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アレクシスが手を振っていたのは間違いなくシャルロッテだ。それなのに彼女はさっと奥に引っ込んでしまった。きっと間にローザリンデが入ってきたから、そっちに振ったのかと勘違いしたのだろうが、誓ってシャルロッテ以外に目を奪われてなどいないのだ。
彼女の姿が見えなくなるなり、アレクシスの心はひび割れるように痛んだ。できるなら今すぐ飛んで行って、その姿を見たい。声を聞きたい。手に触れたい。でも、できない。彼は庭師で、彼女は鉄格子の向こうに囚われた令嬢なのだから。
それに何より、目の前のローザリンデを無視するわけにいかなかった。芝の上とはいえ、何せ思いっきり転んでいたのだ。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「平気ですわ。それよりアレクシス、今日は薔薇園の方には行きませんの?」
「そちらは父が管理しておりますので。若輩者なので俺はまだ任せてもらえないんですよ」
「まあ、アレクシスに薔薇を選んでもらおうと思ってましたのに」
「ローザリンデ様ああああ、屋敷にお戻りくださいいいい、私が叱られますううう」
マクダが泣きながら汚れてしまったローザリンデに縋りついてきた。地味な容姿の彼女が近くにいると、ローザリンデの華やかな容貌が際立つ。金茶色の髪と栗色の瞳、薄紅色に染まった頬と元気いっぱいの唇の形はシャルロッテにもよく似ていた。もっとも彼女は黒髪だが、ローザリンデのように白いふわふわしたドレスを着ていたらきっといっそう彼女の美しさを引き立てるだろうに、シャルロッテはいつも遠慮して地味な色合いの、まるで村娘のような飾り気のない服を着ているのだ。領主テオバルトの意地悪な手配と思いきや、彼女自身の意思だというからもったいない。とはいえどんな格好をしていようとも、彼の中の彼女の価値は落ちぶれないのだけど。
マクダに促されて、未練がましくこちらを振り返りながらもローザリンデは屋敷へと戻っていく。どうやら修行の途中らしい。アレクシスが年の近い十七ということもあってか、たびたび脱走のあてにされているようだった。その都度後で叱られるのはアレクシスなのだが、彼女の様子からするとそんなことは知らないようだ。
「お嬢様も熱心だよなあ」
呆れた声に振り向くと、馬番のバルドゥルが何かを放ってきた。反射的に受け止めると、やや小ぶりのリンゴだった。彼の方は早くもそれにかぶりついている。
「お前、またくすねたのか」
「違うって。くれたんだよ。料理長のヘレナが」
「……年増に色目使うなよ」
最近雇われたばかりの男だが年が近いこともあって、二人はすぐに仲良くなった。だが真面目でどこか少女じみた雰囲気すらある素朴なアレクシスに対して、都会風の軽佻浮薄なバルドゥルはあまり合わないのではと、他の使用人たちは一緒にいるのをよく思わないようだ。とはいっても人好きのする彼のことを嫌っているということではないらしい。
「そういうお前こそ、お嬢様があんなに一生懸命色目使ってんのに、薄情だよなあ」
「何言ってんだよ。俺がローザリンデお嬢様とどうにかなるわけないだろ」
「でもシャルロッテお嬢様とは、そうでもないんだろ?」
かっと体中が熱くなったのは、間違いなくリンゴのせいではない。ヘラヘラしているバルドゥルは、アレクシスが睨んだところでどこ吹く風だった。
「見てりゃ分かるって。それに俺、別に止めてねえよ? むしろ応援するぜ。で、どこまで行ってんだよ」
「どこって」
バルドゥルが促すので、二人して木陰に座りこんだ。ズィーケル家が地位を得た当初から根ざしていると言われる樹齢も背も高い大木で、枝葉は相当上の方にしかついていないのに、しゃがめば容易に彼らの姿などずっぽり隠してしまう。周りに誰もいないことを確認して声を潜める。とぼけたが、彼の言いたいことは分かっていた。
「行けると思うか? あんなところに閉じ込められてるのに。やっと想いを伝えて、なんとか手に触れたところだぞ」
「お、やるじゃん。俺はてっきりお前の片思いかと思ったぜ」
そこまで奥手ではないと言いたいところだったが、それに近い状態だったことは否めない。何せ、ずっと一人で彼女を思い続けてきたのだ。
