十三‐爛漫
一頻り泣いた後、しわくちゃの懐紙で涙を拭くと、月明はそわそわと落ち着きがなくなり始めた。鹿の子が話しかければ、
「旦那様、お寒いんでしょうか」
「そうですね」
颯と立ち上がり、壁から袍を外す。
理性を纏うように袍をぴったり肌に貼りつかせ帯を結ぶと、鹿の子の肩にも羽織をかけた。
「陽は昇っております。山を下りましょう」
「麒麟さんを待たんでええんでしょうか」
「少しでも先へ進みたい。それに此処で待っていては、何かと」
鹿の子の肩に手を置いているだけで囲炉裏の火が強くなり、畳んだはずのかい巻きが広がろうとする。
「堪えようがない」
月明がばさり、几帳を翻すと上がり框に聞き耳をたてた女童が座っていた。
「歳神さまの計らいでございます」
「いらぬおせっかいです」
「後で悔いることになりますよ」
「沓を」
女童はそれ以上引き止めることなく、磨いておいた浅沓と小さい雪駄を並べた。戸を開ければ、強い陽射しが射し込んでくる。
「薮入りの際には、お立ち寄りを」
「考えておきます」
「お気をつけて」
遠慮がちに手を振る女童。
鹿の子が大きく手を振り返し小屋を出ると、外には別世界が広がっていた。
小屋の下に流れるは小川。辺り一帯を覆っていた深雪は溶け消え、目が潤うほどの緑が生まれている。今にも崩れ落ちそうな階段を下れば、岩山の陰からは花々が顔を出していた。
唐かさが乗ってきた北風は、南風と肩をすれ違えたようだ。汗ばむほどの強い陽射しのなかを生温い風がそよぐ。
「きれい……」
「ああ、本当に。夢のようだ」
月明が並ぶと鹿の子のおでこに影が落ちた。月明の影ではない。大きな大きな、穴だらけの影。
「唐かささん」
「陽よけになってくれるようです」
「まあ、では相合い傘ですね」
鹿の子が嬉しそうに笑うので、月明は唐かさのように目をぎょろつかせた。
「やはりこれは夢では。いや、死後の世界やもしれぬ」
「またつねりましょうか」
「遠慮します」
山道に繋がる獣道はしっかりと土で固められている。可愛らしい兎が横切れば、目を覚ました蛇が鹿の子の頭上の枝を伝う。
「きゃあ――!」
「鹿の子さんから、鹿の子さんから、私にしがみついて」
「にょろにょろいや、にょろにょろいやぁ!」
「鹿の子さん、見て……!」
山道に突き当たれば、望める下界。眼下はより緑深く、花々しい。まるで囲炉裏の火が山の雪をすべて溶かしてしまったようだ。風成の街はふたりを祝福するように桜で彩られていた。
「なんて美しいんでしょう」
月明は鹿の子の肩を抱き、足を止めさせた。
「ますます夢のようだ」
「はい。ほんまに」
「鹿の子さん、私はもう長いあいだ春を見て来なかった」
景色を目に焼き付けながら、過去に思いを馳せる。
月明は父と母を亡くした季節を憶えていない。もちろん命日は胸に刻印されているが、月明にとってそれはただの数でしかなかった。
ふたりがこの世を去った夜――本家では不浄とされる葬儀を挙げることができず、父と母の神葬祭は阿倍野家の当主が仕った。その帰り道、暖かかったのか寒かったのか、雨が降っていたのか晴れていたのか。道々にはなんの花が咲いていたのかなど、てんで憶えていない。
翌朝には父が居た高座に座り、主上に跪いていた。
重圧などない、されとて充足感もない。誰のためでもなく、ただ目の前に置かれた責務をこなした。一日の楽しみであった菓子も、ちっとも美味しくなくなった。
あれからずっと世界は薄暗く、味気なかった。
「唯一心の拠り所であった小夜を失い、ついには足元まで見えなくなっていたよ」
月明は不安気にみつめてくる鹿の子を強く抱き寄せ、冬を終えた山の空を望んだ。
長い長い冬だった。
冬眠したリスのように心は目を瞑り、うずくまった。
なにも感じられない心に灯りが射したのは何時だったろうか。真っ暗闇のなか、月明かりに照らされた初夜の鹿の子を思い出す。
直会の漆椀は傷ひとつない朱色で、丁寧に手入れされていると気付いたのは、はじめて鹿の子の菓子を、すずし梅を食したときだった。
菓子を食べるたびに色付く参道。
かまどの煙を朝廷から望むようになると、毎日の空模様が気にかかった。
「そしてこぼれ萩を食べた夜更け、……ようやく、花の美しさを思い出した」
心に張っていた氷が溶けると、溜めていた涙が溢れた。涙と共にこぼれ落ちる想いが怖くなり、必死に抑え込もうとした。
幸い冬がやってきていた。
鹿の子と向かい合う日は寒さで氷を張り直し挑んだ。
