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「あちらの指揮系統は、かなり乱れているようだ」

 茨の森を抜け出た先の、馬を繋ぎ野営地として決めた場所まで戻って来てから、レギーナが呟いた。馬は二頭、王女と騎士隊長が乗ってきた白馬と栗毛が、僅かに自生する下生えを食んでいた。

 遊びの延長とはいえアレクシスにも乗馬経験はあったが、新たに馬を調達している暇もなければ人目に極力付きたくなかったため、二人乗りでここまでやってきていた。重量に慣れない馬たちは相当疲れているはずだが、瘴気漂う荒れ地が近くとも平然としているように見える。

 茨の森へ入った時はそこは確かに外だったはずだが、帰ってきた今、成長したそれがさらに先へ進み、前後左右どこを見渡しても同じような景色に見えるのが難点だった。馬がいなければ拠点が分からなくなってしまいそうだ。

「曲がりなりにも魔女を頂点に据えていた頃とは違う気がします、姫様」

「ではやはり魔女は、眠っているのですね?」

「力が及ばず、野放図に暴れ回るだけなので、さほど脅威とは言えませんが……アレクシス、どうだ、様子は」

 レギーナとハイデマリーが振り向く先には、レオンハルトを背負ってここまで歩いてきたアレクシスがいた。騎士は完全に脱力しており鎧の加重もあって、運ぶのにかなりの力を要したが、この役を唯一武器を扱えるレギーナにやらせるわけにはいかなかった。

「まだ気絶してる」

「では今のうちに手当てをしてしまおう。鎧を脱がすのを手伝え」

 そうしてやっと重さから解放されたアレクシスだったが、レギーナは鎧どころか服まで剥いてしまったので半裸の男に慣れていない王女は恥ずかしがって馬の方へ逃げてしまった。おかげで手当てにも駆り出される始末だ。とはいえ、役に立てることがこれくらいしかないのだから、甘んじて受け入れるつもりではあったが。

「さすが王子殿下。左の鎖骨が完全に折れているようだ。これは痛いぞ……だが他に傷はない。もしかしたら罅くらい入っているかもしれないが。頭の方は瘤一つか。丈夫だな」

「それって馬に乗れないんじゃ」

「左だけマシだがかなり響くから、剣は持てても振れないかもしれんな。よし小僧、近くの村まで言って荷車を借りてこい」

「近くって……」

 荷車を借りる以上馬で行くわけにはいかない。だが近くとも集落までは徒歩で半日以上かかる距離だ。嫌だと言える立場ではないがしかし、どうやらこんな状況でレギーナは面白がっているようだ。

「あのさ、遊んでる?」

「何を言うか。誰もお前を、足手まといのお荷物で使い走りくらいしか役に立たんなどとは言ってないだろう」

「あのねえ……今って結構、深刻だと思うんだけど」

 いかにレギーナが襲いくる魔物を撃退しているとはいえ、これでも命からがら逃げてきたのだ。しかもこの場所すら、宝珠を持っていたとしても安全だとは言い難い。いつどこから襲い掛かられるか分かったものではないのだ。しかし隻眼の女騎士はにやにや笑ってアレクシスを馬鹿にすることを楽しんでいる。そもそも最初に彼女の目を盗んでシャルロッテを連れ出したのは彼だ。レギーナなりの復讐なのかもしれないが。

 そのとき不意に、アレクシスの腕が掴まれた。気絶していたレオンハルトの意識が戻ったようだ。

 しかし彼は掴んだアレクシスではなくレギーナに告げた。

「すみません、レギーナ。彼と二人きりに」

「そうか、分かった」

 レギーナはあっさりと退いた。応急手当は施されてあるが、手持ちの薬に大したものはなく、レオンハルトは辛そうだった。

「悪いが、服を着せてくれるか。鎧も」

「起き上がるつもりか?」

「寝ていられるわけがないだろう」

 アレクシスにはそれに異議を唱えるだけの実力がない。言われるがままに、自分とは異なる引き締まったたくましい体に服を着せ、鎧をつける。それにその怪我は、アレクシスを庇ってのことだ。彼のせいで大事な戦力が奪われてしまった。今更ながら申し訳なさでいっぱいになる。