いつも窓辺に座って思いつめた表情をしているのが気になるところから始まって、花を差し入れたり話しかけたりするたびにほんの少しだけ笑顔を見せてくれるのが嬉しくなって、もっと笑顔が見たくて通い詰めているうちにいつの間にか好きになっていた。思いを伝えた時だって、まさかそれでどうにかなるなんて思ってもいなくて、ただ伝えたくてそれ以上黙っていられなくて言ってしまったのが正しい。案の定彼女は驚いていて、すぐさま受け入れてなんてくれなかった。
けれど切り捨ても逃げもせず、あなたに応えたいと彼女は言ってくれたのだ。今だって彼の方が気持ちが強すぎて引かせてしまったらどうしようと気が気でない。だがシャルロッテは少しずつ、彼に心を開いてくれている気がしていた。彼女は決して弱い人間ではない。流されて彼の方を向いてくれただけではない、と思いたいのだ。
「だったらさあ、思いっきり抱きしめたいとか、思わねえの?」
「思うよ」
本当は、彼女のほほえみを他の誰にも見せたくない。彼女自身が望もうと構わず、閉じ込めて独占したい。できるならこの手で、その清らかな笑みを穢したいほどだ。
その「穢れ」の中には、シャルロッテが純潔を失う以外の意味も込められている。それほどまでに、彼は彼女を欲していた。
だが純朴な仮面をかぶった彼は、それを誰かに悟らせたことはない。汚い独占欲だと、自分でも気づいている。だがその欲望は、確実に彼の中にあった。
純粋に、彼女を思う心もある。けれど、そればかりでない気持ちが芽生えたのはいつからか。咲いたばかりの薔薇を手折り、手の中でくしゃくしゃに丸めてしまうかのようなよこしまな感情。これがあるから父親は、彼に薔薇園を任せないのだろうとすら思っている。
そんなことを考えて黙り込んだアレクシスを、バルドゥルがじっと見ていた。まるで彼の心を見透かすような目に内心を暴かれそうで、慌てて言い訳のように続きを口にする。
「でも俺は屋敷には入れない。それにシャル……シャルロッテお嬢様は外にも、めったに出られない。出てきても、怖い護衛がついてるから」
「ああ、あのおっかない女騎士か。なんか大仰だよなあ。ローザリンデお嬢様はあんな弱そうな侍女一人なのに」
何か理由があるのだろう。もしかしたらほとんど軟禁状態なのも、そのせいかもしれない。どんな理由でそこまで大事にされているかは、杳として知れないが。病気などではなさそうだったが、陽をほとんど浴びないシャルロッテは、屋内で修業に明け暮れるローザリンデなどよりよほど色が白くて不健康そうで、不安になる。
「じゃあさ、もうこの際忍び込んでやっちゃえよ」
「……何を?」
「馬鹿、分かるだろ? お前好きな女と二人きりだったら、どうしたいよ?」
もちろんアレクシスとて、手に僅か触れるだけの接触で物足りるわけがない。だがここには明確な線引きがある。その一つは彼らが関係を大っぴらにして堂々と会うことなど、到底許されるはずもないということだ。
「俺が手引きしてやるよ。このままじゃお嬢様だって可哀そうだ。お前は考えたくないだろうけど、きっとこの先、どこか知らない男のところへ有無を言わさず嫁がされるんだぜ。そうなる前にお前と結ばれたいだろうさ、お嬢様だって」
それは考えたくないことだった。シャルロッテが他の誰かのものになるなど、想像だけではらわたが煮えくり返る。そうなる前にとバルドゥルは言うが、アレクシスとしては彼女の意思を無視してでもそれを敢行しようと言う気はない。だがもし彼女自身がそれを望んだら……拒否などできようものか。
「協力してくれんの?」
「当たり前だろ。だってどうせ……このクソ忌々しい身分制度がなくならない限り、お前とお嬢様が結婚するなんていうハッピーエンドはないんだし」
彼の言うとおりだった。今は窓越しに会う以上のことはできない恋だけれど、それが成就する未来は来ないのだ。どんなに彼女のことを思おうとも、永遠に。
「こら、お前ら何をサボってる!」
「やっべ」
胸が苦しすぎてどうにかなってしまいそうだったアレクシスをその時救ったのは、父親の怒鳴り声だった。それに乗じて仕事に取り掛かることで、どうにか彼は沈み込んだまま浮上できずに終わることを避けられた。バルドゥルは飛ぶように逃げて行った。
「まったく、サボることだけは一人前だな。筋は悪くないのに、それじゃあいつまでたっても薔薇園は任せられんぞ」
「ごめんなさい、父さん」
「日が暮れたら祭りの準備だからな。忘れるなよ。あの軽い馬番にも伝えておけ」
「はい」
父親がいなくなって一人に戻ったアレクシスは、ちらりといつもの窓の方を伺った。窓辺には誰もおらず、幽閉の象徴のような冷たい鉄格子が見えるばかりだった。