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 ザシャは殺され、魔女は眠りにつき、そしてヴィンフリーデはパニックに襲われ震え続けていた。

「どうして? どうしてこうなるのよ?」

 彼女はクーデルベルグに戻ってきてはいたが、城には戻らなかった。戻れなかったのだ。いつものように憂さ晴らしをして帰ってきたら、城が茨で覆われていた。何とか入ろうと試みたが、強固なそれは魔女の力で作られているらしく、胴ほどの太さのあるそれは彼女程度の力ではどうすることもできない。他にも入れずおろおろしている眷属や魔物がいた。眷属化を待って列をなしていた魔女教徒も、はじき出されて困惑顔を晒している。

 茨のないところを拠点にどうにか中へ入る方法を模索していたが、城を覆うそれは時間の経過と共に範囲を拡大していって、気が付いたらヴィンフリーデは茨の中にいた。もうどこにも行くことが出来ない。自らが傷ついてもどうということのない痛覚のない連中からザシャが死んだことを聞かされて、物理の次は精神的にも迷い道に入り込んでしまったのだった。

「嘘よ、ザシャが死んだなんて……そんなはずないわ」

 魔女に次いで力を持っていた眷属なのだ。伊達に最古参を名乗ってはいない。それが死んだなど、にわかに信じがたい。

 だがもし彼が生きていたら、魔女は茨の森など作り上げただろうか。まるで居城を守るように棘を茂らせただろうか。その上眠りについてしまうなど。

「そんなのってないわ。そしたらあたしはどうなるのよ?」

 散々嫌味を言われたけれど、ザシャはヴィンフリーデにとって愛しく思う以上に心の支えだったのだ。彼が後ろについていると思っていたからこそ好き勝手に振る舞えた。その彼がいない今、彼女は一人で立たねばならない。一人で魔女と会わねばならない。魔力を得て暴虐に溺れ罪悪感を抱かずにいられたのは、ザシャという先達がいたからだ。それを奪われた不安定な地盤で、立っていられるはずもなかった。

 これからは全部、彼女が責任を取らなくてはならない。それができるほどヴィンフリーデは、肝の座った性格ではないのだ。軍隊相手に無双できるわけもなし、所詮はちっぽけな村でしか大きな顔をできない小者だ。それをザシャに引っ張り出された。

「そうよ、全部ザシャのせいじゃない。あたしは悪くない」

 愛すら覚えかけていた相手に対し、ヴィンフリーデは容易く手のひらを返した。取り柄もない平凡なただの田舎娘だったのに、ザシャが目を付けたのがいけないのだ。外の世界なんて知らないから、ほいほい言うことを聞いてついていって、そのくせ見捨てるように先に死ぬなんて、あんまりだ。

 そもそもシャルロッテが魔女を封じていたのが悪いのだ。あの女が封印体などでなければザシャとてヴィンフリーデに目を付けたりしなかったはずだ。こちらは一生メイドとして人に傅くしかできない人生を送らねばならないというのに、何でも持っていたくせにアレクシスの心まで奪っていったあの女。

「あたしは悪くない。あいつが悪いのよ! 全部全部、あの女のせい!」

 感情の高ぶりに沿って、彼女の体から雷撃が放たれる。だがそれは茨の表面を軽く焦がすだけで、動じる気配すらない。

「嫌よ、こんなところで朽ちるなんて。あの女のせいで死ぬなんて!」

 眷属なれば、飢餓で死ぬことはないだろう。肉体も強靭だ。だがそれは人と比べた時に緩やかであるというだけで、確実に死へと近づきつつあるのだ。ヴィンフリーデは震えた。何もかもを自分以外のせいにしながら感情を爆発させようとした。

 だがそれは、できなかった。茨を殴るように裂いて突如現れた鋭い白刃に、その身を切り裂かれたためだった。

「あ……?」

 ヴィンフリーデは、自分が傾いでいくのが分かった。だが足は地面についている。真っ二つにされた上半身が、下半身から切り離されて滑り落ちようとしているのだった。

 だが血は、噴き出さなかった。その前に黒い霧に包まれ、体の崩壊が始まったことを知った。何が起きているのか分からないのに、自分が消えるということだけ理解した。嫌だと叫ぶこともできなかった。ただ目の前にある怜悧な隻眼が、彼女が死ぬのを映すのを、見送るだけだった。

