二‐嫁入り菓子
月明の忙しさは小判をもってしても弱らなかった。朝から晩まで神殿と朝廷を行ったり来たり、身を休める暇もなくてんてこ舞い。拝殿で別れたふたりは半月顔を会わせていない。
かまどは相変わらず朝から晩まで煙を上げていた。
「久助さん、久助さん」
鈴が鳴ったような可愛いらしい声に、屋根家鳴りがざわめく。
お国の氏神さま、お稲荷さまを祀る小御門神殿には、甘いもん好きのお稲荷さまのために、甘いもんだけ炊く御饌かまどがある。この一畳一間のかまど、おこぼれに預かろうと集まった、妖し小鬼でぎゅう詰め。手伝ったもんにはお夜食がつくから、雪婆や米とぎ婆なんて婆さま妖怪たちは、巫女よりずっと団子を捏ねるのがじょうずだ。
今日も御出し台には婆さまたちが腰曲げて、餅にあんこを包んでいた。
綺麗に並んだ餅のなかでも、やっぱりいちばん美味そうなんは御饌巫女が包んだ餅だ。御饌巫女とは、御饌菓子作りに徹する娘のことで、お稲荷さまの胃袋を満たす大事なお役目。
御饌巫女――鹿の子は餅に葉を纏わせると、煤だらけの顔をにっこりさせて、御饌皿に置いた。
「あい、お願いします」
家鳴りがかぶりつく御饌皿を、あっさりさらって行くのは名を呼ばれていた久助という式の神だ。久助は霊力なしの鹿の子の代わりに毎朝毎夕、同じように拝殿へ御饌皿を運ぶが――。
「ひぃい!」
「ぎゃああ!」
その様子を見た巫女や下女は回廊をはしたなく走って逃げる。
何故なら久助の愛らしい水干姿は、人間さまの目に映らないのだから。
式の神は主の力に比例する。
ゆえに絶大なる霊力の持ち主である、当主の月明に使役されていた昨年までの久助は下女や霊力なしの鹿の子にも見えていた。しかし鹿の子に喚ばれる今は、それこそ修行中の巫女にも見えない。かろうじて見えるのは当主やその側室という、限られた能力者のみである。
まあそんなことを気にする久助ではないので、いつものとおり。颯と皿がひとりでに拝殿へ向かう。渡殿を渡れば、その奇妙な様子は境内から望めるもんで、
「菓子が、菓子が浮いとる!」
「お化けが供物を運んどる!」
参拝客の噂が繁華街へ広まり、小御門神殿はあっと言う間にお化け神殿と言われるようになった。
「久助さんが見えへんようになったんも、御家騒動もかまどの嫁のせいちゃうやろうか」
「ほんなら、とんだ厄病神や」
いつもはでたらめな噂ばかりの巫女らであるが、この単なる愚痴がごもっとも。
今日は御饌巫女の鹿の子が、正式に継室として母家へ上がる日となる。
そう、かまどのお火焚きに精を出すこの煤汚れた娘は元々小御門神殿当主、小御門月明の側室であり、ついには継室に選ばれた言わば正妻となる。
朝拝で当主から出し抜けに言われたときはみんな目を、耳を疑った。なにがどうなって、そうなったのか。いつも冷然とした当主が顔を赤らめて言うものだから、巫女らは口をぽかんと開けたものだ。首を捻ってかまどを見下ろせば、清々しいほど霊力がない、小豆みたいな貧相な娘。
「甘いもん好きの旦那様を菓子で釣るとは」
「継室があれじゃあ、正室が浮かばれん」
「ほんまや、小夜の君は旦那様に釣り合う、お美しい方やったのに」
お団子頭は灰かぶり。化粧気なく、なんの変わりもなしに汗水たらして釜を担ぐ鹿の子を、巫女らは疎ましそうに眺めていった。
*
鹿の子が母家の御寝所に上がったのは夜半まえ。それでも御寝所に月明の姿はなく、その影が几帳に映る頃には丑三つの刻を過ぎていた。
鹿の子が半年前の初夜と同じように船をこいでいると、床の間の茶釜が「ぴぃい」と鳴いた。ちなみに床の間で湯が沸いたのは、茶釜が付喪神の分福茶釜であるゆえ。茶釜なりの心遣いというものだ。
「はっ、旦那様! はっ」
二度息を呑んだ鹿の子が抱きしめたのは膝元に置いていた菓子箱。誰かさんに食べられていないだろうか。小鬼に摘み食いされていないだろうか。蓋をずらして中身の無事を確認すると、胸を撫で下ろした。
几帳の向こうから気を張り詰めた声がする。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「とんでもありません。お湯が沸いたようなので、あったかいお茶をお淹れ致しますね」
