言葉を紡いだ。
そしてその言葉で疑問が確信に変わる。やっぱり、イブキとシルヴァートさんが言っていた通り、満月の大精霊が使役していたんだ。
それが何故私を執拗なまでに連れ去ろうとしたのかはわからない。けど、この偽ルーザは油断できない相手だ。
『妾はお前を連れて来いと言われただけ。どこがいいのよ、こんな妖精……』
「……お前、何者だ? いい加減正体を現したらどうだよ。オレの姿を繕うってことは、やられる覚悟ができているんだろうな?」
ルーザは自分の姿を写されているからか、物凄く不機嫌だ。それこそ、少しでも動けば容赦無く斬り捨てると言わんばかりに。
『ふふふ……』
偽ルーザの口から意味ありげな含み笑いが漏れる。その瞬間、偽ルーザの姿が波打ったように揺らいで、その色彩が絵の具が混ざっていくように渦巻いていった。
……やがてそれは現れた。月光を思わせる、金色に輝く長い髪と九本の狐の尻尾を携えた人間体の女性の姿をとって。紅白に彩られた着物がその女性の身体を艶かしく彩り、その顔にはさっきと変わらない妖艶な笑みが浮かんでいるその姿。妖精とも精霊とも違う、もっと別の存在を思い知らされた。
頭にある狐の耳を動かしながら、その女性は扇を優雅に口元に当てて、私達を見下すように宙に浮かぶ。
「やはり思った通りか。幻術を仕掛けたのは其方であったのだな……妖の長、玉藻前……!」
イブキの声にその妖狐は嘲笑うかのように、その赤い瞳には余裕が透けて見えていた……。




