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 幾重にも重なった風の唸り声が、雪克の耳に届く。それと同時に、彼は全身に寒気を感じた。聴覚と触覚への刺激を受け、雪克は目を少しずつ開けていく。徐々に鮮明になる視界を前に、雪克は、雪のように白い髪をした白装束の少女が、自分の顔をじっと覗きこんでいるのに気づく。

「うわあっ!」

 はっと両目を見開いた雪克は、思わず勢いよく飛び上がる。すると、彼の額と少女の額が鈍い音を立ててぶつかった。小さく悲鳴を上げ、その場でうずくまった少女は、両手で額を押さえながら雪克の顔を見つめる。彼女の瞳は、鮮血のように真っ赤だった。

「急に何すんだい、あんた。痛いじゃないか」

 少女は雪克に不満の言葉を投げかける。それに対し、頭がぼんやりしたままの雪克は、少女の言葉に応じることなく、代わりに頭から湧き出た疑問を率直に述べた。

「な、なんだ、お前は」

 雪克は目の前の少女を凝視する。背丈からしておおよそ十五、六歳ぐらいの彼女は、髪や肌、そして身に纏う装束に至るまで、ほとんどが白一色に染まっていた。それ故に、唯一赤い色を帯びた少女の大きな瞳は、ひときわ異彩を放ってこそいたが、同時に少女の整った顔立ちをくっきりと印象づける。

 雪克がさらに周囲に目を配ってみると、彼がいた場所は三畳程度の広さをした板張りの床のようだった。床の中央には小さな囲炉裏(いろり)があり、床の向こうに、数本の細い柱のみで仕切られた土間が見える。先ほどまで自分が眠っていた床板は、外気の影響ですっかり冷え切っていた。土間の片隅にある古い障子が、外の風を受けて小さく音を立てながら揺れる。雰囲気としては、庶民の家の造りとさほど変わらない。

 外からわずかに漏れてくる光は、わずかに紅を差しつつある。もう夕暮れが近いのか。雪克はそう直感しながらも、少女へと向き直り、なるべく冷静な口調で問いかける。

「いったい、ここはどこだ。お前は、何者だ」

 少女は、赤く染まり始めた額を両手で押さえたまま、青年の顔を凝視する。赤い瞳に見つめられた雪克は、思わず息を呑んだ。

「あたしかい? あたしはこの山を根城にして暮らす『雪女』さ。里の連中が噂してたろう。知らなかった、とは言わせないよ」

 雪女。雪克は、里の者たちが口々に噂していた存在を思い出す。雪克自身未だに信じられない思いだったが、眼前の少女の外見は、かつて彼が耳にしてきた怪談や伝承に出てくる雪女の姿そのものだ。

「だとしたらお前、(もの)()か」

「物の怪かい。そう言う人間もいるけど、化物扱いされるのは心外だね。あたしにだってちゃんとした名前ぐらいある」

「ではお前、名はなんという」

「待ちな」

 少女が、雪克の言葉を鋭い口調で遮った。少女はさらに言葉を続ける。

「お侍さん、男ならまず先に名乗りな。あたしにばかりいろいろ答えさせるのは不公平ってもんだろ」

 赤い瞳が雪克を静かに見つめる。一切の遠慮を映さないその瞳に、雪克は心の内で圧倒される。最初に口を交わしてから感じていたが、何と気の強い女子(おなご)か。少女の印象をあらためて再認識しながらも、雪克はゆっくりと口を動かす。

「おれは、白銅雪克という。ここより北の蝦夷地へ向かっていたところだ」

 雪克の言葉に、少女は二、三回瞬きをしたかと思うと、しげしげと彼の顔を見つめた。

「へえ、わざわざ海を越えて蝦夷まで行くってのかい。しかもここらじゃ見かけない、なかなか洒落込んだ格好までしちゃって。若いのに物好きだね」

「これは西洋から取り入れた、れっきとした軍服だ。それに、おれは道楽目的で蝦夷地を目指してるわけじゃない。大義(たいぎ)のためだ」

 たいぎ? 少女は、雪克の言葉を鸚鵡(おうむ)返しする。

「そうだ。おれは、蝦夷地――正確には、榎本(えのもと)さんや土方(ひじかた)さんがいる箱館(はこだて)を目指して、会津(あいづ)からどうにかここまで来た。徳川(とくがわ)の世を、これからの日本に息づかせるために、おれはどうしても箱館へ行かねばならないんだ」

