6
翌朝になっても体の不調は消えなかった。そのせいか、あんな手紙出さなければよかったと、朝食の席に着きながらシャルロッテは後悔していた。
起きてすぐ、窓の下を見てみた。丸めた紙はなくなっており、けれどそれが確実にアレクシスが読んで持ち去ったのか風で飛ばされたのかも判然としなかったため、ずっともやもやした思いを抱えたままだった。もし他の人の手に渡っていたらどうなるだろう。不安と後悔に苛まれ、体調も手伝って、当然食はいつも以下にとどまる。
「あら、シャルお姉さまもう戻られるの?」
「これ、ローザリンデ。よしなさい」
不満げにまだいてほしがる従妹を叔父が窘めた。席には叔母もついていたが、いつも通り一言も声を発せず空気のごとくふるまっている。おしゃべりなローザリンデがどちらに似たのかは明白だった。もっとも彼女とて聞いてくれるなら相手はシャルロッテでなくてもいいのだ。今日の話題は終始祭りのことだったので、行く気のない彼女はうまく会話を返せないでもいた。
まだ鉄格子をつけられる前の幼い頃、一度だけ行ったことがある。だが人いきれにあてられたのかその後熱を出したことしか覚えておらず、どんな催しものがあるのかも今もって知らないままだ。
手紙を書いた時は確かに、何もかも放って逃げ出したかった。もともと放るだけのものなど持ってもいないけれど、こんなところに縛り付けられるのはもう御免だと思ったのだ。
だがその逃亡に、アレクシスを巻き込もうとしたのは最大の間違いだったのだ。彼には彼の守るべきものがあり、いくら自分ではどうにもならないからといって彼まで巻き添えにするのは、驕りというものだろう。傲慢で強欲な己に嫌気がさした。なかったことにしてしまいたいが、手紙自体がどこかへ消えてしまっていてはもはや彼女にはどうすることもできない。
ふらつくシャルロッテをレギーナが支えようとするのを断る。歩く自由すら奪われるのはいくら体調が万全でなくても御免蒙りたかった。
「シャルロッテ様、大丈夫ですか」
代わりに飛び出してきたのは、メイドのティアナだった。シャルロッテの身の回りのことはほとんどレギーナが請け負っているので、使用人たちも心得て近寄ってこないのに、こんな風に接触するのは珍しいことだった。しかも今は特にふらふらしていたわけでもない。
「大丈夫よ、ありがとう」
「でもご心配ですのでお部屋までお支えしますよ」
「そういったことは私がやる。お前は下がっていなさい」
「いいえ、こう言っちゃなんですがレギーナ様は背がお高いから、こういう役やるなら私みたいなチビの方がいいんですよ」
厳格なレギーナが使用人たちと仲良くやっているとは思えなかった。むしろシャルロッテごと遠巻きにされているのではないかと感じていた。だから果敢にティアナが反論したのを、シャルロッテは意外に思ったのだ。
そんな彼女に、ティアナがそっと囁いてきた。
「シャルロッテ様、今日はお祭りですよ。気分転換に行かれてはどうです?」
「え? でも私は……」
ティアナはさらに声を潜めた。まるでシャルロッテ以外には聞こえてはならないとでもいうように。
「ちなみにこれ、伝言なんです。意味は分かりませんけど。……さあ部屋に着きましたよ。お茶でもお持ちしましょうか?」
「いいえ、大丈夫。ありがとう、ティアナ」
後半だけ聞こえるほどの大きさに声を戻したティアナは、にっこり笑って去って行った。レギーナは怪訝そうに、彼女の後姿が消えるまで睨み付けていた。
「何か言われましたか」
「いいえ、何も」
「しかし、昨日のようなこともありますから」
「そんなにひどい顔してるかしら?」
「……大丈夫のようですね」
昨日とて、レギーナは何かを察したとはいえ突っ込んで聞いてきたりはしなかった。ヴィンフリーデも彼女に制裁を加えられた様子もなく素知らぬ顔で、むしろご機嫌そうに立ち働いていたくらいだ。
