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その日も農夫はいつもと同じように、開墾作業を続けようとしていた。その作業は、父も祖父もその前の代からもずっと続けられていたことだった。おかげで彼の農地は痩せた土地ながら順調に広がり、閉ざされてしまう厳しい冬への蓄えにも不足をしないでいられるほどになった。もうすぐ二人目が生まれるため、今年は寒くなる前にもう少し増やしておきたい。彼の後ろには未墾の深い森がここもどうぞと言わんばかりに広がっている。そこもいつか自分の手で開いてやるぞと思いながら一心不乱に鍬をふるって切り株を固い大地から引きはがそうとしていると、息子が作業場にやってきた。
「こら、危ないから来ちゃ駄目だ」
息子はまだ五歳なので仕事を手伝える歳ではないのだが、父親の必死さが伝わるのか小さいながらも何か助力できないかという確固たる意志を持っているようだった。前向きなその頑固さを嬉しく思いながらも危ないから遠ざけようとする農夫だったが、息子は忠告を聞いているのかいないのか、自分の疑問を優先したようだ。
「とーちゃん、魔女ってなあに?」
「あ?」
脈絡のない質問に、思わず作業の手が止まる。息子は特に何を考えているでもない顔で、「どうしてお空は青いの?」と聞くのと同じ調子でその質問を投げかける。
「じーちゃんはよく知らないから、とーちゃんに聞けって。ねえ、魔女ってなあに?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
農夫は自分もよく知らないことを息子に悟られないように、質問を質問で返した。彼の父にして息子の祖父たる男は、開墾作業中に足を痛めてしまったため今は家でじっとしているしかできないと不満を漏らしている。とはいえ、知識の程度は農夫も同じくらいだ。昔、学校に通っていたのはほんの少しの間で、その時に歴史の一環として習った気もするが、そういう存在が過去にいた、ということ以外覚えていない。詳しくは習わなかったのかもしれない。
「んとね、魔女が目覚めたって言ってた」
「誰が?」
「黒い恰好した人たち。あっ、あれだよ」
息子が指さす方向には、確かに怪しい黒装束の一団がうごめいていた。ここからだと個の様子は全く見えないが、どうやら村の血気盛んな連中と言い合いになっているようだ。なにがしかの新興の宗教団体だろうか。
「なんだあ、ありゃあ」
「ねー、とーちゃん、魔女って」
呆れた様子で農夫が首にかけた手拭いで汗をぬぐい、息子が再度質問を重ねようとした、その時だった。
そろそろ肌寒さを感じ始めていた季節にも関わらず、背中に春のぬくもりを感じたのだ。温かい春風がなぜ吹くのかと振り向いた先に会ったのは、春の景色などではなく、灼熱の炎が深い森を焼き尽くしている光景だった。
「……は?」
ぽかんとする農夫の目が、その劫火の向こうで底光りする光をとらえた。その輝きは瞳だったが、到底人の持つ大きさではありえない。そしてその位置も、六つある数も、人ではない。
それは炎の色に負けぬ毒々しい緋色の鱗に覆われた、小山ほどの大きさのドラゴンだった。凶悪な牙をむき出しにして、邪悪を宿した瞳が炎の向こうにいる農夫を見据えている。既に肌に感じる気温は春どころか真夏を通り越して、息をするのもやっとというところにまで上昇していた。燃え盛る炎のせいで空気が薄くなっているのだ。
彼が開墾を目指していた森を一瞬で焼き尽くしたのは、この火竜に他ならない。だがこのような生き物は、聞いたこともなければ見たこともない。かろうじて息子に読んで聞かせる絵本に、倒すべき敵として出てくるくらい。
農夫は夢を見ているのかと思ったが、体に感じる熱さも苦しさも現実のものだった。次に焼かれるのは自分だと分かっていても、恐怖で竦んでしまっていた。へたり込まなかったのが不思議なくらいだ。
火竜の咢が開いた。不可視の力がそこに宿っていくのを感じた農夫は、咄嗟に息子をかばって地に伏せた。実際に放たれたのは炎ではなく大地を引き裂くほどの咆哮だったが、彼は生きた心地がしなかった。伏せている彼の背を強風が駆け抜け火竜が飛び立ったことを知ると、思い切って顔を上げた。村の中心向かって飛んでいく竜の背には、人影があった。女のようだったが、手綱もなければ鞍も足場もなく、空気抵抗すら無視して立っているようだった。そんなことが可能な人間がいるはずもない。まして人より巨大で凶暴な力を秘めているものを従えているなど。
火竜は村のいたるところに向かって火焔を吐いた。集落は瞬く間に炎に包まれ灼熱に染まった。言い合いをしていた若い衆が右往左往する傍で、黒い集団が逃げもせず火竜に向かって祈りを捧げているのが見える。彼らは命乞いをしているのではなく、ドラゴンに自らの存在をアピールしているかのようだった。否、その背に乗る人に向けてか。
「た、大変だ……」
「かーちゃんと、じーちゃんが」
震えて動けなかった農夫だったが、息子の泣き出しそうな声を聞いて、とどまっている場合ではないと勇気を振り絞った。火竜はまだ去っていないが、身重の妻と足の悪い父を放っておいていいわけがない。見える範囲では、家を焼かれ自らも炎に巻かれながら七転八倒する村人の姿もあった。再び震えそうになる己を叱咤して、彼は息子を抱えて走り出した。
どうか無事でいてくれと、真摯に祈りながら。
「お兄様が魔女に攫われたというのは本当ですの!?」
