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ヴィンフリーデは苛ついていた。アレクシスの目がシャルロッテに注がれる意味が、彼女にははっきりと分かったからだ。それにシャルロッテもまんざらでもないことも、癪に障った。
(どうしてあんな女がいいの。……あたしだって好きなのに)
「ヴィン、何やってるの、急いで頂戴。旦那様がお帰りになるわ」
「……はい」
そんな風に家政婦長に怒られることも珍しくないが、それは別に彼女がとろいからではなくて、屋敷の広さの割に雇用されている使用人が少ないからだった。メイドはヴィンフリーデを入れて三人しかいないから、食事の前は特にてんてこ舞いだ。侍女も従僕も下働きの仕事は卑しいと思っているのか上司の執事が言うまで手伝ってくれないし、あの女騎士なんてそれ以前だ。こちらが多忙を極めていても手も貸さずに涼しい顔をしているから腹が立つ。
辞めてやろうかと思ったことだって何度もある。だがそのたび、辞めてどうなるのだと考えてしまうのだ。
このドルフ村で生まれ育ち母に言われるままにお屋敷に入ったヴィンフリーデは、外の世界を知らない。都会なんて怖くて行けない。そちらから来た物好きがいるけれど、話を聞く分には楽しいがとてもそこで自分が生きていけるとは思えなかった。
見た目だって典型的な田舎娘で、他に取り柄もない。お仕着せのメイド服じゃなく、都会風のソフィスティケイトされた衣服をまとってみたいと憧れることもあるけれど、どうせ余計に野暮ったさが増すだけだということは分かっていた。彼女は、身の程を知っているのだ。
それなのに、あの女は。
忙しさに追われながらも、ヴィンフリーデは日々シャルロッテに憎々しさを募らせていた。自分は使用人であちらは雇用する側、明確な線は引かれていたけれどそれでもなお、憎く思う気持ちを止められない。彼女が雇用された時には既に養女として迎えられ定着しており、この家の一員として仕えるべき相手であると知っていても、それを何度も自分に言い聞かせても、駄目だった。
最初から、嫌いだった。
まず、いつでも暗い顔をしているのが許せない。それに、使って当たり前の使用人にすまなそうにしているのが気に喰わない。養女のくせにローザリンデよりやたら大事にされているのが意味不明。そんな価値はなさそうな、ただの気弱な女なのに。そのくせ地味な服ばかり選んで着ているのは、あてつけかと思ってしまう。
(『地味な格好してもかわいいアタシ』を演じてるの? ばっかみたい)
何よりそんな彼女に、アレクシスが心奪われているのが業腹なのだ。お屋敷に雇われてすぐのこと、失敗して泣いていた彼女を慰めてくれた彼に、ヴィンフリーデは一目ぼれした。顔ではなく優しさに惚れたのだが、愁いを含んだ空色の目に特に惹かれたのだ。誰もが無視するのにただ一人気遣ってくれた、一つ下のアレクシス。
「失敗は誰にでもあるよ」
そんなありふれた言葉で、彼自身もまだ見習いだったけれど、そんなことは関係なかった。ヴィンフリーデの心はもはや彼の虜だった。彼だけが声をかけてくれたのだからきっと彼だって憎からず思っているはずだと、以来、何かと理由をつけて彼に話しかけたり差し入れをしたりして気を引こうと躍起になっていたのに、そんな行為は全部、道化以下だったのだ。
アレクシスの心に棲んでいたのはずっと、あの女しかいなかったのだから。
ヴィンフリーデは、憎しみが募りすぎるあまりわが身が焼けそうになるほどの怒りに駆られる度、そっとスカートの下に隠した物に上から手を触れた。すると不思議と、鎮まるのだ。
そうしたいなら、いつだってできる。今じゃなくても願いはかなうのだと。
彼女にこれをくれた人が、そう言ったのだ。ただ、タイミングを見誤らないように、とも。
(大丈夫。あたしはやり遂げて見せます)
アレクシスへの想いはまだ、残っている。もはや彼女がどれほど思ったところで、また彼に直接告げたところで状況が変わるとも思えないし、逆に傷つくだけに決まっているのだが、それでも諦めきれないでいた。
その隙間に今、あの男が入り込もうとしている。アレクシスとは全くタイプの違う彼が。彼女を必要としてくれる彼のことが、忘れられずにいた。彼女の手に触れた時のぬくもりと、美しいまなざし、そして熱っぽい囁きを思い出すだけで、たまらない気持になる。まるで自分が愛されているかのような心地よさ。それはアレクシスへの苦しいばかりの恋心を、いともたやすく凌駕した。
否、自分は彼に愛されているのだ。でなければこんな大事な役目をどうして託せようか。
「ヴィン、悪いんだけど、シャルロッテお嬢様のお部屋にお茶をお持ちして」
「ええ? なんであたしが」
「こっちもローザリンデお嬢様に呼ばれてて、手が放せないのよ。お願いね」
同僚のティアナはそれだけ言うと、慌ただしく給仕室を出て行った。他に手の空いている者はいないようだ。ヴィンフリーデだって暇を持て余してここへ戻ってきたわけではないのに。しかもよりによってあの女のところへ行かなくてはならないとは。
「あの護衛は何してるのよ。いつもむっつりした顔で命令しに来るくせに」
ぶつくさ言いながら支度を整えて、部屋に向かう。ノックするとその護衛が無表情で迎え入れてくれた。だが彼女は扉を開けただけで、すぐ中へ引っ込んでしまった。その理由は、どうやら部屋の主の具合があまり良くないせいらしい。