今のシャルロッテはもしかしたら、少しだるさから脱したようにも見えたかもしれない。けれどそれは気分的なことにすぎないのだ。体の不調は変わらない。けれど真っ暗闇だった心の中には、一条の光が差し込んでいる。
ティアナの言う伝言が誰からのものか、悩むまでもなかった。屋敷には入れない誰かが彼女に接することのできるメイドを介して伝えようとしているのだ。手紙は間違いなく、アレクシスの手に渡っている。そうでなくてはいったいどこの誰が、彼女を外へ連れ出そうとするだろう。
こうなったらもう後悔も懺悔もしていられない。誰を巻き込もうともやり遂げるしかなかった。
「レギーナ、私、お祭りに行きたいわ」
「しかし、お加減の方があまり」
「無茶はしないわ。ちょっと見るだけ。いいでしょ?」
そんな風にシャルロッテがわがままを通そうとするのも珍しいことだった。きっとレギーナもそう思っただろうが、粘る必要もなく彼女はため息をついて降参した。
「旦那様に聞いてまいります」
「いいお返事を期待しているわ」
結果は、期待通りだった。おそらくテオバルトとて渋い顔をしたのだろうが、今日が誕生日であるせいか二人とも甘くなっているようだ。毎年伏せって行けないことも知っているからというのもあるかもしれないが。
「シャルロッテ様、お体の方は本当に大丈夫なんでしょうね?」
「平気。思ったより体が軽いの」
うきうきとした様子を装っていたシャルロッテだが、実のところ歩くものつらいほどだった。原因も分からないまま、ますますひどくなっている。しかもだるいだけという、理由を探りにくい症状で。何か体力をやたらと削られているようであったが、女性特有の日というわけでもなく、何もしていないのに毎年この日周辺にだけそうなるもの解せない。
それでも久しぶりに外の空気を吸い土を踏みしめたシャルロッテは、それだけで途方もない解放感を感じていた。狭い部屋の中とは違う。どこまで行っても果てがない世界の広さに感動すら覚えた。まだここはズィーケル家の敷地内で祭りが開催中の村の方には全く近づけていないというのに。
「いけませんねえ、お嬢様。それで村まで行かれるんですか? 今日は日差しがきついんですよ。眩しいでしょう」
そんな風に声をかけてきたのは、軽そうな若い男だった。シャルロッテは見覚えがないが、レギーナが顔をしかめたところからすると、ここの使用人の一人のようだ。全身が汚れており、慣れない匂いが漂ってくるが、人懐こそうな顔つきのため怖いとは思わなかった。
「気安く話しかけるな。お前のような男が話をできる方ではないのだ」
「失礼だな~。俺はただお嬢様を心配してるんですよ。さっきから眩しそうに目を細めていらっしゃるから」
確かに慣れない外の空間は、部屋の中から見るより眩しかった。耐えられないほどではないが、それでも男にはひどく眩しがっているように見えたのだろう。
「お祭りに行かれるんでしょう? ここはまだいいですけど、村に下りて行ったらもっと眩しいですよ」
「まあ、それなら日傘か帽子を持ってくるべきだったわね。……あったかしら」
「ございます。すぐ持ってまいりますので。おい貴様。シャルロッテ様に何かあったら承知しないぞ」
自分がいない間見ていろと言い置いて、レギーナは屋敷の方へ走って行った。男はそれを受けて「信用ないな~」などと言いながら、傍の大木の木陰へと導いた。樹齢の長い、背の高い木だ。シャルロッテの姿などすっぽり隠れてしまう。
「ここなら少し眩しさからも免れるでしょう。というかまあ、お嬢様には申し訳ないんですが、日よけは諦めてください」
「え」
どういうことかと問おうとするシャルロッテを制して、彼はしゃがむよう手振りで示した。それからもっと奥へ行くようにとも。大木の傍には小さな茂みがある。さすがにその中へ入るほど、日差しは厳しくないのだが。
と思ったら、にゅっと出てきた手に引っ張られて、強引に引き寄せられた。
「!?」
口元を押さえられるが、咄嗟の悲鳴は出なかった。彼女を抱き寄せているのが誰なのか、すぐに分かったからだった。
