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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集

麦茶……

作者: 梨香

残酷な表現があります。苦手な方は、ご注意下さい。

 こんな場合なのに、むしょうに麦茶が飲みたかった。冷蔵庫から麦茶の容器を取り出してコップに注ぐと、一気に飲み干した。冷たい麦茶が食道から胃へと落ちていく感覚が、動転しきっていた私に現実をつきつけた。

「救急車を呼ぶべきなのだろうか?」

 ガタガタと震える手でスマホをポケットから取り出すが、上手く操作できない。リビングの壁に取りつけてある電話の子機をとった。しかし、何処へ電話をするべきなのか、迷って立ちつくす。


 目の前に妻が首から血を流して横たわっている。遺体は、本当に妻なのだろうか? と疑いたくなる程、余所余所しい。

「やはり、警察だろう……強盗が入ったのかもしれない」

 警察への電話は、支離滅裂だったが、妻が死んでいる事は伝えられた。



 警察が来てからの事は、現実とは思えない。妻を私が殺したみたいに、あれこれと質問された。悪夢のような時間が過ぎて、会社との連絡がつき、私が出張中だったと裏づけがとれた。自分への疑いが晴れたのはホッとしたが、ふつふつと怒りが込み上げてきた。

「私を疑っている暇があるなら、犯人を見つけて下さい!」と声を荒げた。

 しかし、警察は強盗だとは初めから考えてなかったようだ。発見者である夫のアリバイを確認すると、遺書を見つけて、自殺だと断定した。

「強盗ではなく、妻は自殺したのですか? それも、包丁を両手で持って喉に突き刺して……」

 その壮絶な死に方は大人しい妻らしくない気がしたが、遺書は、無口な妻に相応しく『許して下さい』とのみ書いてあるだけだった。




 葬式は簡単に身内だけですませた。

 妻の両親に、何があったのか? と問い質されたが、こちらこそ聞きたいぐらいだ。

 見合いで結婚し、ごく普通の生活をしてきた。浮気もしていないし、勿論、暴力などもふるったりはしない。給料は全て妻に渡し、私はお小遣いで昼食やたまに同僚との飲み会を遣り繰りしていたのだ。


『許して下さい』という遺書を睨みつけても、全く心当たりがない。

 何故、妻が自殺したのか? 考えるのに疲れて、麦茶が飲みたくなった。冷蔵庫を開けたが、麦茶はない。当たり前だ! 妻は死んだのだ。

「そう言えば、年中麦茶だったな……」

 夏に麦茶を飲むのは普通だが、冬も麦茶だった。その途端、妻が何故自殺をしたのか、わかったような気がした。

「馬鹿な……もう、ずっと前のことじゃないか……」

 結婚して七年経つ妻との間には子どもはいない。しかし、新婚の頃、一度だけ身籠ったことがある。残念なことに流産し、その後は身籠ることは無かった。

 私は、子どもは好きだが、できないものは仕方がないと割りきっていた。大人しく無口な妻と、老後を静かに過ごすのも良いだろうと考えていたのだ。

 そう! カフェインが赤ちゃんに良くないからと、身籠った時から麦茶を飲み始めたのだ。妻がどれほど欲しいと願っていたのか悟った。不妊治療に通ったりもしていたが、この一年は止めていた筈だ。ホルモン治療が辛いとこぼしていた。

「何も死ぬことはないじゃないか……」

 子どもができないことを苦にしての自殺? 妻の両親は納得するかもしれないが、私は腑に落ちない。子どもができなくても良いじゃないか! そんなことで死ぬのか?

「私は一人で生きていくのか?」

自殺した妻に文句を言いたくなる。

「だから、許して下さいなのか?」

 夫婦喧嘩は滅多にしなかったが、私の言い分に不満な時の曖昧な微笑みを浮かべた妻の顔が浮かぶ。


 やはり、自殺の理由はよくわからない。しかし、シュンシュンと麦茶を沸かしながら、何故妻の孤独に気づいてやれなかったのかと思うと、涙が次から次へと溢れてきた。

 妻が大人しく無口なのをいいことに、蔑ろにしてきたのではないか? 仕事をして養っているのだからと、偉そうな態度だったのではないか? 台所に立ち込める麦茶の湯気に、自分の妻を自殺させるような非情な夫だと責められる気持ちになった。



 私は、妻の死を純粋に悲しむことができなかった。自分が何故気づけなかったのか? と責めたり、自殺した妻に腹を立てたり、理由をあれこれ推察したりして過ごした。


 だが、何故か麦茶を沸かして飲むのを止める事もできなかった。

「馬鹿馬鹿しい、カフェインが駄目な妊婦など何処にも居ないのに!」

 そう考えるのだが、リビングの片隅に置いてある妻の位牌と遺影に供えるのは麦茶でないといけない気がする。

 控え目な微笑みを浮かべた妻の前に、麦茶の入ったコップを置いた。この写真は、花が好きだった妻を植物園に連れて行った時に撮ったものだ。もう二年前の少しだけ若い妻だ。


「もう一緒に年をとることは無いんだな……」


 人生を共に生きる相手だと私なりに愛情を持っていた。その妻が死んだのだ! 


 これから、私が年をとっても、何時までも35歳のまま時は止まっている。




 心から悲しみが溢れてきた。

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