炭のない床の間で勝手に湯が沸いたことを不思議に思わない程度には、鹿の子も気を張っている。床の間まで身を移そうと膝を立てるも、前かがみに倒れてしまった。
「危ない!」
正座したまま船をこぐから、こんなことになるのだ。月明は几帳を倒して鹿の子を抱き救った。
几帳に隠れていたお月さまが露わになり、月明かりが部屋に射し込む。
「あ……」
天井に向いた鹿の子の顔は珊瑚色に染まっていた。
「鹿の子さん、綺麗だ」
床の間で茶釜がぴいぴい、蓋を浮かせて五月蝿くするが、月明の耳には届かない。
しかし、
「コン」
「お茶を淹れていただけますか」
咳払いに似た鳴き声がどこからともなく聞こえ、月明は冷然とそう言い放った。それから帳台に向けていた爪先をずらし、床の間の前まで運ぶ。鹿の子を降ろして、几帳を戻すと自分は一畳分離れたところに座った。
茶釜は残念そうだ。
「鹿の子さん、私がお稲荷さまに呪われる覚悟でこの席を設けたには理由があります」
「はい、お世継ぎ作りですね」
「違います」
きっぱり拒まれ鹿の子は涙を汲んだが、お稲荷さまの眼下でお世継ぎ作りなど始めた暁には魘されるどころか、骨まで消し炭にされてしまう。
鹿の子を抱き寄せようとする自分の手を抑え、月明は笑った。一畳分空けといて良かった。
「お稲荷さまというより、私が理性を保てるかどうか。鹿の子さんを傷付けたくない。少しずつ、少しずつ歩み寄りたいのです」
「んでも、大晦日で一度――」
「あ――――!!!!!鹿の子さん、あ――――!!!!!」
気のせいか几帳に狐の影が映る。
実のところ鹿の子はかあさまからお世継ぎ作りのいろはの「い」しか教えられていない。
月明は鹿の子の知ったような顔に愛しさと、なんとも言えないむず痒さを感じた。
大晦日は「い」までだっただの、お世継ぎ作りとは本来〜、だの言っていたらそれこそ茶を飲む前にお稲荷さまから罰をいただいてしまうので、結局冷然とするしかない。
「お茶をください」
「はいな」
鹿の子は納得できなかったが、こちらもお世継ぎ作りの前に食べてもらいたい菓子がある。食べてもらったあとでまたお願いしようと、棗より先に菓子箱を開けた。
「これは……!」
月明の顔があえかに華やぐ。
菓子箱にぎっしり詰まった菓子の名は、鹿の子。
鹿の子の嫁入り菓子だ。
この席は初夜のやり直し。そういった意味で作られたかと思うと、お豆の艶が色っぽく見える。
果たして月明、下心を抱かず味わえるのか。
無心は得意だ。月明は頭を空っぽにして再び菓子箱と向かい合った。取り箸を握ると、ぎっしり詰まった鹿の子の僅かな隙間に箸を入れ、器用に取り上げる。
ひと粒も溢さず菓子皿にのせると、自然と顔が綻んだ。
躊躇う暇をもたせぬよう、鹿の子の手元の茶器には既に抹茶が入っている。月明は手を休めずに菓子楊枝を取った。
「いただきます」
「はいな」
勢いのまま、ひと口頰張る。
精緻に閉じられた唇は頬といっしょに崩れた。
「ああ、――あ」
これは。この小豆は。
月明はひと噛みで悟った。
風成の土で育てた、風成の小豆。
未だかつて食べたことがない大粒の鹿の子豆に、舌が浮く。
転がせばしっとりと甘い汁を溢れさせる。堪えきれずひと粒噛めば、
――こくり。
ざらみの全くない、例えば蜜がしゅんだ栗のような、滑らかな舌触りで潰れた。溢れる蜜は汁粉のよう。鼻に抜ける小豆の香りはぜんざいのよう。
この存在感の鹿の子豆がなん粒も、なん粒も押し寄せる。
くどいくらいに味わい深い鹿の子豆は、引っ付いてくる求肥で円やかになりながら、お次はねちねちと歯に媚びる。どうぞしばらくそのままで、と願いたくなる美味さだ。
「これが……、鹿の子」
気付いたら箸でおかわりを掴んでいる。
「はっ」
「どうぞ、どうぞ。いくつでも召し上がってください」
では、と素直に口へ運ぶ。ふたつ目は贅沢にまるごと食べてみたかった。豪快に噛めばお豆と餅が重奏を奏でる。
「美味しい」
その言葉は喜びに打ち震えた。
うっとりと瞼を伏せ、味わうその表情を鹿の子は食い入るように見つめていた。
「そんなに美味しいですか」
「はい。今まで食べてきたどんな菓子よりも、どんな小豆より、この鹿の子が一番に」
もうひとつお箸で掴みながら。
「美味しいです」
