十二‐囲炉裏
雪崩のような馬蹄のとどろきが消える頃、諦めたのか月明は鹿の子の腕に頭を預け、眠りに入った。鹿の子もあっという間にうつらうつら。疲れが細首にのしかかり、船を漕ぎ始めたので、女童が鹿の子に両手を差し出した。
「お眠りになる前に、羽織をお脱ぎください。月明様のぶんも」
そういや水を浴びてぐっしょり。月明の衣裳は滴るほど水を含んでいる。このまま眠れば風邪をひいてしまう、鹿の子は赤子にそうするように、ゆっくりと脱がせた。胸に手を当てれば、とくとくと鼓動が伝わってくる。
鹿の子は今を嚙みしめるように呟いた。
「旦那様は、生きてる……」
囲炉裏には先ほどまで水が張られていたとは思えないほど、煌々とした火が燃えている。火の灯りに照らされた板間は水を吸いとられるように乾いた。乾いたしりから女童がてきぱきとかい巻きを広げる。
鹿の子は女童に衣裳を預けると、赤子にそうするように、月明をそっとかい巻きの上へ下ろした。
「あなた様もお休みください」
女童のその言葉に安心すると、鹿の子もまた倒れるように眠り込んだ。
*
倒れた先は畳の上。
足を伸ばしたつもりが正座して茶炉に向かっていた。
茶釜はいつもの、半年使い古した茶室のもの。
客座を見やれば、
「胸にぽっかりと、穴が空いたようじゃな――」
哀愁を帯びた姫君が春の壺庭を眺めていた。
「炉さんではないですか」
「恋を諦めた妾はこれからなにをみつめ過ごしていけばよいのか」
「甘いもんでもいかがですか」
「食に溺れるか、悪くはないな」
庭の桜から離した目を畳に移す。
畳に置かれている菓子は、くるみゆべし。
「これは、ラクの好物ではないか!」
「黒蜜がお好きなら、黒砂糖もお好みではないかと思いまして」
「うっ、うっ、ラク! ラク……!」
涙汲みながらくるみゆべしを食んだ炉は、その味わいに耐えきれず、溜めていた涙を流した。
芳ばしいくるみが胸を焦がし、懐かしい黒砂糖の風味がラクの肌を思い起こさせる。いちんち畑を耕して、焼けた男の肌を――。
「忘れたいのに、忘れたくない」
「はいはい、お抹茶ですね」
再び燃え上がる炎を消そうと抹茶を啜れば、口に残るのはほろ苦さ。密かに敗れた恋の苦味。
「やっぱり、あかん。食べても飲んでも、なにをしてもラクを想ってしまう」
「そういうものでしょうか」
鹿の子は不思議に思い、いつの間にか手のなかにあった、「こぼれ萩」を口へ運んでみた。繊細な菓子を豪快に噛みちぎったため、落ちた萩の花弁が懐紙のなかで踊る。
ラクというよりは、これは――。
「鹿の子は誰を想い、涙を流す」
「涙を。あれ、ほんまや」
ぶわり、溢るる青豆の香り。
いっしょに流れてくるのはお豆好きの、旦那様。
その想いは鹿の子の胸のなかで若々しく弾けた。
こぼれ萩は、そう――。
初めて旦那様のために作った菓子。
笊に泳ぐ青豆を見て、真っ先に旦那様が思い浮かんだ。旦那様のために仕込みたいと思った。あんなに美味しそうに豆ごはんを食べるんやもん、きっと菓子も気に入ってもらえる。旦那様の「美味しい」がいただける、そう思って。
しかし菓子箱の奥に待っていたのは「離縁」、いやそれ以上にぶ厚い隔たりだった。高座で話す月明は神様よりずっと遠い存在にみえた。
――あなたは、自由なんですよ。
その自由のなかに、当主の妻は居ない。
旦那様と菓子で分かち合える。
妻として寄り添える。
胸に揺れていた夢や希望が颯と引いた瞬間だった。
夜更けに鹿の子が押し付けた、こぼれ萩の菓子箱はけじめとなった。月明の立てた隔たりよりずっと強く頑なな。
旦那様は自分の雇い主。
決して、愛してはならない人だと。
押し潰していた想いが青豆の餡といっしょに押し寄せる。
ひねくれた自分は想いを跳ね除けるようにかまどにはりつき、久助さんを――。
「ちがう、わたしは、久助さんを」
「鹿の子は久助を好いていたぞ。月明の代わりなどではない。その想いは真っ直ぐだった」
「ほんなら、どうして」
「鹿の子は久助を好いていた。しかしそれは月明の一部であった。ほんの、一部じゃ。鹿の子は正月の薮入りで、いやそれより少し前から、月明という男の素顔を見てしまった。あとは、――わかるじゃろ」
「久助さんは、旦那様の一部……」
懐紙にこぼれた萩を摘み、口へ入れる。
鹿の子が見ていたのは美しい、一枚の花びら。
両親を、正室を失くした月明が冷眼の奥にずっと隠してきた素顔。
花びらは花からこぼれ落ちた素顔の一部。
花を見上げれば、爛漫に咲き誇っていたのだ。温かい笑みを浮かべる、子どものように無邪気な、旦那様が。
「なんじゃそのへんてこな顔は」
「炉さん、わたし」
「言葉にするなら、本人に言え」
炉は鹿の子の泣き笑いを見届けると、
「ごちそうさま」
実に羨ましそうに、かまどの煙に溶け消えた。
*
「ぎゃっ」
頓狂な声に呼び起こされ、鹿の子が目を開けるとかい巻きにぽっかり穴が開いている。まさかおひとりで下られたのではと、むくり起き上がれば、月明は囲炉裏の前で正座していた。
「旦那様、お身体はよろしいのですか」
「はい」
