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「ねえお侍さん、外の世界のこと、もっとよく聞かせてくれないかい」

 雪克がさくらの手当てを受けてから数日後、さくらがつと尋ねた。突然の質問に、雪克は数瞬のあいだ目を丸くする。囲炉裏の床にある布団の上で仰向けになっていた彼は、少し離れた炊事場で夕餉(ゆうげ)の準備をしていた質問の主に、やや声を張り上げながら応じる。

「どうしたんだ。藪から棒にそんなことを聞いて」

「別に。ただよくよく考えたら、あんたがどうして蝦夷地を目指すようになったのか、あたしまともに聞いていなかったからさ。ちょっと聞いてみようかって思っただけさ」

「そうかい。しかし、話せば少し長くなるぞ」

 雪克はそう前置きしながら、炊事場からかすかに見え隠れする黒い影に向かって告げる。鍋がことことと沸騰する音を聞きながら、雪克は遠くを見るかのような目つきでゆっくりと話し始めた。

「どこから話そうか。元はと言えば、おれが餓鬼だった頃からいろいろあったにはあったが、とりあえずは去年のことから話そう。去年の今ぐらいにな、ご公儀(こうぎ)が朝廷に政権を返して――つまりは、徳川幕府が跡形もなく無くなった」

 えっ、本当かい。さくらが素っ頓狂な声をあげながら、雪克の顔を覗き込む。雪克は、さくらの驚いた表情を見てからしばしの間をおいて、ゆっくりとかぶりを振った。

「いや、正確に言うなら、すぐには無くなろうとしなかった、と言った方が正しいのかもしれないな。それから程なくして、朝廷は王政復古の大号令を出したりしたが、薩摩(さつま)の討幕連中と、ご公儀の上の連中との(いさか)いを機に、日本全体で大きな内戦が起きた。京の都を皮切りに、甲州や上野、宇都宮。敵味方問わず、あちこちで大勢の人が死んだ。おれの父上や兄上も、おれの旧友も、みな薩長の流れ弾に当たって死んじまった。そのときの光景は、忘れようにも忘れられない。今でもたまに夢に見るぐらいだ」

 そこまで言ったところで、さくらが炊事場へと引っ込んでいった。雪克は再び、小さく見え隠れする桜の影に向かって続ける。

「二月前の会津での戦いは壮絶だったよ。若松にある城に、薩長の官軍が毎日のように砲撃を仕掛けてくるんだ。あの時は夜もろくに眠れなかった。ただおれにとって何より辛かったのは、おれより年下の連中が何人も戦に駆り出されたことだ。そいつらが死んだのか、あるいは無事に生き延びられたのか、結局分からず(じま)いのまま、会津は降伏した。それからおれは、榎本さんたちの艦隊が箱館から仙台に来ていると聞いて、すぐに合流しようとした。けど野戦に巻き込まれたり、薩長の追跡から逃れたりして。おれがようやく仙台に辿り着いた頃には、艦隊は仙台を発った後だった。それで、おれはここ数週間の間、自分ひとりの力で蝦夷地を目指していた、というわけだ」

 言い終わると、雪克は長い溜息を吐き、眉間を小さく掻いた。ここまで長く喋ったのはいつ以来だったろう。そう思案していると、さくらが凛とした声で尋ねる。

「お侍さん。あんたが相当苦労してきたのは分かったけど、聞いてみれば、えっと、サッチョウと言ったっけか? そこが優勢みたいじゃないか。あんたもそっちに寝返っちまったらどうだい。きっとそこの偉い人から恩賞をいっぱい貰えるだろうに」

「それはできない。おれの家は先祖代々、徳川の上様をはじめご公儀から、富士の山よりも高い恩義を受けてきたんだ。今更寝返ろうなど武士の恥だ」

「ああ、まーたそれかい。武士だどうだらって。あんたって本当に一途というか、頑固というか」

 さくらが呆れ返ったような様子で、ぶつぶつと呟く。それを耳にした雪克は小さく溜息を洩らし、好きに言えばいいさ、と一言応じた。

「おれの話は以上だ。さくら、お前はどうなんだ」

 あたしかい? さくらは訝しげな口調でそう言った。

「あたしについては、もう聞いた通りさ。物心ついた時からこの雪山に住んでたし、おっ(とう)はあたしが生まれてすぐにおっ死んじまって。二年前におっ母も死んで、後はもうあたし一人さ。特に話すことは何もないね」

 そうか。雪克は一言そう言うと、炊事場からさくらが大きな鍋を持って出てきた。鍋からは大量の湯気が噴き出し、中には粟や大根、芋などが入っていた。それら独特の香りが雪克の鼻に入り込み、鼻腔を心地よく刺激する。