「静かに」
耳元で囁かれて、そんな場合ではないのに体中に熱が灯る。窓越しになんて満足できず、その腕に抱かれることをどれほど夢見ただろう。まさかこんな形で抱擁されることになるなんて思いもせず、またその急すぎる展開に痛いほどに心臓が鼓動を奏でていた。このままこうしていたら、耐え切れず爆発してしまいそうだった。
会いたいと、どれだけ思ったことか。愛しいと、どれだけ想ったことか。
強引ではあっても骨ばった優しい手は変わらずに、壊れ物を扱うように彼女を抱きしめている。見上げると、アレクシスの男らしい喉仏が緊張で上下するのが見えた。彼が視線を向ける方へ、シャルロッテも目をやる。
なぜか先ほどの男が、俯せで倒れていた。元気そうで少しも悪い兆候など出ていなかったのに。
不思議には思っても、アレクシスの腕に絡め取られたシャルロッテにはその場を動いて見に行くこともできない。
するとそこへ、帽子を持ったレギーナが戻ってきた。倒れ伏している使用人を見つけ、慌てて走ってくる。
「どうした、何があった!? シャルロッテ様は!?」
「うう……いきなり後ろから殴られて。悪い……。見たことない男に連れて行かれた……」
「なんだと!」
「村の方へ行った……」
「おのれ、卑怯な!」
帽子を振り捨てると、レギーナはそのまま全速力で丘を駆け下りて行った。彼女の姿が見えなくなると、男は何事もなかったようなけろりとした表情で起き上がる。
「後はうまくやれよ」
そんなことを言って、厩舎の方へ歩いて行った。彼が去ると、アレクシスはふっと肩の力を抜いた。そしてシャルロッテを抱きしめたままだったことに気づいて、顔を真っ赤にしながら慌てて離れる。
「ご、ごめん……!」
「い、いえ……あの、これはいったい……?」
抱擁を解かれたことを寂しく思ったとは、仮にも淑女たるシャルロッテは口が裂けても言えないことだ。ただぬくもりが離れ急にひんやりとした体の置き所には困っていた。どんな顔で彼を見ればいいのかも分からず、意味もなくあちこちを見回してみる。どうやら屋敷の方では特に、今のことは騒ぎになっていない様子だった。
そうして落ち着かないシャルロッテの手を、アレクシスが握ってきた。力強いそれに、訳もなく泣きたくなってしまう。こんな弱い自分は嫌いなのにと俯きそうになる彼女を、彼の言葉が救い上げる。
「一緒に逃げよう」
巻き込んでしまうとか、しなければよかったなどという後悔は、この時、一瞬で消えた。シャルロッテはアレクシスの手を握り返した。労働したことのない弱弱しい白い手を、労働に明け暮れるたくましい手がさらに強く握りこんだ。
彼女は彼に引っ張られるままに立ち上がると、走り出した。走るなど、もう何年ぶりだろうか。だが幸い足がもつれることはなく、気遣ってくれる彼の速度に寄り添いながら、二人は屋敷から離れて行きとうとう敷地から飛び出した。
「どこへ行くの?」
「とりあえずは村を出よう。こっちは、人通りが少ないんだ」
彼らが向かったのは祭りを開催している人通りの多い方ではなく、民家すらもほとんどない屋敷の裏側に当たる方面だった。開墾も進んでいなくて、さびれている。特に今日などは、祭りで人が動員されているから、無人も同然だった。やがて二人は切り開かれつつある森へと分け入っていく。
「でも……でも、いいの? あなたには仕事があるのに」
薔薇園を任せてもらうのが夢だと言っていた。それを自分のために捨てさせるのは心苦しいのだと気に掛けるシャルロッテの手を握ったまま、アレクシスが立ち止まった。
「君以上に大事なものなんて、ないよ。シャル」
「アレク……」
微笑むその顔に嘘はなかった。愛しい瞳には密やかな影があり、彼女の心を最も惹きつけたのはその鈍い輝きだった。それは今この時も顕在で、シャルロッテは胸がいっぱいになり、言葉に詰まってしまう。会ったら何を言おう、どんなことを話そうと考えていたのに、何も出てこない。代わりに出そうになる涙は、どうにか堪えた。泣いたって困らせるだけだ。
