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「陛下には隠し子がおられるらしい」
王宮では噂話と企みにいとまがない。誰もが企てと流言の虜になり、手を尽くし足を引っ張り合って、権威を貪ろうと必死だった。
ユリウスは漏れ聞こえてきた話し声に、ふと転寝から目を覚ました。といっても長椅子に横たわっていたわけではない。家庭教師より読むことを義務付けられた本に目を通していて、気が付いたら机に突っ伏していたのだ。教師はまだ来ていないようだ。
というより、ここにヴァイスハイトの王位継承者がいることに、話をしている者たちは気づいていないのだろう。何せ勉強嫌いで何かと逃げてばかりいる不真面目な王子として、ユリウス以上に有名なものはこの城内には存在しないのだ。知っていたらとても、父王ニコラウスの不穏な噂を小声とはいえこうも堂々と話せはしまい。
「聞いたことがある。しかし噂ではないのか」
「それが実在するのだ。男子ではないようだが」
「しかしわが国は男子継承ではない。その証拠にタオベ卿一派は次期後継にハイデマリー王女を推しているではないか。もしその子がユリウス王子より先に生まれていたとしたら」
「ふん、あんな肥えた小狸殿の言うことにどれほどの影響があろう。陛下は王子をと決められているのだ」
「しかしな……」
わずかに開いた扉一枚隔てた向こうで話しているのは、ファルケ卿を中心とする一派のようだった。彼らはタオベ卿とは逆にユリウスを推しているようだが、懸念は絶えない。何と言ってもユリウス自身に、その自覚がないからだった。
「王女の方が勉強熱心で憂国の意思もあり、人を従わせる力があるとの意見も根強い」
「気が強いだけではないか。それにまだ十三歳。片や王子は十八だ。もうそろそろ、嫌でも自覚するであろう。ご趣味もほどほどになさるはずだ」
残念ながらその予測は外れている。ユリウスが自覚しているのは自分が王族に向かないことでしかない。見た目からして、亡き母から受け継いだまっすぐな赤毛も琥珀色の瞳も、弱そうとしか形容されない甘ったるい顔立ちも、どこにも父王の影を見出すことができない。翻って異母妹のハイデマリーは、緩やかな巻き毛の金の髪といい碧の凛々しい瞳といい、誰が見てもあの父の子であることが明らかなのだ。
ユリウスは王位には興味がないし、できるとも思わなかった。妹が継ぐと言うのならそれでいいとすら思っている。だからファルケ卿やタオベ卿が争っていることが理解できない。偶さか王の子として生まれてしまっただけだ。なまじ現国王が賢王とまで呼ばれる善政を施しているものだから、次期後継への期待感も高まらずにはいられないのだろうが、応えられるわけがないのだ。
彼には何もない。外見のみならず、素質も、才能も、受け継がなかったのだ。無能の王として名を残すことすらできないだろう。ただ次の後継者を生むだけの道具。しかもそれでがっかりされるわけでもない。皆、分かっているという諦め顔で見るに決まっているのだ。
そんな人生は、まっぴらだ。
だからもし本当に隠し子がいるのなら、その人に継承権を譲るのすら喜んで受け入れるだろう。自分でなければなんでもいいのだ。
「とはいえその隠し子だが……どうにも、王子より年上だという話だ」
「それはまずいな。陛下が王子を継承者にしているのは、間違いなく生まれた順序あってのことだろうからな」
その言葉からするに、彼らもユリウスに統治能力があるとは思っていないようだ。単純に、彼の側についていれば側近として利権を享受できるという算段あってのことだろう。分かってはいたが、改めて知りたいことでもなかった。
そこから先はさらに声を潜めだしたので、息を殺して伺うユリウスの耳にも届かない。だが不穏な話をしているのは間違いないだろう。
「かくなる上は……」
「……タオベ卿も……」
「先を越されては……」
「……どうやら、ドルフ村……」
「なぜそんな辺境……」