 何の感情も露わにしない女騎士の向こうにいるのは、アレクシスだった。彼の後ろにはさらに、茨の森が切り開かれた景色があった。棘しか見ることが叶わなかったヴィンフリーデが最後に見たのは恋しい相手と、荒野と空をつなぐ線だった。

(あたしを助けに来てくれたの? お願い助けて。あたしもあなたのこと、好きだったのよ。あんな女より、ずっとずっと)

 歓びと共にヴィンフリーデは、泣きながら彼に向かって手を伸ばそうとした。だがそれが実行される前に、彼女の体は無情にも粒子となって霧散してしまった。涙も、生きた証も、影すらそこに残ることはなかった。

「レギーナ、お怪我は?」

「ございません、姫様。今のは形状からするに、眷属だったようです」

「意外と脆いんですのね」

「ハイデマリー様、今更です」

 女騎士の後ろから遅れてやってきた王女と騎士隊長が、好き勝手に喋っている。王女は庭師の青年に笑いを含んだ声で、「自分の腕前でもないのに誇らしげですわね」と囁いた。兵士何人がかりかでなくては倒せない眷属相手に一太刀で終わらせてしまった女騎士は、怪訝そうにしている青年に問う。

「どうかしたのか?」

「うん……今の、見たことあったような気が」

「女の眷属は多くない。村を襲撃したという奴だろう」

「そうなんだけど、最後に見えた顔が、なんか……まあいいや、思い出せないし」

「急ぎましょう。宝珠があるとはいえ、長居は危険です」

 騎士隊長の言うとおりだったので、一行は先を急いだ。王女が宝珠を掲げると、魔の力を持ってしてもびくともしなかった茨が容易く裂けるようになる。それは無論騎士たちの剣技あっての突破だが、魔女の領域にあっては立ち止まるのは得策ではなかった。

 騎士らの剣の範囲外にあり、彼らが背にした方向に一房残された茨には、微かに焼け焦げた跡が残っていたが、誰もそれに気づくこともなく、また振り返ることもしなかった。


 ユリウスは魔女の居室にいた。殺風景な部屋にはオブジェのようにところどころ茨が這いまわっている。だが部屋の主が眠るベッドの周辺には無粋な棘はなく、彼がそこへ近づくことも禁じていなかった。

 ベッドの端に座ってみる。魔女は目を覚まさない。だがその先へ手を伸ばすことはできなかった。彼女は深い傷を負ったため、眠ることを選んだのだ。

 魔女が帰還した日、彼女は言った。ザシャが死んだと。

 そしてもう一言、あの男を殺せなかった、とも。

 ザシャの死が魔女を傷つけ、殺せなかったことがさらに深く彼女を抉ったのは明白だった。それきり外へ出て行くことはせず、ずっとベッドの上にいる。眠ったまま、目覚めることはない。

「魔女様……ずっとこのままなのですか?」

 答えはない。眠り続ける彼女は儚くて、今にも消えてしまいそうだった。ユリウスが思い描いていた魔女像とは異なっている。すべての生物の頂点に立ち、破壊と破滅をもたらす悪の権化。酸鼻極まる悪徳を振りまき、暴虐の限りを尽くす邪悪なる存在。そのような自由で力強い存在に、魑魅魍魎巣食う宮廷内で負の感情を募らせ育んできたユリウスが、どうして憧れずにいられよう。

 だがだからといって、幻滅も失望もしない。混乱した眷属たちが右往左往し使い物にならない今、彼女を守れるのは自分しかいないのだ。これを機に魔女を倒そうと立ち向かってくる存在――――多くは彼と同じ人間だろうが、容赦するつもりはなかった。眷属化はしておらずとも魔女の力により与えられた剣で、立ち向かって見せる。たとえ刺し違えてでも。

 既にその勢力が近くまで来ていることは、彼に服従を見せた魔女の眷属によって伝えられている。ユリウスが人間だろうがそうでなかろうが、誰でもいいから命令してくれる者がほしいという主体性のない者たちだった。

「いってまいります、魔女様。しばしのお暇を」

 眠る魔女にこうべを垂れると、ユリウスは踵を返して部屋を出て行く。部屋の外には主張を持たない魔物や眷属が、命令を与えられる時を待っていた。

「行くぞ、お前たち。魔女様を狙う不逞な輩どもを根絶やしにしろ」

「はっ」

 魔物も同意の声を上げて、歩き出したユリウスの先となり後となって進んでいく。不埒な賊どもは、早くも城内に入り込んでいた。魔物たちが襲い掛かるが、物ともしない剣さばきで血路を切り開いていく。その中には二人ほど、知った顔があった。