「あ、ごめん。俺、汚い手で」
アレクシスは今更のように、握っていた手を放してしまった。シャルロッテははしたなさを捨てて、その返礼として自ら彼に抱き着いた。
「汚くなんかないよ。……ありがとう、私のために」
「シャル……」
アレクシスの手が強く彼女を抱きしめ返してきた。今彼らの間に、阻む無粋な鉄格子はない。互いが互いをどこまでだって堪能できるのだ。これまでできなかった分を取り返すように、二人はしばし抱き合ったまま動けなかった。
「私、あなたをローザリンデに盗られちゃうんじゃないかって、不安だった」
「俺が? シャルしか見えてないのに……どうした?」
急に腕の中でぐったりと力を抜いたシャルロッテを、アレクシスが不安そうに見つめた。今まで忘れていられたのがおかしいくらいに、彼女の体は急速にして莫大な疲労感で支配されていた。支えていてもらわなくては立ってもいられないくらいだった。
「大丈夫、急に走ったから」
「だからって……熱はないみたいだけど」
アレクシスを抱きしめたいのに、指先がもう僅かすらも動かなかった。額に手を触れても何もないし、呼吸だって正常だ。ただ彼女の内側ですさまじいまでの何かが膨れ上がり、彼女の生命力に似たものを奪い取っているように思えた。
このだるさが病気でないことは、何年か前に医者を呼ばれたその時から分かっている。自分でも違うと知っている。では何なのかと問うても彼女の中に答えはない。もしかしたら叔父は知っているかもしれないが。
今日の夜、話してくれると言っていた。それを聞けないのは残念だが、ここまで来て戻るわけにもいかない。
「行きましょう」
「うん……」
心配そうなアレクシスに支えられながら、ゆっくりと進む。祭りの喧騒はここまで来ると全く聞こえない。人通りもなく、二人の頼りなくも引きずるような足音だけが聞こえる。住処を破壊されたせいか、まばらに生える木々には鳥たちも棲んでいないようだ。そんな陰気な場所をこんな速度で歩いていると、どこへも行けないような気がした。ここは果てのない外の世界のはずなのに。
「シャル……、ん?」
不安がって顔を覗き込もうとしたアレクシスがその時、何かに気づいて顔を上げた。足を止めるより少しでも早く先に進むべきだと判断したのは正しかったが、いかんせんほとんど動けないシャルロッテを抱えていてはそれも難しいと言わざるを得ない。瞬く間に二人は、道を塞がれた。
「誰だ」
フードに顔を隠した、男と思しき者たちがそこにいた。山賊かと思ったが、身なりは悪くなく、揃いの十字の飾りを腰に下げていた。むしろ掲げた剣はいかにも高価そうで、まるで普段飾ってるものをこれしかないからと持ってきたかのような、実用性から程遠い凶器をこちらへと向けていた。
「なんだ、お前ら……」
アレクシスの問いに、誰も答えない。ただじりじりと距離を詰めてくるばかりだ。逆側へ逃げようとしたが、そちらにも同じ格好の者たちが二人、既にいて、退路を塞いでいた。
「金なんか持ってないぞ。どっか行けよ」
「女を置いて去れ」
「はあ? ふざけんなよ」
女と言われて、アレクシスが咄嗟にシャルロッテを胸に抱きしめた。こんな時だと言うのに彼女は、その温かさの中にずっといられたらなどとずれたことを考えていた。どうやらこのだるさは思考力まで奪うらしい。少し前まではこんなことはなかったのに。
「くそっ、どうしたら……」
道から逸れて横の木々の間へ逃げようにもぐったりしているシャルロッテを抱えてでは逃げ切ることはできないだろう。察して彼女は、アレクシスの胸を押して離れようとした。
「あなただけでも、逃げて……」
「馬鹿、できるわけないだろ、そんなこと!」
泣きそうな顔で、アレクシスの腕の中に戻されるシャルロッテ。もとより彼女の力で彼ひとりを逃がすことなどできるはずもないが、そうして引き止められることでさらに彼への想いが高まってしまい、もう何をされても離れて生きるなど無理だという段階にまで達した。
