十一‐久助
クラマの目に映る久助はどこからどうみても唯一無二の久助である。しかしそれは魂であって、狐の目に映る久助は久助ではない。
月明の目に映る久助は久助であるようだが、鏡を見ているようではなかった。
ましてや鹿の子の目に映る久助は、
「ほんまに、久助さん……?」
「はい。あなたの久助ですよ」
今生のものとは思えぬ可愛らしさであった。
鹿の子の小豆顔がぼっ、と煮え上がる。
声は玉鈴の音。
顔は月を水に浮かべたように青く澄み、眩い。
美しく垂れた髪は垂れみづら。両耳の下で結われたまあるいお団子には、煌々しい髪飾りが揺れている。
衣裳は真っ白な水干に紅色の括袴。華々しい矢羽根紋様は幼さを感じさせた。
クラマから降りて、きちんと座った鹿の子と久助の座高はいっしょ。鹿の子は大きな涙をぽろぽろとこぼしながら、明るく声を跳ね上げた。
「おかえりなさい……!」
「ただいま戻りました」
手を胸の前でもじもじ、もてあそんでいると、久助の手が掴み取る。前よりずっと小さく、変わらず、じん、と温かい。
鹿の子は今一度確かめるように手を握り返した。
「久助さん、可愛い。背、おんなじ」
「ありがとうございます。歳にすると十二、といったところでしょうか」
久助は元服前の、アカツキと呼ばれていた頃の月明へ姿を変えている。
「鹿の子さんが使役したから……? いや、しかし」
月明は遠目から首を捻った。
鹿の子は自分の幼少の頃を知らない。鹿の子の理想が叶うならば、以前と同じ姿で還ってくるだろう。鹿の子の力不足というよりは、久助自らが望んだ姿かもしれない。
手を取り合うふたりは微笑ましくなるほど絵になる。
月明は力なく独りごちた。
「お似合いではないですか」
依り代を拒まれたばかりか使役にも失敗したというのに、ずいぶんと余裕があり、冷静なものだ。そんな月明の様子をクラマや唐かさが訝しんでいると、身が引き締まるような冷気が流れ込んできた。どこに取っ手があったろうか、可愛らしい女童が容易く戸を引き、土間にたれ込んだ水を外に逃がしている。
先ほどまで部屋の片隅に置かれていた人形だ。
女童は乾いた目ん玉を瞬きで潤し、月明に焦点を合わせると、紅い唇を規則的に動かした。
「歳神さまからの伝言です。お主の望みどおりにはいかず、申し訳ない。と」
「ああ、いや。私の愚かさゆえ。未熟者で申し訳ありませんでしたと、お伝えください。歳神さまは今どちらに」
「南へ下っております。わたくしが留守を預かりました」
「南へ。――桜狩ですか」
「追って御報らせいたしまする。月明様もすぐに発たれるのでしょう。まずはしっかりお身体を温めていってください」
女童は垂れた頭をそのままかまどに突っ込んだ。
かちん、かちん火打ち石が激しく響く。はっ、と我に返ったクラマは火打ち石にあわせて「コン、コン」と、けたたましく吼えた。
すぐ発つというが、式神に身体を授けようとしていた人間が、何処へ向かうというのか。
月明はクラマの訴えをわかったように、はっきりとこう応えた。
「家へ帰るのですよ」
あまりにも不変とした態度であるがゆえ、クラマは呆気に取られた。
「そんなおかしな顔をしなくてもよいではないですか」
「コン! コン!(なにが可笑しな顔じゃ! こんなに可愛いのに!)」
「先ほど久助に聞かされたのですよ。小御門家の、お国の危機を。一刻も早く帰らねば」
月明は悔いるように目線を落とし、鹿の子や久助にも聞こえる声で語った。
「賀茂乃家の謀反は私にも見えておりました。これはのちに南の方や、賀茂乃家の道を正す。小薪さんの名をあげるためにも避けられませんでした。しかしその裏でお目付役の封印が解かれていようとは」
月明が崩した小社は封印者が現世を去っても何百年、何千年と開くことのない呪印で封じられていた。これを誰にも悟られることなく破り、消えた人間がいる。これには神送りのあと、天界で忙しくしていた歳神も気付けなかった。
総ては虫の報らせ。
クラマが雪の小社の跡を掘り起こさなければ知られることはなかった。知られることになっても、それは月明が現世を去ったあと。
しかし今日になって、小御門家の側室があまりにも騒がしくするので、興味本位で下界を覗いた神々はびっくり。歳神も見過ごせぬ未来が待っていた。
小御門月明を今、失ってはならない。
歳神は月明の延命を久助に託し、自らも下界に下った。
「すっかり頭から抜け落ちていました。――例の、薬師のことを」
久助を失い、盲目であった自分を恥じ月明は顔をいがめた。
自分の封印を解ける人間は国中の陰陽師を思い巡らせても、ただひとり。
雷神を操り、小御門家を火祭りにした憎き薬師。本来ならば素性を調べ、敵討ちにしてやろうと企むところ、色々ありすぎた。本当に、色々と。
思い起こし突っ立ったままの月明へ、唐かさが帰るなら付き従いましょうと、足首をくねらせた。
「唐かさ、お前は小薪さんに言付けられ、ここまで参ったのでしょう」
唐かさがうひゃあと頷く。