「ごめん、俺が余計なことをしなければ」

「過ぎたことはいい。それより、君」

 レギーナを下がらせたことで何か魔女に関する秘密の話でも聞かせてくれるのかとひそかに期待していたアレクシスだったが、真面目な顔をしたレオンハルトの口から語られたのは別のことだった。

「レギーナと距離が近すぎないか。君の恋人はシャルロッテなる女性で、レギーナではないのだろう。よもや心変わりをしてはいないだろうな」

「……えっと……」

 構えていただけ拍子抜けだった。だがレオンハルトはどこまでも真剣だ。馬鹿馬鹿しい誤解だったが、少なくとも彼の目にはそう見えるのだろう。

「想像してるようなことはないから」

「わ、私は何も想像などしておらん! ただ距離が近すぎると……馬鹿が、状況を考えろ」

「そっちがね」

「アレクシス、ちょっと来ていただいてもよろしいかしら?」

 呆れていると、ハイデマリーが後ろから呼び止めてきた。請われるままについていくと途中でレギーナをレオンハルトのもとへとやらせておいて、騎士二人の目の届かぬ茨の影までぐいぐいと引っ張られていく。

「どうかしましたか?」

「まあ、分かりませんの? あなたを助けて差し上げましたのに」

「え」

「というか、レオンハルトを、ですわね。あんな大怪我をした状態で怒っていては体によくありませんわ」

「怒って……たのかなあ」

 アレクシスはそっと茨の隙間から騎士の様子を伺うが、二人で何を話しているのかまでは聞こえなかった。でばがめのような真似をする彼を、王女がはしたないと引き戻す。

「レオンハルトは、少年騎士の頃からレギーナに憧れていたそうなのですわ。もちろん上官の復讐にも燃えていましたけれど、わたくしがレギーナのもとへ行くと知ったからついてきたようなものですの」

「そうなんだ。すごいんだな、レギーナって」

「すごいなんてものじゃありませんわ」

 なぜか王女が胸を張った。もちろんそれは、目の前で颯爽と敵を屠る彼女の姿を見ている彼にも分かる。だがきっとレオンハルトにはそんなものではないのだろう。お門違いの嫉妬からするに、ただの憧憬では済まなそうだが。

「君はそれで平気なの?」

「え?」

 大人同士の色恋にうっとりと目を潤ませていた王女は、敬語を忘れたアレクシスの問いに、きょとんと首をかしげた。

「いや、なんか、レオンハルトってかっこいいから、てっきり」

「な、何を言いだすんですの!? ありえませんわ、ありえませんわ! 確かにわたくしの周囲にいる男性の中では抜きん出てかっこいいですけれど、でもお兄様とは比べられませんわ!」

「なんで兄貴と比べるんだよ……」

 アレクシスは再び呆れたが、聞こえていないのかハイデマリーは真っ赤になって、彼をしこたまかわいい拳で襲った。

「違いますわ! 絶対に違いますわよ! そのような誤解はひどいですわ!」

「分かった、分かったから。ほらあんまり騒ぐと魔物が寄ってくるって。どうどう、落ち着いて」

 馬を宥めるような失礼極まる言い方で王女を鎮めようとしていたアレクシスはその時、何かが土を踏みしめる音を聞いてはっと身をこわばらせた。その緊張はすぐさまハイデマリーにも伝わって、彼女は口を閉じた。

「ま、魔物ですの? 眷属ですの?」

「分からないけど、レギーナたちのところへ行こう。気づかれないように」

 近づきつつあるものを刺激しないようにゆっくりとすり足で後退する二人だったが、彼らが動き出すよりも先に、それは茨の森より現れた。

 白い髪に、赤い瞳に、奇抜なドレス。その姿を見るのは初めてだったが、アレクシスには一目で分かった。忘れるはずもないその顔は。

「魔女……!」

「え?」

 アレクシスは即座に戦闘態勢を取るものの、その武器は馬の傍に置いてあるため、どんな攻撃をも取れなかった。ハイデマリーは驚いて硬直してしまっている。彼女は少しは扱えるということだが、その武器も同じく馬の傍だ。まさか魔女が直接出向いて来るなど想定しておらず、のんきに休憩時間を貪っていた自分がアレクシスは許せなかった。すぐにレギーナを呼ぶべきだと思っているのに、突然のことで声すら出ない。