単語でしか聞き取れず少しいらいらしだしたユリウスは、知っているそれに思わず息を飲んでしまった。その音を聞きつけたとしか思えないタイミングで、隣の内緒話がぴたりと止まった。衣擦れの音すら聞こえず怖くなって固まっていると、開きかけた扉から黒装束の男が一人滑り込んできた。長い黒髪を後ろで縛ったすらりとした美青年であるが、見覚えはない。
「失礼。殿下がいらっしゃるとは思いませんでしたので」
「気にするな。僕は何も聞いていないから」
「さすが……殿下は賢くていらっしゃる」
勉強もろくにしていない王子に対して馬鹿にしているのかと思ったが、男は微笑んでいるだけだった。その下で何を考えているか全く読めない。宮廷人の鑑だ。声からするに、今の内緒話で噂を持ち込んだ人物のようだった。
「初めて見る顔だな。名は?」
「ザシャと申します。失礼ついでに殿下」
ザシャはユリウスが読む真似をしていた本を取り上げると、勝手に閉じてしまった。一応王子相手なのにそこまで勝手をした者はいないため、ぽかんとしてしまう。
「これはつまらぬ本ですね。真面目一辺倒で、僅かも心を惹かれないでしょう。それよりもっと心躍る面白い御本をお持ちだと伺いましたが」
「……それがどうした。お前も僕に意見する気か」
「とんでもない」
声を低くしたユリウスに、ザシャは大仰な仕草で否定をしてみせた。そして耳元へ顔を寄せ、もったいぶった声音で囁いてきた。
「近く、ドルフ村でお祭りがあるのですよ。ファルケ卿はそれに行かれるのです。興味があったらついて行かれるといい」
「お祭り?」
「ええ、魔女教の」
はっとした時にはもうザシャは、ユリウスから身を離していた。彼は口元に人差し指を当てて、微笑んだまま退室していった。入れ違いに家庭教師が、ようやくやってくる。
「お待たせしてしまい申し訳ありません、殿下。教材がなかなか見つからず……おや、今のは?」
「……さあね」
そこから先は当然上の空だったが、いつものユリウスとは違っていた。それは彼の心を奪っているものが常の無気力さではなく、今の男が置いて行った言葉に他ならなかったからだ。
シャルロッテは自分が嫌いだった。何の取り柄もなければ特別美しいわけでもない。母親譲りの黒髪は長く背中を覆うほどだったのでいつも丁寧に梳っていたが、他にやることがないからという側面もあった。
きわめて普通、それが自分だと思っていた。だが普通ならば、なぜこれほどまでに行動を制限されるのだろうか。
「シャルロッテ様、どちらへ?」
「少し、歩きたくて」
部屋を出ようとすると、隻眼の女騎士レギーナ・パトリオートが扉への進路を遮った。彼女好みの設えに、落ち着いた調度品。彼女の体には不釣り合いの大きなベッドと、窓際のテーブルセット、小さな本棚に今の時期は使わない暖炉と、収納用のチェストと洗面所への扉、それから屋敷の廊下へと続くもう一つの扉。それらが治まって広すぎず狭すぎずちょうどよい空間の中には、いつも武装し厳しい顔をした彼女の姿がある。
ここはシャルロッテに与えられた部屋ではあるが、一人になれることは極めて少ない。彼女は窓の外を見ながらため息をつく。綺麗に整理された庭が見えるそこには、無粋な鉄格子がはめられていた。以前脱走したせいだった。
「今は、よした方がよろしいかと。祭りの準備で皆、慌ただしく走り回っていますので」
「邪魔は、しないわ」
「お怪我をされるといけませんので」
彼女はもう十九だ。転んで怪我をするほどそそっかしいわけでもないのに、レギーナを始めとするこの屋敷の者は誰もが、シャルロッテをそうして箱入り扱いするのだった。
「私はローザリンデとは違うわ」
五つ下の従妹は、このズィーゲル家の正式な子供である。一方シャルロッテは養子だった。母親の弟である叔父のテオバルトに、母の死をきっかけに引き取られたのだ。以来、ローザリンデと同じ扱いを受けているが、それが彼女には納得がいかないのだ。
過保護すぎるというか、ちょっとしたことからでも過剰に彼女を守ろうとしている。そこまで大切にされる義理はないのに。現にローザリンデには護衛まではつかない。村から出る時ぐらいだろう。
「旦那様にとっては同じなのでしょう」
「でも、ローザリンデはシャーマン見習いで修業もしているのに」
「旦那様には旦那様のお考えがあるのかと」