落雁を食し、それは浅はかだと悟った。
「白状するとね、久助しか見えていないあなたの目をこちらに向けさせようと、髪を切ったんだ」
あどけなく笑い、少し伸びた前髪を摘まむ。
鹿の子が久助の延命を施した後、少しは神と張り合ってみようと思った。その一方で、薄っすらと頭に浮かべていた。
鹿の子の心が揺るがないまま、久助が寿命を迎えたら――身体をくれてやろう、と。
その前にやるべきことを終えようと砂崩の陥落を急ぎ、先代の遺言通りに先帝を滅した。
遠征から帰ればまた様々な難題が待っていたが、嬉しいことに鹿の子は月明と久助の区別がつくようになっていた。
薬師の存在を忘れる程度には浮かれた。
それでも鹿の子は久助を望んだ。
鹿の子の心は久助から離れないと悟り、月明は自分の引き際を悟った。
「あなたと久助に小御門家の未来を託すことが、私の最後の責務だと感じた」
冬は明けなかった。
「私の人生は小夜を失った時点で終わっていたのだと、久助に身体を譲ることが運命だと、本気で思っていた」
何事もなく時が来れば、久助に命じていた。未来を捨てた月明の未来は小薪の目に映らなかった。
栗鹿の子の誘惑に負け、得たのは甘美な夜。失ったのは身体を譲ってまで現世にとどめようとした式の神――。
月明は息をしていることさえ恥ずかしく思うほど自分を憎んだ。早く消えてしまいたかった。
鹿の子がもう一度つねりたそうな顔で月明を見上げる。月明は苦笑い。
「もう目は覚めたよ」
「ほんまでしょうか」
「大晦日も夢のような一夜だったけれど、糖堂家のお正月も素晴らしかったなあ」
せめて鹿の子にとり憑く荒神を追い払おうと寄り道したのに、役立たずもいいところ。
郷土文化に温かな家族。美味しいごはんと甘い菓子。
得るものばかりの正月だった。
「最後の褒美かと思えるほど、愉しい日々を過ごせた。思い残すことがあるとすれば、鹿の子豆くらいで」
「ふふふ、お豆好きの旦那様らしい」
「あれはまだあるかな。私の口に入る分、残っているかな」
「さあ、どうでしょう」
甘い声でねだっても、鹿の子はしたり顔で見上げてくるだけ。月明はお稲荷さまに平らげられてしまったのだろうと、すんなり諦めた。
また来年があるから。
思い切り息を吸い込み、希望に胸を膨らませる。今年は小豆の畑を倍に増やそう。夏にはふたりで小豆の花を見に行こう。
そうだ、帰ったらまずは花見だ。
桜が散り終える前にあか川まで牛車を出そう。厩舎で一番のろい牛に牽かせよう。なつみ燗のお弁当を持って。もちろん菓子箱付きで。
山から見下ろす桜がこんなに綺麗なのだから、見上げる桜もきっと素晴らしいに違いない。
何処を走ろうか、なるべく遠回りをしようと、月明は風成の街を指でなぞった。道を行く人々が宝石のように輝く。
「こんなにも美しい春ははじめてだ。あなたと見る、春は」
「春は毎年、やってきますよ」
「では来年も、再来年もずっと、私のそばに居てくれる?」
「さあ、どうでしょう」
ここでまた鹿の子はしたり顔。
「わたしはかまどの嫁ですから」
月明は半べそをかいた。
すると追い打ちをかけるように馬の蹄の音が近付いてくる。
月明ははっとして、鹿の子を抱く自分の手をみつめた。
「春は毎年やってくるけど、あなたとこうしてふたりきりで見るのはこれが最初で最後になるのでは」
今は眼下のお国。
山を下れば自分たちがお稲荷さまの眼下に入るではないか。月明はここではじめて、歳神の計らいを無駄にしたことを悔いた。
山を下りたらすべて夢であったなど、十二分にあり得る。
月明は鹿の子を再び強く抱きしめると、丁寧に断りを入れた。
「今、あなたの愛の証が欲しい」
「あかし……?」
「お稲荷さまの目の届かぬうちに」
そして鹿の子の小さい唇を優しくなぞる。
「嫌だったら、その」
鹿の子は月明の言葉を遮るように目を瞑った。
月明が初めて落とした唇は触れたか触れていないかわからないほど細やかなものだったが。
「愛しています。私のお嫁さんになってください」
その言葉のあとで、鹿の子は小豆の目を潤ませ、あまりに嬉しそうに頷くので、これにておしまいとはいかず。
「ヒヒーン!!!!!」
麒麟が猪のようにぶつかってくるまで、ふたりは唇をひとつにしていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
次章は姑対決です、よろしくお願い致します。