作り手を意識していない、素直な感想だった。もっと違う言い方がなかったものか、月明は寸の間顧りみたが、鹿の子が嬉しそうに肩を弾ませ茶筅を振るので、言い足すことは無粋だと感じた。
ただひとつだけ、尋ねる。
「風成の小豆、まだこんなに残っていたのですか」
そうすれば、鹿の子は小豆顔を崩して笑い、
「さすが旦那様、おわかりになられましたか」
きめ細やかな泡をたっぷりと泳がせ、茶器を置いた。
「このお豆は旦那様以外、誰も食べていませんよ」
「誰も? お稲荷さまは」
「お稲荷さまには我慢してもらいました。もちろん妖しさんたちにも。この鹿の子豆は旦那様のために炊いたものですから」
「私の、ために」
月明の口のなかに、じわりと豆蜜が沁み入る。
こりゃあ、舌から理性を奪われそうだ。月明は茶器にかぶりついた。
抹茶を一気に啜りきり、茶器を置けば鹿の子が膝を合わせ、菓子箱を取る。
「旦那様。この鹿の子は、鹿の子豆は小豆を旬のうちにいただける、最後の菓子なんです」
それから鹿の子の名の由来を語った。豆ではなく娘、鹿の子自身の名の由来だ。
小豆の収穫は秋口から暮れにかけて行われる。旬もそのあいだ、小豆は主に冬場に主役を張る。暮れに穫れた小豆が美味しくいただけるのはだいたい春まで。春のうちに煮て、蜜に漬けた鹿の子豆が、最後に残る。それを春の上生菓子、鹿の子にして小豆の旬を締めるのである。
嫁に行き遅れちゃあかわいそうだが、ぎりぎりまで家に居って欲しい。
今は亡き糖堂の大旦那は生まれてきた初孫が可愛いくて可愛いくて、そう名付けたのだった。
「旦那様、お菓子だけではなく、わたしもどうか旬のうちに、いただいてください」
頭を垂れると、鹿の子の垂れ髪が天の川の如く畳に流れた。膝に届くその弾んだ手触りは衣裳越しにもわかる。鹿の子は決しておこがましくはない、まさに今が女の旬。
月明が喉を鳴らす。箍が外れた音だ。
「鹿の子さん」
「コン」
――お願いやから、世継ぎは外で作ってくれ。
気のせいか、ふたりを阻む狐の目がそう語った。
月明にとって幸いなことに、朝拝まで二刻足らず。話は弾んだし、鹿の子の膝の上には狐がのっている。鹿の子も今日は諦めるしかなく、ふたりはついに帳台へ上がることはなかった。
淡くお日さんの光を蓄えた几帳を見つめ、鹿の子は言う。
「お国を出なお世継ぎ作りがでけへんなんて、難儀な話ですねえ」
「いやしかし、お稲荷さまが鹿の子さんを継室と認めてくださっただけでも嬉しいことです」
鹿の子――菓子も娘も、独り占めして夜を越したというのに、月明はたった一度も罰をいただいていない。
月明は柔らかな笑みを狐へ送った。
しのぎを削ろうと幣殿で語り合ってから、ちょうど半年。互いに随分と削ってきたものだと思う。
自分は執務を疎かにして内乱を誘発し、更には命を粗末にした。
お稲荷さまは茶室を建てるために仕事に精進して、ついには狐になってしまった。
嫁にしたいと当主に打ち明けるほど、愛してやまない娘を諦め、――いや、諦められぬから狐のままなのか。
月明はなにかとっかかりを掴んだ気がしたが、几帳の向こうが朝へ移り変わり、焦りから手離してしまった。
「この頃の私は一刻も無駄にできないのですよ」
朝夕の祝詞を小薪任せにするとお稲荷さまが拗ねるので、近頃は朝廷と神殿をいったりきたり。背後に迫るは皐月、ひな祭りの準備だけでも忙しいのに、朝廷ではひと月半溜め込んだ執務だけでなく、今まで久助に丸投げしていた雑用をこなさねばならなくなった。
加えて桜狩の偵察――よもや身体ひとつでは足りない。
「それに遠征と言われましてもね、私はもう、二度と鹿の子さんのそばを離れたくありません」
「はあ」
「そこで、これを機に東の院へ側室を迎え入れることにしました」
「側室、ですか」
「側室です。小御門の習わしをお忘れではないですね?」
「はい」
いらぬ心配をせぬよう、釘をさしても鹿の子の顔色がみるみるうちに悪くなっていく。今にも涙が洪水になって流れてきそうだ。それは鹿の子が月明を想う証であり、月明にしちゃあ夢のような情景だった。
ごくり、喉が鳴る。二つ目の箍は簡単に外れた。
「信じて。私が愛しているのは、正妻だけですから」
頷いた鹿の子の腰を引き寄せ、月明は昏倒した。
 