一使用人に過ぎない自分には答えられないと言うレギーナだったが、訳を知っているのではないかとシャルロッテは疑っていた。紅蓮色の厳つい眼帯をしたレギーナの目は同じくらい厳格で、聞いたところでとても教えてもらえるとは思えなかったが。
ズィーケル家の村での役割は、神託を受けそれを村民に伝えるシャーマンだった。叔父はまだ現役であるが、次期シャーマンとして娘を育てることは怠らない癖に、同じ血を引くシャルロッテにはそれを施さないのだった。
シャルロッテは追及を諦めた。昨日も諦め、一昨日も諦めている。明日も諦めなければならないのだろうかと思うと、ため息が漏れる。ひとまずレギーナの前から離れて、窓際の椅子へ腰かけた。外を見る。腹が立つほどに美しい風景だった。
「お茶が飲みたいわ」
「ただ今お持ちします」
無駄のない動作で、レギーナが部屋を出て行った。短い時間だがこうして一人になることも、できなくはないのだ。女性の割に長身なこともあって、息が詰まるのだ。それに彼女はずっと自分を監視しているようだから余計に。
見ていたって何が起こるわけでもないのに。
シャルロッテは窓の外の景色を眺めた。ここをこれほどまでに綺麗に保っている人を、彼女は知っている。もちろん彼ひとりの仕業ではないのだけど、そう思うと腹立ちが消えていくから不思議だった。
その彼が、庭木の傍で作業していた。近い距離ではないが、汗を額に光らせているのだろう。その姿が見えただけで、シャルロッテの心は躍った。体が火照って、たまらなく苦しい気持ちになる。例え鉄格子越しであっても。
彼が、シャルロッテの視線に気づいた。顔を上げて手を振る。遠いが、笑っているように見える。体が浮かび上がるような心地がして思わず振り返すが、彼と彼女の視線の間にもう一人いたことに遅ればせながら気が付く。彼女は飛び跳ねるようにして彼の方へ近づいて行った。侍女のマクダが慌てて追いかける先で、転ぶ。
従妹のローザリンデだった。
彼と彼女が話しているのを見て一気に気分が沈んだシャルロッテは、窓から目を背けた。既に何度も読んだ本棚の前に立って品定めをするふりをする。動揺を押さえつけ平静になろうとするが、そのための方法が書いてある本はなさそうだった。
別に、どうということはない。雇用主の娘と雇われ庭師が話していただけだ。そう思い込もうとするが、苦しさは止まなかった。むしろ、従妹はどうしてあんなに近い距離でいられるのに、自分はここに閉じ込められるような形でいなければならないのかと、憤りすら湧いてきそうになる。
そんなのは、駄目。彼は、大丈夫だから。でも、本人の口から聞いたわけでもないその根拠のない言葉を信じられるの? 私はここから一歩だって、彼の方へ近づくこともできないのに。
一度暗くなってしまった気持ちは少しも晴れることはなかった。そのための要素がここには一つもないからだ。二人の間には固い絆が築かれているが、そんな目に見えないものが何の役に立つだろう。
(彼が、好き。でも私ばっかりだわ。きっと彼は、もう私のことなんかより積極的なローザリンデの方が)
鉄格子の隙間から触れた彼の手のぬくもりと、自分とは違う骨太で厚みのある大きな掌を思い出し、泣きそうになった。確かにそこに残っているのに、そのぬくもりも手触りも、彼女だけのものではないのだ。
「シャルロッテ様? いかがされました」
涙が零れそうになったが、ノックして入ってきたレギーナのおかげでそれは、彼女の内にとどまった。
「なんでもないわ。読む本がないから、困っていたの」
「では新しい本を取り寄せましょう。どんなものがよろしいでしょう」
「そうね。魔女の本とか読んでみたいわ」
「それは……。……分かりました。旦那様に相談してみます」
レギーナは珍しく苦い顔を見せてから、お茶の準備を始めた。どうせ何を読んだって同じだ。彼女の中に使いもしない知識が蓄積されていくだけ、役に立つ時など来るわけがないのだ。それでも活字を追うことが、今の彼女にほとんど唯一と言っていいほど許された、数少ない娯楽だった。
字を見ていれば、彼を見ていなくても済む。考えなくても、思わなくても済む。嵐のように暴れ回る心に振り回されなくても、済むのだ。