「お前等なんかに渡すものか。シャルは、俺のだ!」
「泣きながら言う言葉ではないな」
唐突に聞こえてきたそれは、顔を隠した連中が放ったものではなかった。退路側にいた二人を横凪一線で倒したレギーナが、疾風のごとき勢いで今度は進路側へいる物たちへとその切っ先を向けたのだった。
「レ、レギーナ、なんで」
「私を舐めるな。小芝居なんぞ打ちおって」
ひどく渋い顔をしている女騎士はぐったりしているシャルロッテに目を向けたものの、逃亡については咎めなかった。それより目の前にいる敵を何とかするほうが先だった。
「お、お前は、王宮騎士のレギーナ・パトリオートか!」
「元、だ。それを知っていると言うことは、宮廷の者か」
思わず声を発した男が、しまったというように動揺をあらわにした。語るに落ちるとはこのことだ。レギーナの名を聞いた残りの二人は、完全に竦んでしまっている。反対側にいる二人も、致命傷ではないのか立ち上がって反撃しようとしていたようだが、固まってしまって動けない。
「宮廷? なんでそんな奴らが、シャルを」
「小僧。お前は背後を守れ。まだ完全に無力化できたわけではない」
アレクシスが疑わしそうに「そうかなあ」と言いながらそちらに向いた。そのせいでシャルロッテは一人で立たねばならなかったが、前方をレギーナ、後方をアレクシスに守られているため、もはや何に恐怖する必要もなくなっていた。
その油断が命とりだったとも知らずに。
「いったい誰の差し金だ。彼女は宮廷とは何の関係も―――」
レギーナが喋っている間のことだった。謎の男たちは手が出せない状況だったにも関わらず、二人の間に守られていたはずのシャルロッテが横ざまに吹き飛んだ。そしてそこに生えていた木に、縫いとめられる。
「……あ?」
シャルロッテ自身にも訳が分からないことだった。ただ、腹部の辺りがひどく熱いと思っていたぐらいだ。それから彼女を押した人物に、そこからどいてほしいとも。
「……ヴィン?」
アレクシスからは、見知ったメイドがシャルロッテに抱き着いているようにしか見えなかった。どうして彼女がここに現れたのかも、抱き着いた先で何をしているかも分からない。
レギーナは、凍り付いていた。それは狙っていた男たちにしても同様で、突然の横やりにどうしていいのか分からない様子だ。
「あんたが悪いのよ……あたしからアレクシスを奪ったんだもの……!」
シャルロッテは、薄れていく視界の中で憎々しげに顔をゆがませたヴィンフリーデの姿を見た。ゆっくりと離れていく彼女の手の中には、真っ赤に染まったナイフが握られていた。
刺されたのだ。怪我さえしないようにと厳重に守られてきた甲斐もなく、こんな形で。
そして血を流しながら、自分の中で蝕んでいたものの正体に気づいた。これを封じるためにレギーナは彼女を守ってきたのだと。そのための器が、自分だったのだと。
だがもう、遅かった。そいつは封印を破られ、外へ出て行く。狭い部屋からの解放を望んだシャルロッテのように、果てのない世界へと。彼女にはそれを、止める術はない。
「死んじゃえ! 死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえッ!」
「やめろおおおおおおおおお!」
ヴィンフリーデが今一度ナイフを振り上げた。めった刺しにするつもりなのだろうが、その前にレギーナの呪縛が解ける。彼女は喉も裂けよとばかりに叫びながら、ヴィンフリーデを斬ろうとしていた。アレクシスは一歩も動けず目を見張ったままだ。
彼の傍へ行きたいのに、体はもう僅かも彼女の自由にはならなかった。
なぜならそれはもう、彼女のものではないのだから。
最後の最期まで所有権を失わなかった涙だけが一滴、零れ落ちた。それがシャルロッテが自由を示した唯一の手段だった。