ハイデマリーは王女にあるまじきはしたなさで会議室のドアを開け放つと、大声でそう叫んだ。重要な会議中であることは侍女に言われるまでもなく知っていたが、じっとして結果を待つなどできなかったのだ。彼女の声に負けず劣らず喧々諤々と議論を交わしていた面々は、高いその声の乱入に一瞬ぴたりと止まってしまった。その隙を逃さず、彼女は堂々と室内へ踏み込む。すぐ後ろまで来ていたはずの侍女は、部屋を守る衛兵の傍で縮こまってしまって入っては来られない。
父であるニコラウス王を中心に、右大臣ファルケ卿、左大臣タオベ卿、グリフォーネ将軍に筆頭貴族のカヴァレリスト公爵以下、そうそうたる顔ぶれが集結していた。どの顔色も一様にすぐれず、妙案もなければ悪い知らせしか届かず、旗色が悪いことは明らかだった。
「ハイデマリー、会議中だ。後になさい」
「いいえ、今にいたしますわ。お父様はお兄様のことが心配じゃございませんの!?」
「良いではありませんか、陛下。いずれ王女殿下のお耳にも届くことです」
タオベ卿が諦めたようにとりなすが、ニコラウスは顰めた顔を戻さない。彼が衛兵に王女をつまみ出せと言えば彼女は簡単に締め出されてしまう。そうされる前にと、先手を打つしかなかった。
「わたくしがまだ幼いから聞かせるべきでないとおっしゃるのでしたら、見当違いと申し上げますわ。わたくしにも聞かせられないことをこの先、どこまで民に隠し通せるでしょうか? わたくしとてヴァイスハイトの民、そして統べるべき血統の娘ですわ。いかなる覚悟もできております」
父と娘は配下たちの前で睨み合っていたが、王の方が先に折れた。こうしていても時間の無駄と悟ったのだろう。目配せされた衛兵が扉を閉めた。
「いいだろう。情報が錯綜しすぎて整理する時間も必要だからな。お前はどこまで知っているのだ?」
「魔女が目覚め、お兄様を攫ったと」
「その魔女のことだ」
父王が何をしゃべらせたがっているのか分からず、ハイデマリーは一瞬きょとんとしてしまったが請われるままに答える。
「今現在のことは存じません。わたくしが知っている魔女とは、三百年前に封じられた邪悪なる存在。地を荒らし人々を苦しめ恐ろしい魔物を作り出し、彼女が通った後は荒廃してしまうと。常に瘴気を放ち、体の弱い者はそれだけで命を奪われることもあると」
「そうだ。ここにいる者たちも皆、そう教えられてきた。だが下々はそうではない。特に末端の方へ行くほど知識は薄くなり、中には魔女を知らない者もいると言う」
「それがどうかしましたの? こうして魔女が実際に現れているわけですから、問題ないのでは」
「王家がその存在を隠していたという非難が寄せられているのですよ、王女殿下」
禿頭のグリフォーネ将軍が困ったように告げた。ハイデマリーは目を丸くして反論する。
「それこそ見当違いですわ。そのような邪悪なものを隠して何の得がありますの?」
「ええ、その通りです。時がたつにつれ人々は悲劇を忘れ、刻むことをおろそかにした。それだけのことです。しかしいついかなる時も王家を批判したがる輩はおります。今回は、他の案件に便乗しているのでしょうな」
「そしてそれを先導しているのが、あの厄介な連中なのです」
他の案件も気になったが、その前に将軍の言葉を引き継いでカヴァレリスト公爵が鬱々と続けた。そしてそれもまた聞き流せる内容ではなかった。
「厄介?」
「魔女教の者どもです。彼らはおそらく魔女の眷属。人間社会をつつき回し、ひそかに宗教という名の隠れ蓑を立ち上げ、魔女が目覚める時を待っていたのでしょう。多くは人間だが、魔女教徒の連中は皆、眷属たる魔物にしてもらおうと大挙してクーデルベルグへ向かった様子です。中には我がヴァイスハイトの者だけでなく、近隣諸国の民も混ざっているようで……」
ハイデマリーは思わず口を手で覆った。その衝撃を与えたものの正体は、魔女教である。その邪教は間違いなく、兄ユリウスが傾倒していたもので。
「お兄様は……魔女の眷属にされてしまいましたの……?」
「それはまだ分からん。聞くところによると自らの意思ではなく魔女自身によって攫われたというからな」
ニコラウスの考えでは、王家に対する人質という扱いをされているということだったが、この中の何人が同じ意見であるのかは、顔色を見れば一目瞭然だった。特にファルケ卿の絶望が一番にひどく、逆にタオベ卿は心なしうきうきしているようだった。不謹慎なと睨み付けるも、齢十三の小娘のそれなどおそるるに足らずといった風情だった。
「では、取り戻しに行くべきですわ。魔女の居住地は分かっているのでしょう?」
「無論、討伐隊は既に結成し、出発しております。聞けば魔女が目覚めて間もなく、何もない荒野に突如城が現れたとか。魔の力によるものでしょうが、そうして誇示するものを見失うはずもございませんからな」
将軍が自信ありげに答えた。今はその経過報告を待っている最中だと言う。その間にも、あちこちの地方で勃発する魔女の仕業と思しき蹂躙行為と被害状況が寄せられているようだ。すぐさま人を手配するが、時間的にも物量的にも間に合うはずなく、後手後手になっている。
魔女が目覚めたと言う日から、ハイデマリーは青空を見ていない。代わりに空を覆う黒い雲のせいで人心が荒み犯罪も増加しているらしい。ここ数日で瘴気のようなものまでも立ち込め、作物は早くも枯れ始めているようだった。このままでは飢饉となり、少ない食料を巡って人々が争わないとも限らない。そんな状況を、見ているだけで手をこまねいているように思えるのだろう、民の不満が王政へと向かってこようとしているのだ。先刻の「他の案件」とはこのことであった。
「魔女は……封じられたと聞きましたのに、どうして目覚めてしまったんですの?」