「元王宮騎士の、レギーナ・パトリオート……それに、ハイデマリーだと?」

 レギーナはともかく、王女の彼女がどうしてこんな危険極まりない場所にいるのか。もしや王家の軍隊がそこまで進撃したのかと思ったが、どうやら彼らはどの命令系統からも外れて行動しているようだ。続く兵士も騎士もいない。彼ら以外全滅したのかもしれないが。

 最初に彼の姿に気づいたのはその妹だった。

「お兄様!」

 叫んで駆け出そうとしたが届くわけもなく、魔物の咢が彼女に迫った。さすがに血を分けた肉親が死ぬ場面を直視できずに目をそらしたユリウスだったが、どうやらレギーナが彼女を守ったらしい。真っ二つに裂かれた魔物が黒霧となって消える。

「何をしに来た」

「お兄様……眷属化されておりませんのね?」

「そんなことを言うためか?」

 ユリウスは剣を抜くと、魔物や眷属らが犇めく間を走り抜け、妹へと闇色の刃を振りかぶった。当然のようにそれは隻眼の女騎士によって阻まれる。彼に妹を殺す理由も度胸もない。そうなると分かっていてやったことだ。

「おやめください、王子。姫様に刃を向けられるおつもりですか」

「さっさと宮廷を去ったお前が、僕に説教するつもりか」

 レギーナの剣を跳ね返すユリウスには一つ、勝算があった。騎士の恰好をした二人がここでは戦力となっているようだが、彼らに王子たるユリウスは切れないはずだった。そうなれば残るは、取るに足らないハイデマリーと、明らかに不慣れな様子の青年が一人。魔物も眷属も必要なく、彼一人で片づけられる。

 目算通り、騎士二人は手を出すに出せずこまねいていた。忠誠心がその身を縛るなど、哀れなことだ。

「お兄様、帰りましょう。わたくしたちはお兄様を救いに来たのですわ」

「誰が助けてくれと言った。僕は自分の意思でここにいるんだ」

 ユリウスは刺々しく言い返しながらも、心ひそかに落ち込んでいた。王女が単身乗り込んできたということは、父である王は王子奪還にそこまで意欲的でないということだろう。魔女は眠り反撃のチャンスは今だというのに、きっとまた会議室で官僚たちと結論の出ない議論に明け暮れているのだ。確かに茨が邪魔をしているだろうが、こうして乗り越えてきた者たちがいる以上、怠慢と罵られても仕方ない。

 自分に王政をつかさどる能力があるとは思えなかったが、一応は王位継承者だ。だが積極的に取り戻す気はなく、死んでも仕方ないと思っている。その心なさはまるで、魔物たちと同じスタンスではないか。それならこんな血筋、ここで絶やしてしまった方がいい。彼も妹もいなくなれば、きっと少しは人の心を思い出せよう。

「まずはお前から血祭りにあげてやるぞ」

「お兄様……?」

「レギーナに守られて、安全だと思うのか? 馬鹿め。行け、魔物たちよ!」

 兄の心の変化を読み取ったハイデマリーが、信じられないというように目を見開いた。それにめがけて魔物たちが殺到していく。レギーナは王女を必死で守りながら剣をふるうが、多勢に無勢で押されつつあった。もう一人の騎士が加勢しようと動く。だがその彼が、視界の端で動いたものを見て驚愕に叫ぶ。

「アレクシス!」

 ユリウスは危ういところでその剣戟を受け止めた。名の知らぬ青年が彼めがけて剣を振り下ろしてきたのだ。だがやはり大したことはなくすぐに弾き返す。奇襲に失敗した彼は悔しそうにしながらも、ユリウスがレギーナたちに近づくのを体で阻止していた。