「やはり、旦那様にお知らせしなければ」
「大丈夫よ。ちょっとだるいだけだから」
「ですが」
「やめて。大ごとにしないで」
ぐったりとして椅子に腰かけているシャルロッテは、そんな我儘を言って護衛を困らせていた。だるいならさっさとベッドにでも横になればいいのに、彼女はかたくなに椅子から動こうとはしなかった。
「お茶は、どうしましょう」
「ああ、そこへ置いておいてくれ。それから悪いが、そこのドレスも片づけてくれないか」
護衛が指さす方を見ると、きっちりと整えられたベッドの上に白いドレスがかけられていた。レースの細やかな刺繍の上に繊細なシフォンが丁寧に重ねられた、高価そうなものだった。キラキラして見えるのは宝石のようなものがあちこちに縫い付けられているためらしい。今日の昼にローザリンデが着ていたものに似ているが、それよりよほど上等そうだ。彼女はそれを汚してしまったので、今は別の服を着ているだろうが。
「どちらに片づければよろしいので?」
「そうだな、旦那さまからの贈り物だから、旦那様のところへ返しておいてくれ」
ヴィンフリーデは唇をかみしめた。そうしないと罵詈雑言が飛び出してしまいそうだったのだ。
この服は、旦那様からのプレゼントだと言う。悔しいがシャルロッテにはきっと似合うだろう。何よりその色合いが、ぴったりなのだ。それなのに、要らないと言う。その上自分はくすんだ色の装飾のない服ばかりを選んでいる。それも自分から直接言うのではなく護衛を介して言わせようとしている。なんと卑怯で卑屈な女だろう。
ヴィンフリーデは望んだってこんな服、一生着られないだろうに。少なくともこんな小さな村の一番のお屋敷のメイドを勤めているうちは、いくら貯蓄したって無理だ。生活に困らないだけ給金をもらっているとはいっても、それはあくまでこの村限定で暮らしているからにすぎない。
それなのに、何が不満なのか。柔らかなベッド、温かい部屋、十分な食事、免除されている労働、きれいな服。それだけ持っているのに、いつだって泣き出しそうな暗い顔をしているのが許せない。どうせなら泣いてしまえばいいのだ。
「役立たずの穀潰し」
「ん? 今何か言ったか」
ドレスを抱えたヴィンフリーデは、シャルロッテの傍を通りざまにわざとそう囁きかけた。護衛は聞こえなかったようで、怪訝な顔をしているが無視する。シャルロッテには聞こえたようだ。ぐったりと俯けていた顔を上げて、ヴィンフリーデの方を見ている。
(何、傷ついたみたいな顔してんの? 初めて言われたみたいな、心外みたいな顔しちゃってさ)
腹が立ち、一言だけでは収まらなかった。もっともどんな表情をしたにしろ、一度火が付いた感情は収まるとは思えなかったが。
「お屋敷でも村でもみんな、言ってますよ」
それだけ告げて、ヴィンフリーデは部屋を出た。それは嘘でも誇張でもない。実際に彼女は耳にしているのだ。もちろん内緒話としてだが、ヴィンフリーデが同じ話題を出そうとすると皆、それを言うのはやめた方がいいなんて途端にいい子ちゃんぶるのだ。ティアナに言わせると彼女の声が大きいせいだと言うのだが、そんなのは言い訳に過ぎない。どう言い繕おうと、また言葉を変えようとも、仕えるべき一人を「役立たずの穀潰し」だと思っていることは確実なのだ。
きっと今頃言葉の意味を理解して、泣いているに違いない。それとも護衛の女に言いつけるだろうか。言いたければ言えばいい。こっちにだって、返す刃はある。
ヴィンフリーデはその足でテオバルトのもとへと向かった。抱えたドレスと共にぜひとも伝えたいことがあるのだ。
「時は来たれり」
黒髪黒衣の女が、厳かに告げた。彼女の前には従順な信者たちが、皆頭巾をかぶってこうべを垂れて言葉の続きを待っている。万感の期待を込めて、敬虔なる祈りをささげて。
ろうそく一つだけが弱弱しく照らす薄暗いその部屋には、老いも若きも、男も女も入り混じって、一様にじっとりと熱を含んだ瞳をそれぞれが頭巾の下で輝かせていた。それは日の下では決してみることのない、怖気が振るうほどの深い信念が刻まれたまなざしだった。
「恐怖し続けることなどできぬ愚者は風化を喜び、忘却することで自己を保つ。愚かだが、いとおしい。おかげで我らはこれほどまでに力を蓄えることができた」
女は満足そうに、信者たちを見下ろした。ここに集った彼らだけが、数のすべてではない。彼らが発端となり、各地で既に展開されているのだ。ここにいる者たち全員の本願成就へ向けた信仰の布陣が。僅かも関心を示さぬ者らへは秘されて、ひっそりと。
「皆、良い目だ。あの方もさぞお喜びになられることだろう」
「して、アインス様。あの方はいつ我らの前に? あの村におられるという噂は本当なのか?」
女のすぐ横にいた頭巾の男が食い気味に尋ねた。彼女の顔に一瞬不機嫌な影がちらつくが、気持ちは分からないでもないので、すぐにほほえみを浮かべて見せた。この部屋で顔を晒しているのは彼女だけだ。暗闇に、白く美しい顔が浮かび上がる。
「ツヴァイよ、そう急くでない。他の者も、気を急いて村へ向かうのはやめておくことだ。近づかずとも、既に手の者も送り込んである。我らが向かうはただ一つ、聖地なり。もう間もなく……祭りが始まろうぞ」
おお、と歓喜のどよめきが起こった。それぞれが抱えるどす黒い闇が部屋中に渦巻いているようで、その心地よさに女はうっとりと恍惚に身をゆだねた。