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アレクシスには、何が起きたのか分からなかった。ただ、愛しいシャルロッテが刺され、今もう一度刺されようとしていることを、見ていることしかできなかった。その運命に抗おうとレギーナが飛び出していくも、間に合わないことは彼女の横顔を見れば明らかだ。
だが女騎士のように勇敢にもなれない。無駄だからと諦めているわけではない。体が動かなかったのだ。あまりにめまぐるしく動き回る事態に、夢を見ているのではと疑ったくらいだ。
どうしてこんなところにヴィンフリーデがいるのかも分からなかった。どんな権利があって彼女がシャルロッテに刃を向けているのかも、それどころか憎しみばかりを膨らませているのかも。
知らないことばかりだ。
だがシャルロッテは、再び刺されることはなかった。ヴィンフリーデのナイフは振りかぶられたまま、彼女は動きを止めていた。異変に気づいたレギーナも、剣をふるう手を止める。最初にシャルロッテを置いて行けと言った男たちは、アレクシスと同じに固まったまま動けない。
動いているのは、シャルロッテその人のみだ。
「騒がしいことよのう」
それはシャルロッテの喉から発せられたシャルロッテの声に他ならなかったが、そこに彼女の魂は宿っていなかった。たおやかで悲しそうな顔をしていたシャルロッテは、もうそこにはいない。
「ひ……!」
刃を振りかぶって真正面にいたヴィンフリーデの体が、浮き上がる。足は地から離れて、彼女は苦しそうにばたばたと手足を動かした。シャルロッテの細い腕がまっすぐに伸びて、ヴィンフリーデの首を掴んで持ち上げていたのだ。当然ナイフなど持っていられずに、それは乾いた音を立てて地面に落ちた。他愛ない音なのに、そこにいた全員が竦みあがった。
シャルロッテでなくなったその者から発せられているのは、闇よりも深い瘴気だ。それは恐怖であり畏怖であり戦慄だった。そこにいるのは人間ではない。もっと邪悪で醜悪な、決して外に出してはならぬ存在だったのだ。学のないアレクシスにも、はっきりとそれが伝わってくる。
それに直接触れられているヴィンフリーデの戦きやいかばかりか。
にんまりと、唇が三日月の形に釣りあがった。酷薄なその笑みは、絶対にシャルロッテには浮かべられないものだ。脇腹から血を垂れ流しながら、僅かの痛みも感じていないような調子で、そいつは囁いた。傷をつけてくれた相手に。
「おぬしの憎しみ、心地よかったぞ。喜ぶがよい。わらわを解放した礼に、わらわの手でおぬしを眷属にしてやろうぞ」
「嫌、た、助け……っ! ああああああああああ!」
バチッと振れている部分に稲光が走った。それは瞬く間にヴィンフリーデの全身を覆いつくし、やがて黒の稲妻となって彼女の体を食い尽くす。蝕まれ、影のようになった彼女はやがて砂のようにさらさらと、それの手の中で消えて行った。もうどこにも、ヴィンフリーデの姿を見出すことはできなかった。
「き……貴様ぁ……!」
レギーナが、硬直を振り払うように剣の柄を返した。その構えは、シャルロッテだったものを害するためのものしか見えなかった。ずっと守って来たものを、彼女はその手で斬ろうとしている。
だがその目に、迷いはない。恐怖に縛られてはいるけれど。もはや彼女をシャルロッテとして見てはいないのだ。
「死ねえ!」
「うるさいのう」
シャルロッテだったものは、一瞥しただけだった。突進していったレギーナはその細い体を一筋とて傷つけることができずに吹っ飛んだ。木の幹にぶつかる寸前で剣を地面に刺し衝突を免れたが、襲いくる衝撃波にもはや耐えることしかできなかった。
それは、魔法の力だった。はるか昔、魔物がいたとされる時代に消えたと言われる不思議の一つだ。おとぎ話の中でしか、もはや見ることはかなわない。
「ザシャはおるか」
「ここに」
彼女の呼びかけに、いずこからともなく黒衣の男が現れた。その腕には炭化したとしか思えない人間が一人抱えられている。よく見るとそれは、先刻消されたように見えたヴィンフリーデであった。だがその姿は変わりつつあった。今はかろうじて面影が見えるばかりであるが、死体にしては妙に生き生きとしていた。
「わが故郷、クーデルベルグは顕在かのう?」
「は。何もない荒野ですが」
「構わぬ。またわらわ好みの城を建てるだけじゃ」
男とヴィンフリーデは、黒い霧となって消えた。女もそれに続こうとして、ちらりとこちらを振り返った。アレクシスは反射ですくみあがるが、その目は思うほど怖くなかった。そこには未練のようなものがちらついていたからだ。
だがはっきりそれと認識するより先に、彼女は同じ黒い霧となって消えてしまった。後には何も残らない。否、シャルロッテの血痕が残されていた。それだけがもはや、彼女がそこにいた証だった。
誰も、何も言えなかった。動けもしなかった。何が起きたのか分からない。だが途方もない事態になったことだけは、肌で感じていた。その証拠に、さっきまで突き抜けるような晴天だった空が、暗雲に覆われている。荒れそうな兆候はなかったのに。
「アレクシス……」
名を呼ばれて振り向くと、よろけながらレギーナが立ち上がるところだった。彼女は残った片方の目で、彼を鋭く睨んでいた。まるで敵に向けるようなそれに、勝手に足が後ろへ一歩引いた。さっきのシャルロッテだったものには一切できなかった普通の反応だった。
「なんということをしてくれたのだ。お前が、お前がシャルロッテ様に近づきさえしなければ、こんなことにはならなかったものを……!」
怒りをみなぎらせた目で睨まれて、アレクシスは何も言えなかった。どうなるかなんて、運命がどちらへ転ぶかなど誰にも分からない。例えアレクシスが近づかなくても、こうなったかもしれないし、またならなかったかもしれない。もうすべては、起こってしまったのだ。きっと取り返しのつかない何かが。だがそんな当たり前のことすら、彼は口に出せなかった。
レギーナはアレクシスを責めながら、同時に己も責めていたのだ。自分が付いていながらこんな事態に陥ったことを許せない。だが強いその目からは涙は零れなかった。ただ怒りと悲しみと悔しさを滲ませていた。
「なんだ、これは……どうなるんだ?」
最初にシャルロッテを狙ってきた男たちの一人が呟いた。シャルロッテが消えてしまったため、彼は自分がどうなるのかということを気にしていたに違いない。だがそんなことは構わず、レギーナは笑いながら答えた。笑うしかないと言わんばかりに、笑い事のような現実を。
「大変なことになるぞ。お前も私も、そこの貴様らも。それだけではすまん。人類全体の……存亡の危機だ」
アレクシスの心がぞくりと震えた。本能的な恐怖に従って、誰もが空を見た。不気味な稲光が走って、いずこともしれぬ地に落ちた。