 雪克の口調が徐々に早く、力強くなっていく。いつの間にか、彼のこぶしも強く握られていた。対する少女は、そんな彼の言動にただただ首をかしげていた。

「あんたは、どうしてそこまでその――『大義』とやらで、徳川に肩入れするんだい。そもそも、もう二百年以上も前からここは徳川の世じゃないか。今さらそんな、堅っ苦しい恩義を売る必要もないだろう」

 少女がぽつりと漏らした言葉に、雪克はぽかんと口を開ける。まるで開いた口が塞がらないかのように唇をぱくぱくと震わせながら、雪克はどうにか言葉を絞り出す。

「おい、お前。今日本がどういう状況になっているか、分かって言っているのか」

「さあ。あたしはこの山でずっと暮らしてきたからね。山の外の世界がどうなってるかなんて、別にあたしの知ったことじゃないさ」

 少女は真顔でそう口にしながら、側にある囲炉裏へと身体を向けた。刹那、少女の顔は薄闇に覆われる。外から差し込んでいた紅の光は、いつの間にか薄紫から藍色を帯びたものへと変わり、日没の訪れを雪克に予感させた。

 囲炉裏の下側から所どころ形が欠けた火打石と、小型の火打鎌を取り出す少女をじっと見つめながら、雪克はぼんやりと考える。この娘――雪女は、きっと知らないのだろう。先ほど彼女が口にした徳川の世は、すでに存在しないということを。そして今、自分と同じように徳川の世を再興しようとする者と、徳川幕府を倒し新政府を樹立しようとする者の戦いが続いていることも、彼女にとっては蚊帳(かや)の外の出来事に違いない。

「ああもう、調子が出ないねえ。寒さでどこか悪くなっちまったのかい、まったく」

 少女は舌打ちをしつつ、火打石を火打鎌に据えられた金具へと打ちつける。しかし、何度左手に持った火打石を打ちつけても、一向に火花が出てくる気配はない。悪戦苦闘する彼女の様子を見て、雪克はゆっくりと立ち上がり、少女の側へと歩み寄る。そんな彼に気づかないまま、少女は火打石を火打鎌へと打ち続けていた。

「どれ、貸してみろ」

 雪克の手が、少女の両手にある火打石と火打鎌を掴む。それと同時に、少女と雪克の身体が肩越しに触れ、胸まで伸びた少女の白い髪が雪克の顔を掠める。彼の鼻腔に、心地よい香りが伝わってきた。

「ちょっと、あんた」

 少女の呼びかけを聞きながら、雪克は少し熱を帯びた火打石を火打鎌へと打ちつける。二、三度打ちつけたところで、火打鎌の金具から橙赤色の小さな火花が飛び散った。

「これでいい。火口(ほくち)はないのか」

 雪克の呼びかけに、少女は手元から素早く小さな綿を取り出した。右手の火打鎌を手近にある安全な場所に置いてから、雪克は彼女の手から綿を掴み、火打石の上にあてがう。火口として渡された綿は、みるみるうちに表面を黒く染めていく。

 少女は、囲炉裏の中央にある薪の中から短く平らな付け木を取り出すと、それを綿の黒い箇所に当てて軽く息を吹きかける。すると、付け木の先端に小さな炎が宿り始めた。少女は、手に持った付け木を囲炉裏の中にある薪へと持っていき、そこに火を点ける。薪に火種が燃え移ったのを確認した彼女は、ゆっくりと燃えていく薪の中へ付け木をそっと置いた。

「ありがと、あんた。助かったよ」

 少女が雪克に向かって、感謝の言葉を述べる。彼女の白い頬は、燃え始めた炎の色を照らし出し、かすかに潤んだ両目も、揺れる炎を映し出していた。少女の思いがけない色香を前に、雪克は一瞬心臓を震わせながらも、それを振り払うかのように言葉を振り絞る。