「よせ、君ではかなわない!」

「じゃああなたにできるんですか!」

 アレクシスの一声に、騎士は悔しそうに黙った。確かにこの中で攻撃に転ずることができるのは彼だけだ。もっともその切っ先が届けばの話だが。

「アレクシスだと?」

 だがユリウスにはそれより気になっていたことがあった。その名は魔女の口から語られていたはずだった。

 クラウディアが殺せなかったといったのは、何だった? ザシャを殺されたこと以上に心を痛めていた者の名は。

「お前がアレクシスか……」

 関連は分からない。聞き出すつもりもない。ただ魔女を苦しめている最大の存在であることが明らかな以上、ユリウスがすることは一つだけ。

「予定を変える。まずお前から殺す」

「え」

 明確な殺意を向けられたアレクシスは、運と反射だけでユリウスの剣を躱した。彼が本気を出せばこんな男、物の敵ではない。何より魔女のためにも最大限の力を持って屠ることこそが、彼の役目だと思った。

「うわ、わっ」

「逃げるな、雑魚が!」

 剣を弾き胸ががら空きになる。そこへすかさず追撃。これで心臓を貫かれ、この男は死ぬはずだった。

「おやめください、王子!」

 アレクシスを突き飛ばして間に入ってきたのは、騎士の男だった。彼は続けてさらに何か言おうとしていたのかもしれない。だがその時には既に、ユリウスの必殺の剣が彼の胸を貫いていた。鎧をまとっているため致命傷にはならないが、威力を相殺することまではできなかった。騎士はアレクシスを残して吹き飛び、壁に激突する。

「レオンハルト!」

 悲痛な叫びをあげて、アレクシスが彼のもとへと駆け寄る。頭を打ったのかぐったりとして呼びかけにも答えないが、まだ生きているようだ。外れて吹き飛んだ兜が空しく床を転がる。

「死ななかったか。まあいい、まとめてあの世へ送ってやる」

「お兄様、いけません!」

 アレクシスがすかさず騎士を守るように剣を向けるが、何の脅威にもならない。余裕を持った歩みで近寄るユリウスを、レギーナの後ろにいるハイデマリーが止めた。無視されることは分かっていたのだろう、息を継ぐまもなく告げてくる。

「お伝えしたいことがございます! 魔女を封じていた女性、シャルロッテのことです!」

「誰のことだ、それは。僕には関係ない」

「いいえ、ございますわ! なぜなら魔女の支配しているその体はシャルロッテのもので、彼女の魂もまたその内に眠っているからです!」

 理解できないユリウスの眉間にしわが刻まれた。妹はいったい何を言い出すつもりだろうか。まるでそれを言えば兄の足は完全に止まって、運命まで変わるかのような必死さで声を絞り出して。

 そして彼女は、とうとう秘密を口にした。

「お兄様、シャルロッテは、わたくしたちの『姉』なのですわ!」

「……なんだと?」

「父上の隠し子、腹違いの姉なのです」

 ついにレギーナが、襲いくる魔物を倒しきってしまった。他にもまだ魔物も眷属も残っていたが、ユリウスの号令がないため動けないでいる。彼は彼で、別の理由で動けなかった。同様に、レギーナもアレクシスももたらされた真実による衝撃で動けない。

「嘘だ。そんな話があるものか」

 だがユリウスは、心当たりがあった。官僚たちがこそこそ話していたその内容、その計画の直後に復活した魔女、そして魔女の見覚えある面立ち。父王が全軍をもって全力で殲滅しに来ないのは、そこにも理由があったのか? 王位継承権があるかもしれないから、魔女が蹂躙するのを放置していたのか?

「否」

 ユリウスは、剣をふるった。彼に切られた空気が戦くような音を立てる。

「それが何に関係する。どうでもいいことだ、姉であろうと」

 そう言うことで、己を奮い立たせようとした。何も魔女を手にかけようというつもりはない。先刻、妹を自分も含めて殺そうとはしていたけれど、魔女を崇拝する気持ちに変化はない。

 しかし、動揺はあった。その隙をついて、レギーナは撤退を提案し、彼らは城から出て行ってしまった。ユリウスはそれを追おうとはせず、ただ茫然と眺めていただけだった。魔物たちは命令がないため、ぼけっと馬鹿のように突っ立っている。中には衝動に任せて追いかけて行った者もいるようだが、止めなかった。

「ユリウス様、我らはどうすれば」

「黙れ、ついてくるな」

 醜い形に変化している眷属の男がおもねるように声をかけたが、ユリウスはうるさげに手を振って黙らせた。そうして向かう先は魔女の部屋。眠れる茨の女王のもとへと歩き出した。


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