囲炉裏の火は衰えることなく燃え盛り、照らされた部屋は夜のよう。しかし外からは猛々しい川の水音と、賑やかな山鳥の歌声が聞こえていた。
蓑をかけるような簡素な釘にに飾られた豪奢な衣裳。火にあたる美太夫。まるでこっちが夢のなかみたいに、ちぐはぐな情景だ。
渇いた口のなかを唾で潤そうとすると、こぼれ萩が甦りそうで、鹿の子はやんわりと笑った。
女童は土間に居るのだろうか、寝てる間に帳で遮られ、姿が見えない。
鹿の子は再び月明へ尋ねた。
「どのくらい眠ってたんでしょうか」
「半日ほどかと」
「そんなに」
「まったくです。――はっ」
月明は奥にもたげていた首を半周させると、空を切るように鹿の子の手首を取った。
「冷たい……っ、部屋の中はこんなに暖かいのに。鹿の子さん、砂糖の補給を」
「は、はいな」
ずいぶんと痩せてしまった巾着袋の中から鹿の子が取り出したのはお馴染みのきなこ飴。月明が急かすので慌てて二、三粒頬張った。もごもご口の中で転がせば、手前からごくり、生唾を飲む音がする。
「旦那様も、どうぞ」
「いただきます」
月明は嬉しそうに懐紙を広げたが、一度水を含んで乾いたもの。しわくちゃのぼろぼろ。鹿の子はきなこ飴を月明の口元へ直接持っていった。
「はい、あーん」
「いや、それは久助だけに、しかしその、――あーん」
断れず開かれた口へきなこ飴を落とす。
精緻に閉じられた唇からは間もなく至福の声が溢れた。
「ああ……、美味しいな」
うっとりと瞼を伏せ、味わうその表情を鹿の子は食い入るようにみつめた。
「そんなに美味しいですか」
「はい。私が問いたいくらいだ。あなたが作る菓子はどうしてこうも、美味しいのか」
「きな粉を黒蜜で固めただけやのに」
「ええ、本当に」
頷いたが、すぐに首を振った。
「いや、黒蜜は鹿の子さんが研いで作ったのですから、そりゃあ美味しいでしょう」
月明が瞼を上げても、鹿の子は小豆の目をまんまるにしたまま、顔を逸らさなかった。こんなに長いこと目が合うのは初めてではないだろうか。
それでも鹿の子は月明の顔をみつめ続けた。月明の顔は真っ赤っか。
「鹿の子さん?」
「やっぱり。旦那様の美味しいは、ぽかぽかする」
「囲炉裏の火ではなく」
「心が、ぽかぽかするんです。久助さんといっしょ。ううん、それ以上に嬉しくて、震えるくらいに」
言葉通りに身震いした鹿の子は雨露を飛ばすおこじょのようであった。涙がはたはたと板間に散る。
「わたし、旦那様を愛してます」
三年前、几帳越しに憧れた月明ではない。
幣殿の高座ではなく、目の前に座る旦那様が。
鹿の子の眼差しが眩しすぎて、ついに月明から視線を逸らした。
「お待ちください。あなたには久助が居るでしょう」
「んでも、久助さんはわたしの旦那様への想いに気付いてたみたいです。わたしが気付くより先に」
「まあ、今やあなたの式神ですから。いや、しかし」
「困りますか」
「そうですね。私には小夜という、心に決めた正室がおりますから」
寸の間の静寂の後、ばちばちと囲炉裏の火がやじを入れる。
「あ、囲炉裏に吊るしてあるの、茶釜ですね」
鹿の子は茶釜を見つけ、ようやくかい巻きから足を出した。
「思てたよりずっと、ずきずきする」
「なんと、足を痛めておりましたか」
「いえ、心が」
「え」
鹿の子がてきぱきかい巻きを畳むと、申し合わせたように茶箱が膝元へ現れた。桐箱のなかには茶道具一式詰められている。なかなか良い塩梅の茶器をふたつ取り出せば、茶釜に柄杓がのった。茶釜から昇る湯気を見ながら満足げに笑う。
「そういえばわたし、この囲炉裏に沈む旦那様を見たとき、自分の心の臓も止まるかと思いました」
久助さんを失ったときとは違う。途方もない喪失感が襲った。失うのが怖くて、必死になって黒砂糖を押し込んだ。旦那様を失う自分が怖くて。
二度とあんな想いはしたくない。
忘れるように茶筅を振る。
「わたし、旦那様を愛しています。んでも、向こう見ずな旦那様は嫌いです。もう自分を犠牲になさらないでください」
それから夢のなかのことも話した。
炉はくるみゆべしを食べてラクを想い、自分はこぼれ萩を食べて旦那様を想ったこと。
野分のあとのこと。けじめのこと。
月明は今まさに苦汁ならぬ苦い茶を飲まされていた。
「起き抜けにお抹茶は効きますね。――ではなくて、その、あなたを突っぱねたくて側室のしきたりを教えたわけでは」
「ないけれど、わたしを避けてましたよね」
「それは、私のけじめであって」
「わたしもけじめがありました。それでもやっぱり、旦那様を愛してしまいました」
ずっ。
抹茶を啜りきり、茶器を外した鹿の子の顔はことの外すっきりしている。
「鹿の子さん」
「はいな」
「これは夢ですか」
「どうでしょう。わたしも定かではありません」
「それは困った。頬をつねってもらえませんか」
「はいな」
鹿の子の小さい指が月明の頬を這う。
うっとりしたのは寸の間、あまりに強くつねるので、
「いたたたただだだ」
「そんなに痛かったですか」
月明は子どものように涙を流した。