「待って」

 だが魔女は、静かに言葉を発した。魔の気配を少しも感じさせることなく、アレクシスのよく知った物静かな口調で。

「逃げないで。魔女じゃないわ、私……シャルロッテよ」

「まあ、本当ですの?」

「ええ、魔女は私の中で眠っているわ」

「シャル……君なのか?」

 アレクシスは呆然として、シャルロッテを見つめた。彼女ははにかんだ笑顔を彼に向ける。ずっと取り戻したかったものがそこにあった。それは失われてなどおらず、手を伸ばせばすぐ届くところにいる。アレクシスはこみあげてきそうになるものを、ぐっとこらえた。

「ええ、そうよ。随分姿が代わってしまって、恥ずかしいけれど」

「でも、よかったですわ。意識を保ててますのね?」

 ハイデマリーの声に頷くシャルロッテ。アレクシスは喜びのあまり思わず抱きしめてしまいそうになっていた自分を、戒める。いかに念願の再会とはいえ、人前ではできない。

「魔女の中で、話しているのが聞こえたの。あなたたちが、魔女を殺す道具を持っているって。本当なの?」

「ええ、これですわ」

 ハイデマリーがバングルを取り出した。シャルロッテは眩しそうにそれを見つめていたが、どこか不安そうでもある。

「本当なのね?」

「ええ、魔の力を吸い取るということですから、魔女には猛毒のはずですわ」

「そう……。なら、急いだ方がいいわ。魔女がいつ目を覚ますかも分からないもの」

「あ、でもお待ちになって。レギーナたちを呼んでまいりますわ」

 ハイデマリーはアレクシスにバングルを預けると、ウィンクをして軽快に走って行った。二人きりにしてあげるとでも言うつもりだろうか。ということはつまり、そわそわして近寄りたがっていたのが年下の王女にも丸わかりだったということだ。恥ずかしい。

「シャ、シャル、あの」

「アレク」

 先に動いたのはシャルロッテの方だった。長くなった髪をなびかせながらアレクシスの胸に飛び込んでくる。

「会いたかった……好き。好きよ。愛してるわ」

「俺もだよ、シャル」

 抱きしめ返したシャルロッテの体は変わらぬ細さで、彼女は震えながらすすり泣いているようだった。銀の杖を使った時は怒れるこの姿に圧倒されたものだったが、今はその時の迫りくる気配はない。弱く、たおやかなシャルロッテだ。

 だが瞬間、アレクシスの肌が粟立った。心の奥底から怖気が走り、思わず彼女の体を突き飛ばす。

「違う……。お前は、誰だ」

 たやすく彼から引き離された彼女は、ショックを受けたように顔をこわばらせていたが、やがてその頬にうっすらと笑みを浮かべた。シャルロッテには絶対に浮かべられない邪悪な微笑。アレクシスの中から憤然たる怒りが沸き起こる。

「アレクシス? どうしましたの? シャルロッテは……」

「シャルじゃない、魔女だ! 騙されてた!」

 機を伺っていたハイデマリーが背後から声をかけ、彼が叫んだ時にはもう、魔女は身を翻して茨の森へと駆け出していた。その手にはバングルが握られている。いつの間にか奪われていたのだ。

「大変、追いかけなくては……!」

「そこにいろ! 俺が行く!」

「一人では無理ですわ!」

 ハイデマリーが叫んだが、構っていられなかった。武器も何も持たない丸腰だったが戻っている時間はない。今はとにかく魔女の追うのが先決だった。

 シャルロッテのふりをして近づきバングルを奪うことが目的だったのだ。卑怯な手にまんまとだまされた自分が許せなかった。何よりシャルロッテを穢された気がした。彼女の想いも、彼の想いも、踏みにじられた。その上できっとあの魔女は嗤っているのだろう。

 それをしていいのは、彼だけなのに。

 絶対に許すわけにはいかなかった。


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