未来を読んだ小薪がなんとしても月明を帰らせようと考え抜き、唐かさを差し遣わせた。
あか山の道はクマの足でも間に合わない。周りの妖しを見渡し、頭に浮かんだ風。この春最後の北風が南に向かって吹いている。北風にのった唐かさは半日もかからず歳神の小屋に着いた。導いたのは歳神だ。
唐かさは骨を閉じればちいさい水汲み口もすんなり。鹿の子といっしょに入り込んだという譯だ。
唐かさが得意げにない鼻を鳴らすので、月明はおでこらへんを指で突いた。
「まったく、余計な真似を。お前が邪魔をしなければ、私が以前と同じように久助を使役していたのに。これでは鹿の子さんの負担が増えるばかりだ」
「そうなんですか! 申し訳ありません……!」
うひゃあ、目をぱちぱちする唐かさの背後で、余計なことをしてしまったと、鹿の子は月明へ深く頭を垂れた。
あろうことか当主の式神を横取りしたのだ。自分の負担は一向に構わないが、自害するつもりがなかったのならば、叫ばなかった。
久助が鹿の子の頭を上げさせる。
「これでよかったのですよ。私はもう、旦那様の天邪鬼に付き合うのはこりごりです」
あからさまにむ、とする月明。
「嫌われたものですね」
「後でまた身体を押し付けられても困りますしね」
「なるほど。ならばこれからはしっかりと御用人を務め上げなさい」
当主とその元式の神が火花を散らしていると、その膝元に白い湯気の立つ湯呑みが配られた。数はみっつ。
久助が女童に尋ねる。
「表にも人間がおります、淹れていただけないでしょうか」
「申し訳ありませんが、湯呑みはこれだけ。それに表に居られる方こそ一刻も早く帰られたほうがよろしいかと」
女童の水晶玉の目ん玉が開いたままの戸口へ動く。敷居の外には真っ白な和紙に紅を落としたような、鮮やかな血が滲み、広がっていた。血塗られた浄衣に身をくるんでいるのは――ラク。
雪に沈んだラクの手の先には、返り血に染まる派手やかな衣裳が雪風に揺れていた。
雪は雪でも、妖狐の雪だ。
月明は美しい顔に青筋を立たせた。
「おのれ女狐、私の大事な侍従までも、よくも……!」
雪に立ち向かおうと月明が足を差し出すが、意に反し膝が崩れその場に手をついた。女童が「動けるはずがございません」と自分が淹れた茶を啜る。
「侍従……、ラク……? ラクが、どうしたん」
鹿の子の目は久助の胸に遮られ、みえるのは真っ暗闇。
戸口に立ったのはクラマであった。
『ラクを、こんな目に合わしたんは、おかんか』
母にはわかるのだろうか、雪はクラマの心の問いかけに応じた。
「どけと言うに、どけへんからや。死に急ぎおって」
手を払えば鋭い爪先から血が花火のように、ぱっと散る。その紅い道はクラマの前足にまで届いた。
「まぁいい、役目は果たした。行くとするか」
クラマは毛を逆立てることなく、尻尾の力を抜いて立っていた。ただ目だけは、目ん玉が飛び出そうなくらい見開いている。
現実を、母の総てを必死に受け止めるように。
「キュウ(どこに)」
次には弱々しく、鼻で鳴く。
雪はそんな愛らしい狐を、ぼろ雑巾を眺めるかのような目で見下した。
「しかし薄汚い狐だこと。うちの息子とは大違いや」
そう言い捨てると金銀爛漫な扇子を開き、風を起こす。舞い上がる粉雪のなか、雪の艶やかな衣裳は消えていった。
*
久助の手による応急処置が終わると、ラクは麒麟の首に抱きつく格好で縛られた。そしてその腕のなかには桜華が。ふたりの意識はない。袖から覗く桜華の手の甲には尻尾を叩きつけられたような、痛々しい傷が入っていた。
「呪印に見えます、解明を急がねば。ラクさんの失血も酷い」
「コン、コン(わしも、行く)」
クラマは鹿の子の御饌装束を選ばず、久助の括り袴に擦り寄った。
風成の外ではなにも見えない。これほどもどかしいことがあろうか。早く帰って、母の拠り所を知りたい。何故このような働きを自分に見せたのか、そしてこれから何を起こそうと言うのか。
正気でやっているのか、いないのか。
――それに、たまには月明に猶予をやろうと思う。
戸口の奥で情けなく這いつくばる当主と、その肩に小さい手を添える鹿の子を一瞥すると、久助へ『はよ抱け』と吠えた。
「一寸、待っていただけますか」
久助はクラマに断りを入れると、軽やかに足を弾ませ小屋へと戻った。それから鹿の子にそっと耳打ちをする。
「想いを伝えて、帰って来てください」
「想い……?」
「これから旦那様は休む暇なく、私が担っていた分まで、盛大に働かなくてはなりません。どうか憐れな旦那様に、気付け薬を」
「久助さ――」
「久助、とお呼びください。それでは」
鹿の子の唇に指を添え、にたり。
月明の悔し気な顔を拝み満足すると、颯と外へ飛び出した。
「着き次第、麒麟様には再びこちらへ向かっていただきます。旦那様はそれまでご静養を」
久助の愛らしい目配せに、鹿の子は苦笑い。その姿は降り注ぐお日さんのように眩しい。
さて久助がクラマを抱けば、尻尾を引きずる。そのまま尻尾の尾を道しるべに残し、下山道を目指した。




