断章 闇の中の誓い
────男は走っていた。
足元にまで届きそうな黒髪をなびかせるその姿は軽やかとは程遠く、身体を引きずるように足を必死に動かして。
ただただ、その場を離れようと駆け抜けた。足の感覚は失ってから久しい。どうやって今いるこの場所に辿り着いたのかも、男は覚えていなかった。
「こ、のっ……」
男が羽織る紫のローブは裾が破れ、本来は艶やかであろう黒髪もあちこちに引っ掛けてほつれ放題で。疲労で重くなった身体を、腕を振ることで何とか前へ、前へと進ませる。
そんなボロボロの男とは対照的に、男を見下ろす空は見事なまでの夕焼けを写していた。毒々しいまでに鮮やかなオレンジと紫に染まった空は、男にとって憎たらしい程に美しい。
────そして、男は足を止める。
「ホントに……クソみたいだな。この世界は」
男が足を止めた先。そこには外に置かれているものにしては場違いなまでに煌びやかな装飾が施された鏡が据えられていた。
鏡の表面は夕日を写し出し、その光を反射して輝いている。鏡に写る筈の男の顔は、その光で白く塗りつぶされた。
「……ハッ」
男は一人、そんな鏡の中にある酷くくたびれた己の身体と服装を見て自虐的に嘲笑った。無様なものだと、鏡の中の自分を鼻で笑う。
全く、酷いものだ────その悪態は声にすらならなくて。
……急に背が重くなった。後ろにぶら下がる、最早重荷と化した髪が鬱陶しい。ここまで来たら、それは男にとって邪魔以外の何物でも無かった。
必要なものだとしても、今は自分の手元にあるべきものじゃない。だから決別の意味でも男はそれを手に取り、一瞬何かを思うようにじっと見据え……やがて切り離して。
もう二度と、ここには戻れなくても。今まで手にして来たものを、全て失ったとしても。何処か遠くにある『何か』……男の視線の先に確かに存在するそれを真っ直ぐ見据えて、
「────お前を、引きずり落とす」
……誰も聞かない、誰も知らない、けれど強い意思が込められたその決意の一言と共に、男は目の前の鏡に飛び込んだ。