「これぐらい、どうってことはない。それにしても、意外だな。雪女といえども、こうして暖を取ることもあるのか」

「何言うんだ。火がないと、楽しんで殺す意味がなくなっちまうじゃないか。ねえ、あんた」

 少女の口元が不敵に歪む。雪克の心臓の鼓動が、先ほどとは異なる高鳴りを見せた。

「どういう意味だ」

「言葉通りの意味さ、お侍さん。あんたを、あたし自らの手でゆっくりと殺すのさ。あたしは雪女だからね、その気になれば人様をすぐ凍らせるぐらい、どうってことないさ。だけど、あんたはここらじゃ珍しい、若くて顔も良い男だからね。すぐに殺すような真似はしない。その分、ゆっくりじっくり、丁寧に味わいながら殺してやるよ」

 少女が、膝立ちの体勢で雪克ににじり寄る。対する雪克は、彼女が少しずつ近づくたびに、後ろへと後ずさった。

「待ちなよ。これから死ぬまで年頃の娘と夜を共にするんだ、少しは(よろこ)んでくれたっていいじゃないか」

 少女は、唇から小さな舌を出し、軽く舌なめずりをする。赤い瞳に、輪郭の歪んだ雪克の顔が映る。雪克は、眼前の女に恐怖を悟られないよう、そっと両手の平を床へ置いた。刹那、彼はある違和感を覚える。そのことに気づいた雪克は、左手を二度、自らの腰の上へ持っていった。彼の不自然な手の動きを見た少女は、快活に言ってみせる。

「ああ、お侍さん。あんたの腰にあった立派な大刀(かたな)は、あたしが隠しちまった。もちろん脇差もね」

 少女の言葉に、雪克は心の内で舌打ちをした。何てことだ。武士として生まれて十九年、命よりも大事にしてきた武士の証を、異形の女子に隠されてしまうとは。雪克の心中で、悔しさと情けなさとが複雑に入り交じっていく。

「大刀でぶった斬られちゃ、さすがのあたしも敵わないからね。刀の一本や二本、別になくたってどうってことないだろ」

 少女が安堵したかのような面持ちで告げるのを前に、雪克は落ち着き払った口ぶりでぽつりと漏らす。

「勘違いしないでくれ。お前が雪女だろうが何だろうが、おれは女子を斬るつもりはない。道理に反する」

 この言葉を受け、少女は思わず息を呑んだ。少女はそのまま、声の主である青年の顔をしばし見つめる。赤い瞳に映し出された青年もまた、少女の顔を見つめていた。

 それから数拍ほどの間を置いて、少女はつと立ち上がり、そそくさと土間へ移動した。雪克は、囲炉裏の側で座ったまま、草鞋(わらじ)を履く少女の背中を見つめる。

「その言葉、本当だったら良いんだけどね。ところでお侍さん、あんた晩飯はどうする。簡単な汁物なら作ってあげるよ」

 少女は長く白い髪を揺らしながら、土間の壁に立てかけられた小さな鍋を手に取った。雪克は、そんな彼女の質問に淡々とした調子で応じる。

「そうだな。とうに日も暮れたことだし、ここはひとまず腹ごしらえをさせてもらうか」

 そこまで言ったところで、雪克は、そういえば、と思い出したかのように頓狂な声を上げた。

「お前の名を、まだ聞いていなかったな。何というんだ」

 雪克の声を聞いた少女は、両手に鍋を抱えたまま、顔だけを彼の方へと向ける。

「『さくら』だよ。それがあたしの名前さ」

「さくら、か。雪女のくせに、なかなか良い名前じゃないか」

「変なこと言うんじゃないよ、あんた」

 少女――さくらはそう言って雪克の言葉を軽くあしらうと、彼から顔を逸らし、土間に併設された炊事場へと歩いていった。さくらの姿が見えなくなったところで、雪克は両手を囲炉裏へと持っていく。

 囲炉裏の炎はいつの間にか焚き火ほどの大きさになっており、青年の細く長い影を土間の壁にくっきりと照らし出していた。

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