「さあ、これでも食って元気出しな。どのみち当分は、ここで怪我を治さなきゃいけないんだからね。安心しな、別に取って食いはしないよ」

 さくらは鍋を囲炉裏の上に置くと、小さな椀に鍋の中身を(よそ)い、雪克の側に置いた。彼女もまた自ら適量を椀に入れると、すぐさまそれを口に運んだ。うん、美味しい。彼女が満足げな笑顔でそう言うのを聞いて、雪克も竹箸をとおして小さく切った大根を口に持っていく。それとともに、大根の甘味が彼の口いっぱいに広がった。

「うん、美味い」

「だろう? おっ母から食い物の作り方はみっちり仕込まれてるのさ。不味い筈がないだろう」

 さくらは得意げにそう言うと、雪克へ満面の笑みを向ける。そのときの彼女の純粋な笑みに、雪克は一瞬自分の心臓が高鳴るのを感じた。



 それからおよそ四か月の時が経ち、山に積もっていた雪は、初めに雪克がこの地を訪れた頃と比べてだいぶ薄くなっていた。それにより幾分か歩きやすくなった雪の道を、さくらと雪克は並んで歩く。

 二人の身体に、冷たくもどこか暖かな春の風が心地よく吹き付ける。さくらの白い髪が風に舞い踊るのを前に、雪克は自分の心が落ち着かなくなり始めたのを感じ取る。この四か月の間、自分の怪我の介抱を続けてくれた彼女に抱いているこの気持ちが何なのか、雪克自身もうすうすと気づいていた。だからこそ、口に出すのは(たばか)られる。自分の本来の使命は、武士として徳川に尽くすこと。そのため、いずれはさくらとも離れなければならないのだ。そう心の中で自問自答しながらも、雪克は生まれて初めて抱いたこの気持ちに翻弄され続けていた。

「どうしたのさ、あんた」

 ふいに、さくらが雪克の顔を見上げた。雪克は、なるべく平静を保ちながら彼女の言葉に応じる。

「いや、何でもない。それよりも、これ全部桜の樹なのか」

 雪克はそう言うと、眼前に広がる山桜の木々に目を向けた。細い枝の先端に薄桃色のつぼみを付けたそれを前に、雪克はぽつりと呟いた。

「今の時期ならもう咲いている頃かと思ったんだが、そうでもないんだな」

「北国になればなるほど、桜の咲く時期も遅いんだとさ。小さい頃おっ母に聞いたことがあるよ」

 さくらはそう言うと、雪克と同じように山桜へと視線を向ける。彼女の澄みきった赤い瞳は、眼前の自然を映していた。

 二人の間に、静寂が訪れる。風の吹く音だけが二人の間に流れ、千切れた灰色の雲が青空をゆっくりと進む。そんな中、さくらがあのさ、と口火を切った。

「お侍さん。あんたもいつか、ここを離れる時が来るんだろう?」

 さくらの唇から漏れた思いがけない言葉に、雪克は彼女の顔へと顔を向けた。桜色に紅潮した彼女の顔は、雪克をじっと見つめていた。快方に向かっている自分の身体を見て、おそらく彼女も分かっていたのだろう。

 雪克が意を決してさくらの言葉に答えようとする。だがそれよりも先に、つま先立ちをした彼女の顔が、雪克の顔に近づく。そのまま少女の唇は、青年のそれを塞いだ。

 さくらは、ゆっくりと雪克の身体を押し倒す。二人の身体は薄く積もった雪の上に倒れ、衣服もしとどに濡れる。それでも、さくらは唇を塞ぐのをやめようとはしない。彼女の華奢な手は、雪克の纏う外套を力強く握っていた。

「いやだよ。あたしは、あんたのことが、その、好きなんだ。だから。その。ずっと側にいてほしい」

 ようやく唇を放したさくらは、息も切れ切れに口にする。初めて見せたしおらしい様子の彼女は、困ったように目を伏せており、雪克にはそれがとてもいとおしく思えた。そして気がつけば、今度は雪克の方からさくらの唇を塞いでいた。

 冷静に思い返せば、彼女と初めて会ってからこんな気持ちを既に抱いていたのかもしれない。そうぼんやりと思案しながら、雪克は眼前の少女と甘美なひと時を過ごした。いずれは春が訪れる、冷たくも暖かいこの地で。いつまでも、何度も。

 ――こんな時間が、永久(とこしえ)に続けばいいのに。どちらからともなく、そう口にする。その言葉はどことなく甘く、そして切なく響いた。

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